第一章「三人の上級生 & 第二章「仕返し」
青春の岐路
第一章 三人の上級生
1
背中を見せて歩いていた長身・長髪の上級生が、三本目の銀杏の木の下のあたりで、向き直った。
両脇を固めるようにして歩いていた二人も、その左右に出て、立ち塞がるようにして立った。
真ん中の長髪が、剛志を睨めつけて、
「おまえ、なんで呼び出されたか、わかってんだろうな?」
と、言った。
ドスを利かせたつもりなのか、無理に抑えたような声だった。
整ったイケメン系の顔だが、手入れしているらしい眉毛が細く、額の両脇に剃り込みを入れた跡がある。
剛志が、意味がわからず、呆然と突っ立っていると、長髪がその理由らしいことを言った。
「一年生のくせに、でかい顔しやがって! おまえ、パシリを使ってんだってな。カツアゲのまねごとまでしやがって!」
パシリ?
か・つ・あ・げ?
何のことだ?
尚更、何を言ってるのかわからない。
剛志は、膨れっ面をして、横を向いた。納得できないことを態度で示したしたつもりだった。
途端に、右側の丸刈り頭が怒鳴りつけた。
「この野郎、ふてくされやがって!」
上背のある肥満体に加えて、剃り上げたように見える五厘刈りの頭に、問答無用の威圧感があった。
剛志は、気圧されて、思わず、俯いてしまった。
途端に、「下を向くな!」と、今度は、左から怒声があがった。
上目遣いに左に横目を向けると、顎の張った刈り上げ頭が、睨みつけている。背は低いが、やはり体育会系だと一目でわかる体格だ。
「顔を上げろ、と言ってるだろうが、ぼけ!」
刈り上げ頭に、また、そう怒鳴られて、剛志は顔を上げた。
顔は上げたが、上を向いて、視線を逸らした。
目が合えば、眼をつけた、と言い掛かりをつけてくることがわかっていた。
長髪が、それを見透かしていたかのように、怒鳴りつけた。
「真っ直ぐ、前を向かんか、この野郎!」
剛志は、仕方なく、前を向いた。
途端に、長髪と目が合った。
剛志は、突然連れ出された上に、身に覚えのない言い掛かりをつけられて、頭に来ていた。それが目の色に出ていたはずだ。
長髪の目が光った。
「なんだ! その目は!」という怒鳴り声と共に、いきなり、右拳が飛んできて、左頬を殴りつけられた。間髪を入れず、左の拳も飛んできて、右の頬も殴られた。
顔面に激痛が走り、よろめいた。鼻の下の上唇が生暖かく感じられたので、鼻血が出始めたことがわかる。
剛志は、頭に血が上って、思わず、拳を固めて、長髪を睨みつけた。
「なんだ? おまえ、やるつもりか!」
長髪は、口元をゆがめて、片頬に笑いを浮かべたかと思うと、厚底の革の靴先で、いきなり、剛志の左の向こう脛を蹴りつけた。
頭までジーンとしびれてくるような痛さに、思わず、腰を屈めて、脛に手を持っていこうとした。
そんな余裕はなかった。
五厘刈りの肥満体が、目の前に出て来たかと思うと、左手で剛志の襟首をつかんで、右手を左肩のあたりに当てるや、力任せに大外刈りの技をかけてきた。
剛志は、堪えきれずに、腰から落ちた。
刈り上げ頭が、胸のあたりを蹴りつけたので、結局、仰向けに転がされることになった。
長髪が、すかさず、右膝を折って、腹部に膝蹴りを入れてきた。
鳩尾のあたりに激痛が走り、呼吸が止まりそうになる。
剛志は、納得がいかないまま、謝ってみるしかなかった。
「・・・すみません・・・もう・・・」
と、言いかけたが、激痛で、先が続かない。
「もう・・・? もう、なんだ?」
長髪が、腰を屈めて、苦痛に歪んだ剛志の顔をのぞき込んだ。
さすがに、やり過ぎたと思ったようだ。
「・・・もう・・・わかりましたから、許してください」
「ほんとかよ?」
