第九章 「裏サイト(続き) 第十章 「発覚」 第十一章 「再会」
青春の岐路(五)
第九章 「裏サイト(続き)」
折見綾は顔を伏せている。
剛志は、ドギマギして、口がきけない。
折見は、一旦、顔を上げ、黒目がちの目を向けたが、また、俯いてしまった。
「ど、どうしたんだよ? あいつらと・・・何か、あったんじゃないのか?」
折見は、思い詰めたような顔を上げて、頷いた。
剛志はドキッとした。
あいつらと何があったというのか。
折見は、足下の補助バッグから、ケータイを取り出すと、何も言わずに、操作を始めた。
目当ての画面が出たのか、それをそのままにして、ケータイごと剛志に渡した。
そのメールらしい画面の文字を見て、剛志は目を剥いた。
成人の男、私服、ラブホテル・・・
剛志が、顔を赤くして、困惑していると、折見は、自分の陥っている事態を説明するためにケータイ画面を見せたようで、剛志が耳を疑うような話を始めた。
自分のメールアドレスは親しい友だちしか知らないはずなのに、三年生の男子生徒からメールが入るようになって、それが頻繁になっている。最初は、君が好きだ、とか、付き合ってくれ、とか、返事をくれ、とか、そういう内容のものだった。
返事のしようがないので、返信をしないでいると、可愛い子ぶってる、とか、お高くとまってる、とか、いい加減にしろ、馬鹿にしやがって、とか、だんだんエスカレートして、このごろは、なんでこんなことを、と目を疑うような内容のメールが来るようになった。 このメールも、その一つだ。
こんなひどい誹謗中傷は自分宛のメールだけだと思っていたが、最近になって、裏サイトにも似たようなことが書き込まれていることを知った。
ひどいショックを受けて、こんなことをする理由は何だろうと自分なりに考えてみた。
メールに返事をしなければ、裏サイトの書き込を止めないぞ、止めさせたければ、返事をしろ、と脅しているつもりなのかもしれない。休み時間などに教室に来るようになったのも、その嫌がらせの一つだと思う。 学校の外で待ち伏せされていることもある。
相手のことがよくわからず、誰かに訴えたりしたら、どんな仕返しをされるかわからないので、まだ、誰にも話していない・・・
折見は、そんなことを一通り話してから、村山君に話しても、どうにもならないと思ったんだけど、と言うと、泪目になって、俯いた。
剛志にとっては、話の内容も衝撃的だったが、成績がよくて、沈着冷静に見える折見が泪目になって訴えている、その事実の方がより大きな衝撃だった。
情報源はわからなかったが、三年生も剛志に手出しをしないという噂が広まっていたので、折見も、そんな噂を耳にして、打ち明ける気になったのかもしれない。
しかし、この際、そんなことはどうでもよかった。
剛志は猛烈に頭にきていた。
「相手はわかってんだろう? 名前を教えてくれ」
「坂中、敏夫・・・」
折見はすぐに名前を明かしたが、追っかけるように、言った。
「気にしなくていいのよ。どうにもならないとわかってるの。村山君に話だけでも聞いてもらって、気持ちが楽になったわ・・・自分でどうにかするわ・・・私が、形だけでも、誘いに乗ればいいんだから・・・」
気にするな、と言われても、こんな話を、それも折見に聞かされて、平然としていられるわけがない。それに、誘いに乗る、とはどういう意味だ!
