妖刀
「“妖刀”を実際に手にとって、ご覧になったことはありますかな?」
――全てのきっかけはその一言だった。
――そこは駅前の、小さなバーだった。値段は少し張るが、店内は小綺麗で雰囲気も落ち着いている。五月蝿い所が苦手な私は仕事帰り、毎日のようにこの店に通っていた。会社の同僚たちからの誘いを断りきれず、安い居酒屋で不味い酒を飲み、悪くなった気分をここで清めるのだ。
控えめなJAZZの流れる店内。グラスを濡らし、喉を焼くウイスキー。カウンターの一番端を“いつもの席”に決め、毎晩一人で飲んでいた。これが、私の癒しになった。
――マスターに顔を覚えられ、「いつもの」でオーダーが通るようになった頃、店内ではマスター以外の顔馴染みができた。私と同じように、“いつもの席”が決まっている客。
その老人は混じり気のない白髪を綺麗に分け、いつも落ち着いた色味の和服を着ていた。目を凝らせばその生地にも細かい模様が浮かんでおり、毎回見るたびに違うその服は色味こそ地味に見えて、相当良いものなのだろうと思われた。顔には皺こそあれど、目に覇気があった。その印象はまるで企業の元社長か、その実力を認められた芸術家、文豪――もしくは現役を退いた名俳優のような、そんな雰囲気を醸し出していた。
「いいお召し物ですね」
ある日、酒の勢いもあってずっと気になっていたことを言った。彼は少し驚いた顔でこちらを向き、ニコリと笑うと、
「ほぅ、わかりますか」
と、嬉しそうに言った。
その老人は名前を、高柳蓮清と名乗った。やはり企業の元社長、創業者で、今は会長職についているらしい。……といっても会社はもう息子に任せ、今はたまにアドバイスをするくらいなのだ、と彼は言った。今は趣味の骨董に精を出し、隠居生活を楽しんでいるという。
「……この良さがわかるとは。お若いのに感心ですな」
今年三十二歳になる私は、こうして年齢の倍違う友人を手にした。
その日から、その店で彼に会えば一緒に酒を飲み、話をした。人生経験の豊富な彼の話はいつまで聞いていても飽きることがなかった。素晴らしい友を、先生を見つけることができたと、私は喜んだ。彼の方としても、話し相手ができて嬉しいようだった。そして、ある日彼の骨董についての話を聞いていても、その話題になった。
「“妖刀”を実際に手にとって、ご覧になったことはありますかな?」
“妖刀”……? 唐突なその言葉に、私は狼狽えた。学生時代に剣道を嗜んでいた私ではあったが、“妖刀”はおろか、本物の“真剣”を手に取ったことすらない。
正直に「ありません」と答えると、彼は微笑みながら言った。
「今から私の家にいらっしゃい。本物の“妖刀”を、見せてあげましょう」
*
想像してはいたが、やはり立派な家だった。
店を出てすぐ目の前に黒塗りの高級車が止まっていたのにも驚いたが、その家の大きさにはもっと驚いた。高い塀はどこまでも伸び、夜の闇で終わりが見えない。立派な門をくぐると、玄関までが遠かった。その間、彼は庭に生えた立派な木々について説明をしてくれていたのだが、上の空で聞き流してしまっていた。いつも落ち着きを忘れない私も、流石に緊張してしまっていたのだ。
大きく広い和室に通され、そこで待つように言われた。新鮮さを保った畳の黄緑が眩しく、これらも相当な高級品なのだろうと、畳を眺め、撫でた。庭に目をやると、薄暗い中にひっそりと、絶妙な角度で枝を曲げた木々たちが立っている。
――少し待つと、彼が廊下の向こうから歩いてくる音がした。その場に座り直し、姿勢を正して待つ。
彼は黒く細長い袋に入ったものを、両手で恭しく掲げ、持っている。
「これが“妖刀”――『深水』」
彼は私の前に座り、そう言いながら袋の口を解いた。中からスルリ、と日本刀が姿を表す。
それは時代劇などで見た日本刀、そのものだった。おかしなところは一見無い。ただ、持つ部分――柄から鞘まで、黒一色だ。反り返るその身の長さは、一メートルもないくらいだろうか。
彼はそれを、何の説明も無しに渡してきた。――これをまず私は疑問に思った。今まで酒を飲んでいる時、骨董の話をする時には、彼はその品の作られた背景、作者の人生、それが自分の元にやってくるまでを、細かく説明した。だから今回もいつものように、説明から入ると思っていたのだ。彼は何も言わず、私に手袋もさせずに無言でそれを渡してきた。私はそれを、妙だと思った。。物音一つしない部屋の中で、私はそれを手に取った。
それは思っていたより、ずっしり重かった。時代劇のチャンバラで刀を軽々振り回していたのは嘘だったのだと、この時思った。
つやつやと光る鞘を見、柄を見、握る。すると、トクンと胸が鳴った。――あぁ、とんでもないものを手にしている。と、この時初めて思った。
その身を見ようと、ゆっくりと――引っ張った。
そして思った。(あぁ……なんて……! 美しい……!)
(――なんなのだろう、この輝きは! ……初めて見た太陽の輝きですら霞んでしまうほどに、眩しい。……この磨かれた刀身は、自分の顔すら写してしまうんじゃないだろうか。どうして金属がこんなに光る――⁉︎ ……濡れているのか? この鞘の中には、“水”が満たされているのだろうか? ……いや、そんなはずはない。……そんな話は、聞いたことがない! 今、彼が濡らしてきたのだろうか……? そう疑ってしまうほどの、“艶”だ。アァ……これは人を“斬る”ために作られたのか。この銀色に輝く刀身は、どんな風に人の身を裂くのだろう。その時、この刀身は血を弾くのだろうか……。どんな風に濡れるのだろう……! あぁっ……‼︎ この刀が人を斬るところを見てみたい……‼︎ その時、どんな風に輝くんだ‼︎ こいつは! この刀は‼︎ ……あわよくば……私が斬りたい。斬らせてやりたんだ……! この刀に……。だって、この刀は人を斬るために生まれてきたのだろうッ⁉︎ そんな……! あんまりだ……‼︎ このまま眠り続けたままだなんて……かわいそうじゃないか‼︎ 私が……使ってやりたい……斬らせてやりたい……この刀のためにだ……‼︎ 決して、私の私欲のためではない! ……なぜ人を斬ってはならないんだ……⁉︎ そもそもだ! じゃあなぜこの刀は存在している‼︎ 斬るためだ‼︎ 斬るべきなのだッ‼︎ この目の前にいるジジィを斬り倒し、駅に行くんだ‼︎ そして電車に乗り、まずはあの下らない会社の連中を片っ端から――)
「さて」
――彼が言った。我に返ると、私は肩で息をしていた。ハァー、ハァー、という荒い息を、少しの間自分のものだと気がつかなかった。
そして、刀を抜ききっていた。それを天井に突き刺そうかというほどに掲げ、見上げていた。
「あっ……! もっ、も、申し訳ありませんっ!」
自分の行為に気づき、刀を慌てながらも鞘に戻した。
――自分が何をしていたのか、全く自覚がなかった。
「どうでしたか」
彼が言った。私は下を向いたまま、「……とても、美しかったです」と答える。すると、彼は返す。「違いますよ。刀のことではありません」。そして、続けた。
「あなたの“心中”ですよ」
私は何も言えず、ただ彼を見つめた。彼は手にした刀を少しだけ抜き、その光に目を細めた。
「――それが、“妖刀”の“妖刀”たる所以です」
そういうと、刀を鞘に戻した。
キン、という甲高い音が、広い和室にに響き渡った。