剛志は、泪目になって、頷くしかない。
五時間目のチャイムが唐突な感じで鳴り始めた。
三人は、慌てた様子で、
「いい気になってたおまえが悪いんだからな」
「これから、でかい顔してやがったら、こんなことじゃすまさんぞ!」
「チクッたりしやがったら、ぶっ殺すからな!」
と、口々に捨て台詞を残して、駈け去って行った。
2
村山剛志は、県立K高校に入学して、一年目の秋を迎えていた。
学校は、県都・F市から南西方向へ三十数キロ離れたK市にあり、歴史の古い伝統校で、地域拠点の進学校の一つだった。
剛志は、校内では、六組の田島嘉彦、九組の黒岩健治と行動を共にすることが多かった。
田島は、柔道部の有望株で、背丈はそれほどないが、がっちりした体型をしていた。剛志は、街の空手道場に通っていたので、学校の部活には入らないことに決めていたのだが、田島に熱心に柔道部に誘われていた時期があって、入学以来、校内では田島と一番親しくなっていた。
黒岩は、一学期が半ばを過ぎたころ、黒岩の方から近づいてきた。身長は平均的で、痩せていたが、目つきが鋭く、学年一の情報通と言われていて、独特の存在感を発揮していた。部活は所属先が一定しておらず、どこへでも顔を出しているようだった。
剛志は、田島や黒岩とは学級が違っていたが、九月の第二日曜日に、体育祭があって、学年や全体の合同練習等で、よく顔を合わせていた。体育祭が終わってからは、昼食時間に、体育館で一緒に過ごすのが日課のようになった。
一階の中央出入り口の近くに体育館に繋がる通路があって、その通路の途中に、校内売店がある。
九月が二十日ばかり過ぎた頃、売店が近づくと、黒岩が媚びるように言った。
「村山、何か食べないか?」
その時、剛志は、壁板を力任せに蹴ったりしながら、廊下を歩いていた。四時間目に、宿題未処理を理由に、頭ごなしに叱りつけられて、その時のムシャクシャした気分がぶり返していた。
黒岩のせいではなかったのだが、いつ自分の方にとばっちりが来るかわからないので、剛志の機嫌を直そうと思って、そんなことを言ったのだろう。黒岩には、剛志の顔色を読む習性があった。
「・・・そうだな。弁当食べたばかりだが・・・何か甘いものなら、食べてもいいな。田島はどうだ?」
剛志は、機嫌を直したような顔になって、田島に訊いた。
「おれはいい。金、持ってない」
と、田島が答えると、黒岩は、
「おれが奢るよ。それなら、いいよな?」
と言うや、田島の返事を聞かずに、先に走って行った。
買って来たのは、チョコレート入りの菓子パン三つと、小さなパック入りのコーヒー三つだった。
それ以来、菓子パンと甘い味付けをしたコーヒー、コーヒーがない時は、小さなパック入りの果物ジュースなどを、売店脇の小部屋で、食べたり飲んだりするようになった。
剛志や田島が要求したことは一度もない。
黒岩が、気を利かして、自分のお金で買って来るようになったのだ。
月が変わって、十月に入った。
剛志はバスケットボールをするのが好きで、田島と黒岩もそれに付き合う。
その日も、体育館にいた同級生数人がバスケットボールで遊んでいたので、それに加わった。
もっとも、加わったというのは正しい言い方ではない。いつものことだが、剛志がボールを奪り上げてしまったのだ。
ドリブルしてはシュートするという遊びを交互に繰り返していると、黒岩が、途中で、慌てたように、
「あっ、いっけねえ! おれ、今日、日直なんだ! 黒板、消してねえ! 森岡のやつ、うるせえからな」
と言ったので、剛志はシュートしようとしていた手を止めた。
「理科Ⅰの森岡だろう? 消しといた方がいいぞ。黒板が汚いと、怒鳴り声で呼びつけやがって、定規の角で、二つ、三つ、頭を叩くからな」
