十分後、彼と彼女は。
「あと十分で私をその気にさせてみてよ。もし出来なかったら、すぐにここから飛び降りて死ぬから」
長くてきれいな黒髪をビル風にたなびかせながら、彼女はそう言いきった。
冗談じゃない。あと十分? たったそれだけの時間で彼女の自殺を思いとどまらせろと?
たった一歩踏み出すだけでほぼ間違いなく死に至るだろうまさに死の境界線から、彼女は意思を変えることなどあり得ないと言いたげに僕を睨みつけていた。
「どうしたの? 私を止めるためにここまでやってきたんでしょ? どうして黙ってるの?」
「……いや、そんなこと、言われても……」
「大体あなた誰よ? 正義感を振りかざすただのお人好し、……にも見えないわね。体格も並だし、説得が上手そうにも見えないし。こういう役割に選ばれるようには到底思えないけど。って言うか、むしろ対極。自殺者と一緒に自殺しちゃうような貧弱な感じに見えるけど」
――驚いた。彼女はこういう人だったのか。人を見た目だけでズバズバと切り捨てるようなそんな人だったのか。外見は大人しそうな印象なのに。やはり人は見た目だけではわからないものだ。
そう、僕と彼女がこうして顔を向き合わせて話をするのは今回が初めてだ。いわゆる初対面というやつ。
そんな僕がどうしてこんな役割を任されてしまったのだろう。人助けなんて僕のガラじゃないのに。それもこれも全てあの一言のせいだ。ついうっかり漏らしてしまった、あの致命的な一言のせいだ。
『あ、あの人、毎朝見かけるあの人だ』
上空を見上げる人の群れの中、いくつもの視線の先にいるその女性を見てつい呟いてしまったその一言。それをどう勘違いしたのか、あの自殺しようとしている女性と僕が知り合いだと皆がそう思い込んでしまった。
『あなた顔見知りなら止めてきなさいよ!』
『知り合いがあのまま死んでもいいのか?』
『早く行けよ! お前、彼女と親しいんだろ!?』
一言も顔見知りだとも親しい仲だとも言っていないのに、ものの数分で僕と彼女は親友だとか親戚だとか元彼女だとかそんな関係にまで仕立て上げられてしまった。
確かに僕は彼女を知っている。毎朝同じ電車で見かけるきれいな女性。たったそれだけ。何の面識も会話も視線すら合わせたこともない、赤の他人。名前も年齢も一切知らない女性を助けるために、僕はこうしてビルの屋上までやってきているわけだ。
まったく、人助けなんてガラじゃないのに。
「――あと五分。あと五分したら、飛び降りるから」
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな、困るよ」
「なんで困るの? 目の前で死なれたら夢見が悪いから? それとも何か別の理由があるから?」
「…………」
「……はぁ。もういいわ。じゃあね」
「――ッ! ま、待って!!」
驚いた。彼女も相当驚いた表情をしていたけど、僕自身もかなり驚いていた。
まさか僕のノドからこんな大声が出るなんて。もしかしたら、今まで生きてきた中で一番の大声だったかもしれない。あ、でも子供の頃のことはあまり記憶にないから一番かどうかはわからないか。
……いや、そんなことはどうでもいいや。重要なのは、彼女がその大声のせいで話を聞いてくれる土台ができたことだ。
「き、君はどうして、じ、自殺なんて考えるの? 僕みたいな冴えない奴なら、いろんなことに失望して自殺、なんてよくあることだろうけど、君みたいな、き、きれいな人が自殺なんて、その、なんて言うか、……もったいない」
その瞬間、彼女の豊満な胸が目に飛び込んできた。あ、いや、飛び込んできたって言うより、つい直視してしまっただけなんだけど。きれいな顔だけでなく、この人はスタイルまでいい。僕が彼女の顔をよく覚えているのは、つまりはそういうわけで。
視線を少し上に逸らすと、僕がついさっきまで胸を凝視していたことを軽蔑するかのように、冷ややかな視線で僕を貫く彼女の瞳があった。
「……男って結局はみんなそっちなのね。一緒にいるだけで満足だとか、一生幸せにするとか、口ではそんなこと言ってても結局はそれしか頭にないのね」
「え、いや、その」
「セックスさせない女は用なし? 必要ない? 一緒にいる価値もない? ――ふざけないで! それだけの理由で五年も付き合った彼女を捨てることなんて、男からしたら当然のことなの!? あり得ない!」
僕の嫌らしい視線は、どうやら彼女の自殺の原因の核心をついてしまっていたらしい。
ようするに、彼女は捨てられたのだ。五年付き合っていた彼氏と別れてしまって、それでヤケを起こして自殺しようとしているんだ。
それにしてもどういうことだ? セックスさせない? なぜ? それこそあり得ない。彼氏に同情してしまう。
あんなきれいでスタイルのいい女性と付き合えるなら、どんなにバラ色の人生だろう。毎日だって愛し合いたいと思うだろうし、常に触れていたいと願うだろう。あんな柔らかくて暖かな胸の中で毎日眠りにつくことができたなら、僕はどんな理不尽な目に遭わされたとしても幸せな人生を送れると自信を持って言えるだろう。
それがどうだ? セックスさせない? ひどすぎる。生殺しだ。何を思って彼女はそんな苦行を彼氏に強いていたんだ?