前方の家庭科準備室との境目のドアが開いて、家庭科の教師・森山晴美が顔を出した。
森山は、二人がいるのに気づいて、びっくりしたような顔をした。
折見が、あ、先生、と言って、すぐに立ち上がった。
戸惑っている剛志に、小さく頷いて見せてから、森山に笑顔を向けて、
「先生に用事があったんです、すぐ行きます」
と、言った。それが自然に聞こえて、すぐに準備室へ向かったので、ほんとに用事があったとしか思えなかった。
折見は職員たちに抜群の信頼があった。折見の言い訳が通じないことはないだろうと思われた。
その場は、それで終わったが、収まらないのは剛志だ。
何か方法を見つけようと焦った。
坂中は、梶原らとは違った意味で、不気味だった。仲間の上級生たちも、一癖ありげで、得体の知れない連中に見えた。
2
自分一人ではどうにもならなかった。
竹岡里沙が『絆』に『裏サイト班』があると言ったのを思い出した。
こういう場合に乗り出してくるのだろうと思ったが、里沙は『絆』の連絡先を教えてくれなかった。
こうなると、やはり、吉井を頼るしかない。
吉井が関わることになれば、騒ぎが大きくなることを覚悟しなければならなかったが、そんなことに拘ってはいられなかった。
吉井に事情を話す時は、話に尾ヒレをつけた。
直情径行型の吉井の義侠心に訴える必要があると思ったからだ。
「ひでえ野郎だな」
「そうなんだが・・・」
「ん、どうしたんだ? 何か都合の悪いことでもあるのか」
「そういうわけじゃないが・・・そいつは、腕っぷしが強そうで、厄介なやつなんだ。仲間も不気味な連中で、悔しいけど、おれにはどうしようもない」
吉井の目が光った。
「情けねえ野郎だな。放っておくつもりかよ」
「そういうわけじゃないけど・・・」
「何を迷ってるんだ?」
「何か方法があるか?」
「二度とそんなことをする気を起こさせんようにすればいいじゃないか」
「それはそうだが・・・で、どうすればいいと思ってるんだ?」
「グーの音も出ないほど叩きのめしてやればいいじゃないか。他にやりようがあるか?」
吉井は、事も無げに、言った。
予測していたことだった。
とは言え、実際に言われてみると、改めて、強い不安に襲われる。
吉井は、剛志のそんな心の中の動きにはお構いなしに、にやっと笑って、
「おまえ、惚れっぽいからな。その女の子が好きなんだろう?」
「そんなんじゃないよ」
剛志は、慌てて、そう言ったが、顔が赤くなった。
吉井は、剛志をからかうような目で見ていたが、
「早い方がいいな・・・明日の昼食時間にでも、校門の外に出て、待ってろ。何時ごろ、行けばいい?」
と、早速、訊いてきた。
吉井の気性を知っているつもりの剛志も、あまりに急な話で、それも、校内で決着をつけようというのだから、驚いた。
剛志は、強い不安を覚えたが、昼食時間帯を言った。事は急ぐし、騒ぎになっても仕方がない、その覚悟は決まっていた。
剛志は、翌日の昼食時間になると、弁当も食べずに、正門の外の歩道に出ていた。
空の大半が雲に覆われた蒸し暑い日だった。
本当に来るだろうか、と思い始めていると、吉井の単車が現れた。
吉井は、迷うことなく、街路を隔てて斜め向かい側にあるコンビニ店の駐車場に乗り入れた。単車を右端のコンクリート塀の傍に駐めると、ヘルメットを脱いで 座席の下に押し込んでおいて、歩道に出て来た。
通行車両が多い時間帯ではないので、二十メートルほど離れたところにある横断歩道を渡る気はないらしい。
間隙を見つけて、車道を斜めに走って、横断して来た。
ブルゾン風のライトブルーの上着、着古したジーンズ、軽快に見える黒っぽいスニーカー、など、服装は、特に、いつもと変わったところはない。
吉井は、前置き抜きで、すぐに、剛志が予想していた通りのことを訊いた。
「どこか、話をつけるところはないか?」
校内で人目につかないところとなると、体育館北側の例の裏庭しか思いつかなかった。見回りが厳しくなっていることがわかっていたが、そこに連れて行くしかない。
正門から入らずに、外を半周して、東側の裏門から校庭に入った。
呼び出し役は、剛志がするしかない。