「あいつ、そうなんだよな。みんなが見てると、余計に手加減しないからな」
黒岩が走って出て行ってから、剛志と田島は、それぞれ、シュートが五、六本決まるまで遊んでしまったが、いつもより早めに教室に向かった。
鉄筋コンクリート四階建ての校舎の一階に、一年生の学級が九つ並んでいる。剛志は東寄りの一年二組、田島は西寄りの六組、黒岩は西の端の方にある九組に在籍していた。
剛志が、田島と別れて、廊下を歩いて、後方の入り口から教室に入ろうとすると、一組との境目に近い前方の入り口のあたりに、一癖ありげな男子生徒たちがいた。同学年でないことは一目でわかった。
一人は、身長が目立ち、長髪の両脇を撫でつけている。
一人は、五厘刈り頭で、肥満体の上に、上背もある。
もう一人の刈り上げ頭は、背丈は普通だが、首回りが太く、胸板が厚い。
剛志が彼らに目を留めたのを見て、一番背丈のある長髪の生徒が手招きした。
剛志が、戸惑いながら近づくと、その生徒が、おれたちの後について来い、と言った。
有無を言わさぬ命令口調だったし、丸刈り頭と刈り上げ頭が両脇に立ったので、言われた通りにするしかなかった。
連れて行かれたところは、全く人気のない、体育館の裏庭だった。
五時間目の授業が始まる五、六分ほど前だったので、体育館で遊んでいた生徒たちも教室に向かい始めていて、体育館の中の喧噪やボールが弾む音などは静まりかけていた。
次の時間に体育館を使う予定もないらしい。
裏庭は、体育館の北側で、側溝とオトナの背丈ほどの高さのブロック塀に挟まれて、七、八メートルほどの幅しかない。
ブロック塀に沿うように六本の銀杏の大木が立っていて、梢の先端は体育館の屋根を越えている。大小の枝が張り、色づき始めた葉が密生していた。
青空が透けて見えたが、裏庭自体は、晴れた日も、薄暗く、通常、生徒や職員が立ち入ることのない場所だった。
剛志は、全く心当たりのないことで言いがかりをつけられ、一方的に暴力を揮われて、悔しくてたまらなかった。
しかし、教員に訴えることなど考えもしなかった。
訴えても、事態が複雑になるばかりでなく、上級生たちの恨みを買い、かえって、ひどい目に遭わされるだけだと思っていた。
剛志は、人気のない体育館のトイレに入り、トイレットペーパーで鼻血をていねいに拭き取り、シャツやズボンの汚れをできるだけ目立たないようにした。
白いシャツの胸のあたりに染み込んでいた鼻血は、少量だったが、除れなかった。
トイレの鏡で見ると、左の頬骨の下のあたりが青黒くなっていて、唇の右の端が少し切れて血が滲んでいたが、それほど目立たないと判断して、五時間目の授業が始まっている教室に向かった。
授業に遅れた場合は、授業担当者に、その理由を告げなければならない。
授業は数学だった。
教室中の視線を感じながら、教卓前に行くと、複雑な数式を板書していた井上孝司が、板書を中断して、苛々《いらいら》した様子を隠そうともせずに、小柄な身体を教卓前に移した。
井上は、出席簿を開くと、剛志の顔をチラッと見ただけで、白墨をボールペンに持ちかえて、剛志の欄の欠課を意味する斜線を「チ」の字に変えた。
剛志の左の頬骨の下が青黒くなっていて、唇の右端に少し血が滲み、シャツの胸のあたりに鼻血がしみ込んだ跡がある。
井上は、出席簿から顔を上げずに、下向きにした左の手のひらを二,三度振って、自分の席につくように指示する仕草をすると、剛志に背を向けて、また、板書を始めた。
遅刻した理由は訊かなかった。
井上は授業熱心だが、生徒たちの言動には、ほとんど無関心だった。