「セ、セックスをさせないってのは、ど、どうして?」
「……痴漢のせいよ! 私はね、この一年毎朝毎朝同じ痴漢に狙われてるのよ! 思い出すだけで鳥肌が立つ、肌に触られたりなんかしたらもう耐えられない! あの痴漢のせいで、彼に抱いてもらうことすら出来ない身体になっちゃったのよ!」
彼氏に苦行を強いている理由を訊いたつもりだったんだけど、彼女は自分がそういう身体になった理由を答えていた。
誰かに訊いて欲しかったことだったのか、彼女は爆発したように見ず知らずの僕に不満をブチまけ始めた。
「それまでは彼とも順調だったのに……、あの痴漢のせいで私の人生メチャクチャよ! 私の悩みを聞いてくれない彼にも、毎朝いやらしく胸ばかり触ってくるあの痴漢にも、もうウンザリ! ノイローゼ気味になって自分の身体までキズつけたって言うのに、それなのに彼は私が浮気してるなんて意味のわかんない勘違いするし、誰に相談しても解決なんてしてくれないし! 私が何したって言うのよ! もうイヤ! 何なのよコレ!」
叫びながら、彼女は泣いていた。
彼女はもう僕など見ていなかった。誰でもいいんだ。ただ、自分の境遇を叫びたいんだ。こんなに理不尽な目に遭っているのにどうして誰も自分を助けてくれないのかと、心の叫びを吐き出してるんだ。
この人は、僕と同じなんだ。
理不尽な人生を嘆いているその姿は、いつも誰かに流されて生きている僕自身の姿と何も変わらない。同じなんだ。
今、この瞬間初めて――人生で初めて、かもしれない――人を救いたいと、心から思えた。
「僕だってそうだよ。人生なんて元からメチャクチャだし、誰かのせいにして自分の不遇を嘆いて、他のみんなだってそうやって生きてる。君だけじゃないよ」
「…………」
「メチャクチャな人生だけど、それでもたまにはいいこともあるよ。生きがいって言ったら言いすぎかもしれないけど、それだって生きていく理由にはなるし。君は身体も心もキズついたままかもしれないけど、それだっていつかは癒えるよ。その右胸についているキズだって、大好きな彼氏と別れた心のキズだって、いつかはなくなるから。だから、その、……死ぬのは、もったいないこと、だと思うんだ」
涙で潤んだ瞳が、まっすぐに僕を見つめる。思えば、彼女が僕自身をちゃんと見たのはこれが初めてだったのかもしれない。
さっきまでは「誰、こいつ?」とか、軽蔑しているような視線だったその瞳が、何かを見据えるような目に変わっていた。
「……そうね。今ここで死ぬのは、確かにもったいないわね」
「そ、そうだよ! 君は僕と違ってきれいなんだし、そんなひどい彼氏なんかよりよっぽどいい人がすぐに見つかるよ!」
「……もう見つけたかも」
「え?」
そう言って、彼女は僕に手招きをした。
まるで内緒話でもするかのようなその仕草に、思わずドキッとしてしまった。自慢じゃないけど、どちらかと言えば卑下なのかもしれないけど、女性にそんな仕草をされたことなんかされたことはない。……やばい、表情がゆるんでしまいそうだ。
促されるままに彼女のもとへ。柵越しに差し出された手を強く握る。彼女の瞳にはもう涙はなく、何か別の、強い意志が灯り始めたように見えた。
「……ちょうど十分。絶対に死ぬつもりでいたけど、本当に十分で私の気を変えちゃったのね、あなたは」
「あ、あはは。思い直してくれたんだ?」
「そうよね、私が死ぬことないのよね。――死ぬのは、あなたであるべきよね」
次の瞬間、僕の身体は柵を超え、死の境界線を越えていた。
彼女の手に引っ張られて柵を越える瞬間、彼女と視線が交わった。
それは怪訝な視線でも軽蔑の視線でもなく、ただただ、憎悪の視線だった。
「キズのある箇所なんて、触ったことがある人くらいしかわからないわよね」
浮遊感と恐怖が身体を覆い尽くしていく中、彼女にかけた言葉を思い出す。
――ああ、あの言葉のせいだ。あの言葉のせいで、彼女にバレてしまったんだ。
どうにも今日は厄日のようだ。もしかしたら朝のワイドショーの占いとかに『発言に注意』なんて注意事項があったのかもしれない。
やっぱり、ガラでもないことはするもんじゃないね。あはは、は――。
(終)
読んでる最中に物語の真相がわかった方や、結末を読んで真相がわかった方はその視点で最初から読んでみると違った意味で話を楽しめる、……かもしれません。