三年生の教室が並んでいる四階に行って、坂中を探そう、そう覚悟を決めて、階段を四階まで駆け上がった。
さすがに、教室を覘いて回る勇気はない。
東側の階段の近くの廊下の端に立って、通り過ぎる男女の三年生たちをやり過ごしていたが、坂中が、都合よく、出て来るとは思えなかった。それに、梶原や杉元や大迫が出て来たらどうしようかと気が気でなかった。
そのままでいるわけにもいかず、教室を覗いて回るしかないと思い始めた時、四組か五組のあたりから、三、四人の男子生徒に混じって、坂中が出て来た。
待っていたはずなのに、いざ現れたとなると、心臓が早鐘を打つようになった。
あっという間に、こっちの階段の方へ近づいて来た。
怖じ気づいていたが、躊躇っている余裕はなかった。
剛志は、思い切って、声をかけた。
「坂中さん、ちょっと・・・すみません・・・体育館裏で、待ってる人がいるんで、来てくれませんか」
仲間の連中が、なんだこいつは、という顔をした。 剛志の名前は聞いていても、顔は知らないようだった。
坂中の反応が気になったが、坂中は、
「えっ? おれ? おれか? ・・・誰が待ってるんだ?」
と、角張った顔に、怪訝な表情を浮かべて、訊いた。何かを期待しているような表情が重なっているように見えた。
「折見、って女の子です。同じ七組なんで、伝言を頼まれたんです」
剛志は、それだけ言うと、坂中の反応も見ずに、逃げるようにして、階段を駆け下りた。
校舎の外へ出ると、体育館裏に走った。
空がどんより曇っているので、六本もの銀杏の大木の下は薄暗い。
吉井がどこにいるのか、すぐには、わからなかった。
これでは、職員が巡視に来たとしても、吉井に気づくことはなかっただろう。
吉井は、三本目の銀杏の木の陰から、出て来た。
剛志は、吉井に近づきながら、言った。
「悪いけど、来ないかもしれんぞ」
「・・・そうか・・・そうだろうな・・・おまえに呼び出されて、そいつが、こんなところへ来るとは思えんな」
「それもだけど、おれの方がビビっていて、言い方が拙かったような気がするんだ」
「来なかったら、放課後になるのを待つしかないな。外で待ち伏せて、どこか人目のない場所へ連れ込めばいいだろう」
「その方がいいかもな。やっぱり、校内はまずいよ」
剛志は、坂中のいかつい顔を思い出して、怖じ気づいていて、来ないことを願う気持ちが強くなっていた。
ところが、それほど待つ間もなく、坂中が一人で現れた。
折見が待っていると思って来たとすれば、よほど脳天気なところがあるのだろう。
折見は、無論、いない。
代わりに、私服姿の、それも見知らぬ少年がいる。
坂中は、吉井に訝しげな目を向けていたかと思うと、剛志に視線を移して、睨みつけた。
「どういうことだ? ここにいるのは、おまえたちだけかよ」
言い方が横柄だ。 剛志は下級生だし、吉井は小柄で、警戒すべき相手には見えなかったのだろう。
剛志が黙っていると、坂中が、目を怒らせて、声を荒げた。
「おまえたちだけか、って訊いてんだよ!」
坂中が、これほど期待しているところを見ると、折見がここに現れてもおかしくないと思っているのか。 私が誘いに乗ればいいんだから、と言ったことがあったが、折見は本当にそうしているのか。 剛志の頭の中を、ふと、そんな考えが過ぎった。
吉井は、最初から、冷水を浴びせるような言葉を投げ返した。
「おまえ、馬鹿か。見りゃわかるだろうが。他に誰がいるかよ」
坂中の形相が変わった。
「なんだと!」
「おまえ、女の子のストーカーやってんだってな」
吉井は、いきなり、そう言った。
「なにっ!」
「そればかりじゃねえ。おまえに、次々に、ひどい内容のメールを送られた上に、それを校内にばらまかれて、ひどいショックを受けて、死にたい、と言ってるそうだ」
そんなことを立て続けに言われて、坂中は面喰らっている間もない。
「き、きさま! そんなこと、誰に聞いた!」
赤鬼のような顔になった坂中が、険悪な視線を剛志に向けた。
「そんなこと、どうでもいいことだろうがよ。おまえ、女の子にちょっかいを出すのを、やめるのか、やめないのか! 返答次第じゃ、タダじゃすまさんぞ!」