井上の授業時間でよかった、と思いながら、剛志は教室後方の自分の席に歩いた。
教室の中の三十九名の生徒たちも、数式を書き写すのに気を奪られていて、それほど関心を持って剛志の様子を見ているようには感じられなかった。
剛志は、ほっとして、席に着いた。
蹴られた左向こう脛に、ズキズキするような痛みが残っていた。
時間の経過とともに、理由もないのに一方的に暴力をふるわれた悔しさと、周囲の無関心さに対する腹立たしさが、胸中に徐々《じょじょ》に湧き上がって来た。
3
剛志は、上級生たちに暴力を揮われた日の翌日、昼食時間が始まると、田島と黒岩を呼び出した。
田島と黒岩は、それぞれの教室で仲間と机を寄せ合って弁当を食べていたのだが、二人とも、食べ始めたばかりの弁当に蓋を被せただけで、すぐに出て来た。
剛志が階段を上り始めると、田島も黒岩もついて来た。
黒岩は、まだ、口をモグモグさせている。
黒岩の教室は、一階の西端にあって、階段に隣接していた。
剛志は、上級生の教室を廊下からそっと見て回って、三人の上級生を見つけ出し、田島と黒岩に見てもらって、名前と在籍しているクラスをはっきりさせようと思っていた。
二階から三階へ上がる途中の踊り場まで来ると、田島と黒岩に言った。
「おれは、昨日、理由がわからないのに、連れ出されて、殴られたり、蹴られたりして、ひどい目に遭った」 剛志は、ズボンの左の裾を持ち上げて、蹴られた跡を見せた。黒くなった傷口の周囲が青黒く腫れ上がっていた。
日頃は無口な田島が、びっくりしたような声を出した。
「えっ! ・・・ひでえな・・・そう言えば、左の頬もちょっと青黒くなって、唇の端が少し切れてるぞ・・・誰にやられたんだ?」
「三人にやられた。そいつらの顔は覚えてるが、どういうやつらかわからないんだ。これから、三階と四階を見て回る。おれがアイツだと言うから、知ってたら、名前と、どんなやつらか、教えてくれ」
田島は、一瞬、戸惑ったようだったが、すぐに顔を引き締めて、頷いた。
黒岩は、目を見開いて、ひどく驚いた顔をした。
黒岩が俯いてしまったので、剛志が訊いた。
「どうしたんだ?」
黒岩は、顔を上げると、怯えた声で言った。
「そんなことすれば、また、やられるんじゃないのか。おれ、恐いよ」
「昼食時間が始まったばかりじゃないかよ。食べる方に気を奪られて、廊下の方なんか見てないよ」
「廊下に出てたら、どうするんだよ」
黒岩は、ひどく怖じ気づいていて、目の色が異常に怯えている。
「三階に上がったら、おまえが顔だけ出して、廊下の端から覗け。おれくらいの背の高さの長髪の横を撫でつけたやつか、太った五厘刈り頭か、体格のいい刈り上げ頭が廊下に出ていたら、そう言え」
黒岩は逆らえない。三階に上がると、首を縮めるようにして、廊下の端から顔を出して、すぐに引っ込めた。
剛志が言うような男子生徒は廊下にいないと聞くと、剛志は、廊下を歩いている男女の二年生たちがいたが、構わずに、先に立って歩き出した。
九組から始めることになった。
三人の顔は剛志の頭の中に焼き付いていた。
何気ない風を装って歩きながら、教室の中へは顔を向けずに、横目で室内を見回す。
剛志は、二年七組で、南側の窓際の近くで五厘刈りの肥満体が弁当を食べているのを見て、足を止めずに、田島と黒岩に、そっと、教えた。
田島が、わかった、という顔をして、頷いた。
黒岩は、剛志と田島の後から肩を竦めて歩いていたのだが、二年四組の廊下で、剛志が二人の生徒を指定した途端に、首を縮めた上に、身を屈めて、三組から一組までの三つの教室の廊下を走り抜けて、たちまち東側の階段の方へ逃げて行った。
黒岩に追いついて、剛志が訊いた。