吉井は喧嘩を売るのが上手だ。
坂中は挑発に乗った。
「な、なにっ! でけえ口叩きやがって!」
坂中が、右拳を固めて、吉井の顔面に叩きつけてきた。
吉井は、体全体を大きく引いて、素早く身構えるや、坂中の後首元へ強烈な回し蹴りを見舞った。そんな反撃を全く予測していなかった坂中は、ひとたまりもなく、前傾姿勢で倒れた。
吉井は、間髪を入れず、背中に馬乗りになり、髪の毛を鷲掴みにするや、坂中の顔を地面に何度も打ちつけた。
その時になってやっと、体育館の西の端の方から、三年生の男子生徒たちが、七,八人、バタバタと駆け寄って来た。坂中の仲間の一人が、村山が呼び出しに来たのはおかしいと言い出して、人数を増やして、駆けつけて来たものだった。
先頭の一人が駆け寄りざまに吉井の頭部を蹴りつけてきた。
吉井は、その脚をつかんで引き倒しておいて、素早く立ち上がった。立ち上がると同時に、横から殴りかかってきたやつの腹部を蹴りつけた。
剛志も、吉井に飛びかかろうとしたもう一人の顔面に頭突きを見舞った。
吉井がもう一人を蹴倒し、剛志が身構えている時、職員が、五,六人、駆けつけて来た。喧嘩騒ぎの喚き声を聞いて、裏庭を覗いた生徒が、驚いて、通報したものだった。
坂中の顔面は、泥にまみれて、血だらけになっていた。
剛志に頭突きを喰らった生徒も、唇を切り、口元から血を流していた。
この事件は、無職少年の吉井が関わっていたので、校内の処理だけではすまず、警察沙汰になった。
吉井と剛志と坂中は、警察に連れて行かれて、別々に、事情聴取を受けた。
吉井は、調書を取られた後、留置場泊まりになった。(兄の政博が引き取りに来たことを剛志が知ったのは後になってからだ。)
剛志は、学校の生活指導の職員に立ち会ってもらって、折見綾のことを懸命に訴えた。
その後、折見本人から事情が聴取され、ケータイに残されていた坂中のメールの内容が明らかになり、裏サイトも精査された。
坂中は、結局、一週間の学校謹慎を言い渡されることになった。
警察からは、今後、ストーカー行為をしたり、迷惑メールを送ったり、裏サイトに誹謗中傷の書き込みを入れたりしたら、即刻拘留する、と厳しく釘を刺されて、その後、折見に接触してくることはなくなった。
乱闘事件の原因と経緯を知った学校側は、罪一等を減じて、剛志に一週間の停学処分を科した。この種の暴力事件としては異例だった。
折見は、停学中の剛志に、頻繁に感謝のメールをくれた。
剛志は、折見のメールの画面を見つめては、謹慎期間中の辛さに耐えた。
第十章 発 覚
石原秀彦と畠中祥一郎は、剛志に折りたたみ式のナイフを見せられて脅された次の日から、不登校状態になった。
一年三組の担任・神宮司は、家庭訪問を繰り返していたが、 二人とも、異常と思えるほど頑なで、原因がつかめずにいた。
石原も畠中も、学業成績は学年の上位で、欠席や遅刻もほとんどなかった。
二人が何らかの深刻なトラブルに巻き込まれていることは疑いの余地がなかった。
神宮司は、日頃、生徒間に問題が生じた場合は、解決を急がずに、禍根を残さないように解決する方法を模索する方だったが、今回は通常の事例と同列に扱えないと直感し、解決を急ぐ必要があると判断した。面子に拘る方ではなかったので、綾南町の精神科医・宮田修の力を借りることにした。
神宮司は、以前から、宮田の見識と人柄を信頼していた。
宮田は、教育相談の専門家で、職員研修会の講師として、毎年、学校に招かれていた。
神宮司は、事情を話して、先ず、石原秀彦との面談を依頼した。
宮田は、お役に立てるか、努力みましょう、と謙虚な言葉を返しておいて、面談場所は私の自宅にしましょうか、と気配りまでしてくれた。
宮田の自宅は診療所と同じ敷地内にあった。
秀彦は、神宮司の意を受けた母親の克子に説得されて、宮田との面談を受け入れた。秀彦自身も、不登校の状態をいつまでも続けていいとは思っていない。
秀彦は、克子に伴われて、宮田の自宅の応接室に招き入れられ、宮田の向かい側のソファーに怖ず怖ずと座った。
小柄な身体の上に、眼鏡の丸顔が乗っている。
四十がらみの年齢の宮田修は、中肉中背で、茫洋とした風貌をしていた。眼鏡の奥の目に深みがあって、それが、風貌と相俟って、安心感と信頼感を与えている。
克子は、ご迷惑をおかけします、と言って、丁寧に頭を下げてから、秀彦の隣に、ボリュームのありそうな腰を下ろした。
宮田は、克子と当たり障りのない雑談をしてから、秀彦に顔を向けた。
「家にいて、退屈じゃなかった?」
「・・・・・」
「どんな風に過ごしていたのかな?」
「・・・・・」
秀彦が、何も答えず、俯いたままでいるので、母親の克子がしゃべり始めた。
「すみません。いつも、こんな調子なんですよ。机の上に問題集やノートを広げてあるので、勉強はしていたみたいなんですけど・・・家に引きこもり始めたころは、お昼頃まで寝ていて、起きなさい、と叱ると、怒ったり、泣き出したり、今もって、こんな調子で・・・こんなことは、今まで一度もなかったんですよ。
この子が、こんな状態になって、これほど頑なに何も言わないのは、学校で、よほど何か、ひどい虐めにでもあってるんじゃないでしょうか? もう、悔しくて・・・県立の進学校ですよ、それが、こんな・・・」
克子が、厚化粧の顔を興奮させて、ボルテージを上げ始めたので、宮田は、困惑した様子で、母親を制した。
「すみませんが、その話、ちょっと待っていただけませんか。お気持ちはわかりますが、秀彦君が口を開いてくれるのを待ちたいのですが・・・」
「あ、どうも、申し訳ありません。ひどく腹が立っていて、つい・・・ 」
克子は、慌てて頭を下げて謝っておいて、秀彦の顔を覗き込むようにして、
「秀ちゃん、先生のご質問には、ちゃんとお答えするのよ、わかった?」
と、言った。幼い子に言い聞かせるような言い方だった。
宮田は、高校生になった現在でも母親が面倒を見過ぎるようなことをしているようだな、と思いながら、改めて、秀彦に顔を向けた。
「秀彦君は成績がとてもいいそうだから、学校に行かないでいることがどんなに辛いかわかるような気がするんだけど、どんなことを考えて過ごしていたのかな?」
秀彦は、そんな言い方をする宮田に悪いと思ったのか、俯けていた顔を上げた。
「・・・考えても仕方がないので、ここ、三、四日、本ばかり読んでました」
「・・・本? どんな本? ・・・訊いてもいいのかな?」
「取り立てて言うような本じゃありません。椋鳩十の子供向けの本ですから・・・」
「ほーう、椋鳩十? それは、また、懐かしいな。私も、子供の頃、椋鳩十の動物の物語に夢中になってた時期があってね・・・あれは、小学校の何年生の頃だったかなあ?」
宮田は、視線を上に向けて、遠くを見るような目をした。
秀彦の表情が明るくなった。
「ぼくも先生と同じです」
「・・・同じ?」
「ぼくも、読んでたのは小学生のころだけだったんです」
「なるほど、子ども向けの物語だもんね・・・それで、なんでまた、改めて、読んでみようという気になったの?」
「本箱をぼんやり見ていたら、椋鳩十の本が並んでたんで・・・」
「ほう、全集かなんか持ってるんだ」
「はい、全集です・・・小学生の頃・・・三年生か、四年生、の頃だったと思うんですけど、国語の教科書に『片耳の大シカ』という物語が載っていて、それがとても面白くて、学校の図書館に行って、椋鳩十の本を探すようになりました。その頃、借りて帰った本が、『山の太郎熊』で、他にも物語がいくつか入ってたんですが、どれも面白くて、夢中で読み終わったのを覚えています。その本に、全集の案内が入ってたんで、それを母に見せたら、すぐに本屋さんに注文してくれて・・・」
「そう、そう、そうだったわね。九歳なのに、読書に興味を持ってくれてと思って、とてもうれしかったことを覚えてるわ。そんな時期の読書は・・・」
宮田は、克子が教育論を開陳しそうになったので、それを制しておいて、秀彦に言った。
「全集を読んでるんだったら、わかるんじゃないかな・・・私は、うろ覚えだけど、野犬の話が印象に残ってるんだよね。ほら、命がけで闘って、瀕死の重傷を負っていながら、なんとか、敵に襲われない場所を見つけて、そこを、何日も何日も動かずに、飲まず食わずの状態で、我慢し尽くして、傷の治るのをじっと待っている・・・ほとんど命の限界まで・・・あの野犬が生き残るために見せる執念みたいなもの、あれがすごくて、子供心にも、感動したことを覚えてるんだよね」