「なんで、逃げたんだ」
「村山をやった一人は梶原さんだ。二年生の番長みたいな人だぜ。三年生も怖がってるんだ」
「ふーん、そうか。・・・それがどうしたんだ?」
「岩重や矢野が殴られて、ひどい目にあった。梶原さんはサッカー部だけど、ボクシングのジムに通ってるんだ。仕返しなんか考えない方がいいぞ。岩重や矢野のことは知ってるだろ? ひどい目に遭ったんだぜ」
剛志は街の空手道場に通っているので、放課後になるとすぐに学校を出ていて、校内の情報には無関心で、疎い方だ。しかし、岩重や矢野が、同学年の生徒で、逆らう者がいない生徒たちの名前であることくらいは知っていた。
「岩重や矢野は知ってる。矢野は、学年集会の時に、おれに眼をつけたことがある。その時は、おれの方から目を逸らして相手にしなかったが、あいつとは、いつか、決着をつけようと思ってるんだ。・・・しかし、これとそれとは話がちがうぞ」
「おれは関係ないことにしてくれないか・・・恐いんだ」
「・・・いいだろ。おれをやったやつらの名前がわかりさえすればな・・・おまえ、その、梶原、ってやつと、何か、関係があるんじゃないんだろうな?」
「じょ、冗談じゃないよ。恐くて、近くに行ったこともない」
黒岩の目が異常に怯えていて、声も上ずっていたので、剛志は、その通りだろう、と思った。
例の三人は二年生で、その中の二人は柔道部員、二年七組の大迫茂樹と二年四組の杉元良平、残る一人は杉元と同じクラスのサッカー部員、梶原真一郎、だとわかった。
田島は、部活で、大迫、杉元とは毎日のように顔を合わせている。
梶原の顔は、黒岩ばかりでなく、田島も知っていた。
五厘刈りの肥満体が大迫、刈り上げ頭が杉元、長髪の両脇を撫でつけて、剃り込みを入れた背の高い上級生が梶原だった。
4
体育館の裏庭での出来事があってから、一週間ほど経った。
五時間目が始まる一〇分ほど前に、剛志が、他の三人の生徒たちと、前の時間に割り当てられていた数学の問題の計算過程の数式を黒板に書いていると、川崎と大山が教室に入ってきた。
川崎俊孝は成績が学年でも上位で、剛志は、宿題や課題の処理に行き詰まると、たいてい、川崎を頼りにしていた。
大山琢馬も成績がよくて、どの教科も、ノートの整理に漏れがなく、試験前などは、大山が役に立った。
この時は、川崎のノートを借りていて、その内容をそのまま黒板に書き写しているところだったので、川崎が教室に帰ってきたら、片目をつぶってみせて、ありがとう、の代わりにしようと思っていた。
そのつもりで、近くの入り口から、教室に入ってきた川崎に顔を向けた。
剛志は書きかけていた白墨の手を止めた。
川崎の左唇の端が少し切れて、血が滲んでいる。シャツも乱れて、襟首の下のボタンが一つ千切れてなくなっている。すぐ後から入ってきた大山も、目を赤くして、泣いた後のような顔をしていた。
不審に思った剛志は、白墨とノートを持ったまま、二人に近づいて、小声で、どうしたんだ、と訊いた。
二人は、申し合わせたように、俯いた。
座席に座り始めていた生徒たちの中には、驚いたような目を向けている者もいる。
剛志は二人を教室の外のベランダへ誘った。
二人とも、黙って、従いて来た。
「どうしたんだ?」
剛志は、川崎の顔を覗き込むようにして、改めて、訊いた。
二人は、顔を見合わせたが、何も言わない。
剛志は、自分と同じようなことがあったんだと、直感した。
「殴られたんじゃないのか?」
「・・・・・・」
「おれも、この前、やられたんだ。誰にやられたんだ?」
二人は、また、戸惑ったような顔を見合わせた。
「誰にも言わないから、教えろよ」
「・・・・・・」