秀彦の目が輝いた。
「ああ、あの野犬のことですね!」
「ほーう、わかるんだ」
「わかります。正直言って、びっくりしました。ぼくが椋鳩十を読み直そうと思ったのも、その野犬の話を覚えていたからなんです」
「ほーう、そうだったの。驚いたな。・・・物語の題名は何だったっけ?」
「『野犬物語』です。その中に出てくる三つの話の中の一つです」
「さすがに、詳しいね・・・特別な思い入れがあるんじゃないのかな。今のきみに何か関係がありそうな気がするんだけど・・・?」
秀彦は、そう言われて、戸惑ったような顔をした。
「・・・言葉にするのは難しいかもしれないけど、読み終わった時、どう思ったか、そんなことでもいいから、聞かせてくれないかな」
「・・・読後の感想、ってことですね・・・『野犬物語』に限って言えば、人間も、野犬たちのように、生き残るために闘う必要があるかもしれない、と思ったってことかな」
「なるほど・・・」
「全体的には、野生の動物のことが以前より気になり始めたってことになりますね」
「どんなことが?」
「野生の動物たちは、仲間同士で助け合っていて、そのための知恵がすごいんですよね。それを、いつも、人間が邪魔するんです」
「どんな風に?」
「森や林を伐られて、道路ができて、宅地が造成されて、ゴルフ場なんかができて、農薬なんかばらまかれて・・・。こうして追いやられた惨めな場所でしか生きていけないのに、そんな場所に追いつめられながらも、生き残るために、クマも、キツネも、シカも、イノシシも、戦い続けなければならないんですよね。自然淘汰というのは、違う種同士が、憎み合ったり、傷つけ合ったり、血を流し合って、『いのち』を守ってるってことだって、何かの本で読んだことがあるんですけど、野生の動物たちは、今も、そんな命懸けの闘いを続けながら、懸命に生き残ろうとしているんですよね。それなのに、人間のおかげで、生き残る条件が、何倍も何十倍も、厳しくなってる・・・野犬物語が書かれたころと比べても、比べようもないほど、ひどくなっている・・・」
秀彦は言葉を詰まらせた。
宮田は秀彦の性格の一端を見たような気がした。
「そういうのを行間を読む、というんだよね。きみはえらいな。子ども向けの物語なのに、そんなふうに深読みができるなんて、全く感心するよ」
宮田は、ほんとに感心して、それをそのまま口にした。
秀彦は、宮田のそんな思いを感じ取って、知ってることや、思ってることは、全部話してしまおうという気になったようだ。
「絶滅危惧種が、どんどん、増えているのも、そのためですよね。ぼくも、小学生の頃とは、違う読み方をしてるってわかります」
「成長したんだね。そういうことに、ずっと、関心を持ち続けて、将来、ぜひ、野生動物たちを救ってやれるような偉い学者になってもらいたいな・・・ところで、先刻、気になることを言ったんだけど・・・」
「えっ・・・? ぼくがですか? ・・・なんと言ったかな?」
「先刻、人間も生き残るために闘いが必要なのかな、と言ったよね。どういう意味で言ったのか気になってるんだ」
「・・・・・」
「学校に行かなくなってることと、何か関係がありそうな気がしてるんだけど、どうなんだろう?」
「・・・ぼくは・・・弱虫で・・・闘う必要があるときも、闘えそうもないんです。あの野犬は、命が尽きる直前まで我慢して、傷が治り始めたら、閉じこもっていた場所から出て、衰えきった体で、自分で食べ物を見つけて、体力を回復させて、また野生の闘いの場にもどっていきますよね。読んでる時は、勇気をもらったような気がしたんです。でも・・・実際の自分は・・・あの野犬ほどの勇気も、知恵もない・・・」
「なるほど・・・でも、それ、ちょっと違うような気がするな」
「・・・やっぱり・・・恐いんです。闘うなんて、ぼくにはできません。村山という二年生は、身体が大きくて、空手をやっていて、暴走族と関係があって、ジャックナイフみたいなものを持っていて・・・」
「まあ! やっぱり」
克子が目を剥いた。
宮田は、さらに何か言いかけた母親を制して、
「そういうことだったんだね・・・どうことがあったのか、だいたい想像できるよ。学校に行かずに家にいたのは、結果的に、いい判断だったかもしれないな。登校を続けていれば、取り返しのつかない事態が起こっていたかもしれないからね。名前が出てきて、ほっとしたよ。その村山って生徒に、秀彦君を安全圏に置いた状態で接触できることになったんだからね。
人間も捨てたもんじゃない、とわかってほしいな。野生動物とは比べようもないほど、豊富な知識があって、知恵も優れている。それに、組織力を生かして使える。人間の組織力ってのは、すごい力を出せるんだよ。暴力で押さえつけることができないところが、弱肉強食の野生の動物の世界と違うところなんだけど、賢い秀彦君が、そういうことに気づかなかったというのは驚きだな。私たちおとなを信じてくれる? 秀彦君には、指一本触れさせずに、必ず、この問題を解決してみせるから」
結局、石原秀彦が知る限りのことは、全て、宮田修の知るところとなった。
専門家を巻き込んで、事態が動いていることなど、村山剛志は知るよしもなかった。
第十一章 再 会
1
九月も下旬になっていたが、晴天続きで、その日も暑い日だった。
剛志は、四時半ごろ、校門を出た。
街の道場に行くつもりだった。
正門を出ると、右へ折れて、バス停に向かった。
歩道と車道との境目には、ツツジの植え込みが連なっている。
緑や赤みがかった葉をつけた植え込みと植え込みの間に、欅の木が立っていて、大小の枝に濃緑の葉を繁らせた木々が、車道に沿って、並木となって、ずっと先の方まで続いていた。
欅の木が立っている場所だけ、西に傾き始めた太陽の強い光を遮って、日陰を作っている。
下校する生徒たちの数が少ない時間帯だった。
剛志は、三つくらい先の欅の木陰に、二人の大男が立っているのに気づいた。それも、髭面とスキンヘッドだ。
男たちは、剛志が近づくと、木陰から歩道に出て、行く手を塞ぐようにして立った。
剛志はびっくりした。
屋宮勇二と新井正二郎だった。
肥満体で、横幅が大きい屋宮は、グレーのTシャツに迷彩色のズボン、筋肉質で、上背のある新井は白のTシャツにダークブルーのジーパ
ン、それぞれのTシャツの胸に、『絆』という斜字体の紫色の文字が
染め込んであった。
屋宮は、長めの髪の両脇をなでつけて、頬から顎にかけて、黒い髭を伸ばしている。ただでさえ凄みのあるゴリラ顔が威圧感を増していた。
新井は、鼻の下や顎のあたりの剃り跡だけでも凄みがあったが、驚いたことに、頭を剃り上げて、坊主頭になっていた。座禅を組んで、滝にも打たれたのかもしれない。
やあ、久しぶりだね、と、新井。
キミが出て来るのを待ってたんだ、と、屋宮。
剛志は、胸をどきどきさせていたが、最初に口をついて出たのは、抗議口調の言葉だった。
「どうして、連絡をくれなかったんですか?」
「いい加減なやつを組織に誘うわけにはいかなかったんだ」
と、新井が言った。
「えっ・・・! どういうことですか?」
剛志は、新井の予想外の言葉に、膨れっ面をした。
苦笑いを浮かべた新井が、方角を顎で示して、言った。
「ここじゃ話ができんから、おれたちについて来てくれないか」
二人は、剛志の返事を待たずに、背中を見せて、歩き始めた。
剛志は、新井の言葉が胸に刺さっていたが、竹岡里沙に会えるかもしれないと思うと、そんなことはどうでもよくなった。
学校脇の歩道が途切れてから右に折れて、三百メートルほど歩くと、左側に、市の公園の一つがあった。
それほど広い公園ではなかったが、砂場やブランコや滑り台や小さなジャングルジムなどがあって、片隅にコンクリート建ての小さなトイレもあった。
九州の九月は、下旬になっても、空気の感触は真夏と変わらない。
濃緑の葉を繁らせた大小の樹木が適当な間隔を置いて立っていて、無数の木陰を作っていた。樹木の傍らには、ベンチも適当に置いてある。
砂場の近くの木陰になったベンチの一つに、若い女が、二人、座っていた。
剛志の胸が高鳴った。