上級生に痛めつけられたのであれば、誰にも言わない。
自分が、つい一週間ほど前に、経験したばかりだった。
それだけに、放っておけない気がした。
「川崎に借りたノートを、そのまま、黒板に書いてるところだったんだ。大山にも、試験前なんか、ノートを貸してもらったりして、助かってるんだ。そんなおれが裏切ったりすると思うか?」
「・・・・・・」
「聞いたからって、迷惑はかけない。信じてくれよ、な」
川崎が、やっと、重い口を開いた。
「・・・今朝のホームルームで、昨日、自転車を盗られた生徒がいる、つい先日は、無断借用された生徒もいる、施錠を忘れないようにと、いつも、言ってるが、大丈夫だろうな、と言われただろう。ぼくは鍵をかけ忘れたような気がして、昼食時間に大山君と一緒に確かめに行ったんだ。自分の自転車には鍵をかけてたんだけど、ついでだから、友達の自転車も二人で検て回ってたんだ。・・・すると・・・裏の方で話し声がするんだ。いつもは、人がいるような場所じゃないだろう。気になって、わざわざ、銀杏の木の方まで行って、裏を覗いてみたんだ・・・」
自転車置き場は体育館の裏庭の先にあった。
銀杏の東端の大木の近くから、東に三十メートルほど先まで続いていて、整然と自転車が並んでいる。
その裏側は、トタン板で仕切られていて、見えない。
トタン板の壁とその裏の市道とは七、八十センチほどの間隔しかなくて、市道とは大人の背丈ほどの高さのブロック塀で仕切られていた。
体育館の裏庭も人気のないところだが、それ以上に、この空間は、銀杏の大木の近くの入り口になりそうな隙間は、人一人がやっと通れるぐらいで、職員や生徒たちが立ち入ることのない場所だった。
「・・・誰か、いたんだな?」
川崎は、俯いてしまって、また、口を噤んだ。
「誰がいたんだ?」
「・・・・・・」
「迷惑をかけるようなことはしないと言ってるだろう?」
「・・・ぜったい、誰にも言わない、と約束してくれる?」
「勿論だ。信じてくれ」
「・・・二年生が三人いた・・・タバコ・・・吸ってた」
「えっ・・・! それは、また・・・とんでもないもの見ちまったな・・・それで、気づかれたんだな」
「一人がこっちの方を見ていて、顔を見られた・・・見張ってたみたいだ」
「そうか・・・それじゃ、無事じゃすまなかったな」
川崎は、悔しそうな顔をして、唇を噛んだ。
「・・・あそこへ引きづり込まれたんだな」
「・・・・・・」
「殴られた上に、脅されて、口止めされたんだろう? ・・・様子を見ればわかるよ」
「・・・・・・」
「そいつらの名前はわからないのか?」
「・・・一人は・・・知ってる」
「誰だ?」
「・・・梶原、さんだ」
第二章 仕返し
1
それから、さらに、五日ほど経った。
剛志は、その日、放課後課外に出て、午後四時半を過ぎた頃、校門を出た。
歩道の車道側には、ツツジの植え込みが連なっていて、その植え込みの境目に立っている欅の木が、ずっと先の方まで、並木となって続いていた。
高く澄んだ青空に、白い鱗雲がところどころに浮かんでいる。欅の幹の上部に広がっている大小の枝は濃緑の葉で覆われていたが、歩道に落ち葉が目につく季節が始まっていた。
剛志は、一本目の欅の木陰を出て、街路を隔てた左斜め向かい側にあるコンビニ店の駐車場に、何気なく、目を向けた。
西に大きく傾いた秋の日が駐車場の右半分を照らしている。
剛志は、驚いて、立ち止まった。
吉井がいるのに気がついたからだ。
吉井和己は、中学時代の同級生で、現在に至るまで、剛志の無二の親友だ。
剛志が学校の部活に入らず、街の空手道場に通っているのも、吉井がいるからだった。