一人は竹岡里沙だった。
屋宮が、近づきながら、声をかけた。
「やあ、待たせたね。なかなか出て来ないんで、どうしようか、と迷ってたら、四時半過ぎになって、やっと出て来やがったんだ」
里沙ともう一人の女性が、立ち上がって、三人を迎えた。
里沙が、剛志を険しい眼でチラッと見てから、屋宮に顔を向けて、
「辛抱強く待つのも、わたしたちの任務の一つよ。まだ一時間くらいしか経ってないんだから、文句は言えないわ」
と言ったが、剛志には声をかけなかった。
剛志は、里沙のよそよそしい態度が気になったが、胸をドキドキさせていた。
里沙は、淡い桜色のTシャツに、青いジーンズだ。
もう一人も、淡いグリーンのTシャツに青いジーンズ。やはり、目鼻立ちがはっきりした魅力的な若い女性で、里沙ほど背丈はなかったが、身体全体が里沙より丸みを帯びているように見えた。
二人のTシャツの胸にも、『絆』という斜字体の紫色の文字が染め込んである。
「この人、二宮亜希子、さん。メンバーの一人よ」
と、里沙が初めて剛志に口をきいて、もう一人の女性を紹介した。
「お名前はよく聞いてたわ。あなたが・・・村山、剛志、君・・・そう・・・よろしくね」
もう一人の美人が、そう言いながら、剛志の顔を興味深そうに見つめたので、剛志は顔を赤らめて、ぎこちなく、ペコリと頭を下げた。
どういう意味で自分のことが話題になっていたのか。
里沙を盗み見ると、里沙は、恐い顔をして、剛志を睨みつけている。
里沙が、腕組みをして、剛志の前に立った。
「ところで、村山君」
「はい!」
剛志は、直立不動の姿勢になって、思わず、低学年の小学生のような返事をした。
「あなたがわたしたちのバスターの対象になるとは思わなかったわ」
剛志は、唐突にそう言われて、きょとんとした顔になった。
「なにもわかってないみたいだわね。あきれて、ものも言えないわ」
「・・・・・」
「あなた、下級生相手にいじめを繰り返してない? それに、お金を脅し取ってるそうじゃないの!」
里沙は、厳しい口調で、そう言って、剛志を睨みつけた。
剛志は、里沙に、憎悪のこもった目で睨みつけられて、泣きたくなった。
中尾のことが頭に浮かんだが、中尾のことを里沙が知ってるはずがない。
黒岩との件を思い出したが、恐喝はしていないし、今ごろ問題になるはずがない。
石原と畠中のことが頭をかすめたが、それほど脅した覚えはないし、実際に金を持って来たわけでもない。
剛志は、じりじり照りつける西日に背中を炙られながら、じっとり汗を流していた。
里沙の顔を見る勇気はなかったが、里沙の突き出した胸のあたりと、白いスベスベした意外に肉付きのいい腕が、すぐ目の前で、西日に照らされていた。
思い当たることは、中尾のことしかなかった。
なぜ知られたのかわからなかったが、里沙に憎悪のこもった目で睨みつけられて、とんでもなく悪いことをしていたという思いに、突然、襲われた。
剛志は、唐突に地面に両手をついて、土下座した。
「ごめんなさい・・・ぼ、ぼく・・・」
それ以上、言葉が出て来ない。
里沙の厳しい声が上から降ってきた。
「どうしたのよ! わたしたちに謝ってすむようなことじゃないわ! あなたに脅されて、不登校になってる生徒もいるのよ!」
不登校? 石原と畠中の顔がはっきり浮かんできた。
あいつらを見かけなかったのは、そういうことか。
「なんて野郎だ!」
新井のドスのきいた声が頭の上から降ってきた。
「足腰が立たんように叩きのめしてやろうか!」
屋宮の怒声が続いた。
剛志は、そうされても仕方がない、と思った。
里沙の声が言った。
「亜希子、あの三人をここに連れてきてくれる?」
三人? 誰のことだ?
剛志が上目遣いに見ると、二宮は、もう、歩き出していた。
剛志は、土下座したまま、二宮の動きを目で追った。
二宮は、公園の片隅にあるコンクリート建てのトイレの方へ歩いて行って、
小さな白い建物の向こうに姿を消した。
しばらくして、二宮が出て来た。
二宮の後から、半袖の白シャツ・黒ズボンが、次々に、出て来た。
剛志は自分の目を疑った。
中尾弘樹、畠中祥一郎、それに、石原秀彦だった!