吉井は、駐車場の右端に駐めてある黒い乗用車の傍にいて、助手席側の車の外から、運転席にいるらしい人物と何か話をしていた。
剛志が車道側に位置を移して、呼びかけようとしたとき、吉井も学校側の歩道を振り向いた。
剛志に気づくと、すぐに右手を挙げて、大きく振った。
剛志は、左右から間断なく迫る車にしばらく身動きがとれなかったが、やっと間隙を見つけて、二車線(片側一車線)の車道を斜めに走って横断した。
吉井が私立の開明学館を退学したと聞いてから一ヶ月半ほど経っていたが、剛志と同じように、長袖の白シャツに黒ズボンの、季節の変わり目に着る中間服姿で、ごく普通の高校生に見えた。靴だけは、剛志が見たことのない、特殊な形の黒っぽいスニーカーらしいものを履いていた。
駐車場は十台分くらいの駐車スペースがあったが、右端の黒い普通車の他には、左寄りにあるコンビニ店の出入り口の近くに、白い普通車と濃紺の軽自動車が駐めてあるだけだ。
吉井は、黒い乗用車の近くのコンクリート製の車止めの一つに腰を下ろした。
剛志も、吉井の隣の車止めに、黙って、腰を下ろした。
吉井と会うときは、いつも、あいさつ抜きだ。
「三、四十分は待ったぞ」
「えっ、そんなに・・・! 悪かったな。七限目の課外に出てたんだ。和己がここにいるとは思わなかった。どうしたんだ?」
「やつらのこと、どうなった?」
「えっ? ・・・やつら、って?」
「剛志を殴ったり、蹴ったりしたやつらだよ」
剛志はびっくりした。
体育館裏の出来事は、吉井に話すつもりで、危険を冒してまで、相手を特定した。
しかし、結局、話さなかった。
吉井にもどうにもならないことだと思ったからだ。
ところが、川崎と大山のことがあった日は、さすがに頭にきて、吉井を相手に、やり場のない鬱憤を晴らした。
あの時、吉井は、それほど関心を持って聞いていたようには見えなかった。
それに、日数も経っていた。
「・・・和己、もう、それいいよ」
「えっ・・・! おれ、頭にきてたんだぞ」
「・・・でも・・・やっぱり、いいよ。・・・あのことは、忘れてくれ」
「なんだと! それはないだろう。悔しい、と言ってたじゃないかよ」
「悔しいよ。忘れてないよ。でも・・・」
「その後、何もないのか? また、やられるかもしれないと言ってたが・・・」
「今のところ、ない・・・けど・・・和己が、なんで今ごろになって、そのことを持ち出すのか、それがわからん」
「おれと同じことになるかもしれんと思ったんだ」
短い言葉だったが、吉井の複雑な感慨が入っているような気がした。吉井は、上級生たちとの暴力絡みの諍いが原因で、夏休み明けに、折角入学した私学を退学していた。
「上級生だと言ってたが、何年生だ?」
「・・・二年生だ、 三人とも」
「どんなやつらだ?」
「・・・サッカー部の梶原、柔道部の杉元、大迫・・・で、どうするつもりなんだ?」
「校門を出て来たら、教えろ」
「えっ・・・!」
剛志は、吉井が突拍子もないことを言い出すのには慣れていたが、さすがに、これには驚いた。
「それ・・・困るよ」」
「何が困るんだ? おまえの問題だぞ」
「だから、困るんだ。大騒ぎになったら、おれ、学校にいられなくなるよ」
「そんなことにはならないはずだ」
「えっ・・・! どういうことだ?」
「おまえはそいつらに見つからないようにすればいい」
「そんなことできるかよ。いくら和己でも、一人じゃ、どうしようもないじゃないか。それに、おれのことで仕掛けてきたんだと、やつら、すぐ気づくはずだろう?」
「やられてんの、剛志だけじゃないんだろう? それに、おれがおまえと関係があるっての、そいつら、知ってんのか?」
「いや・・・知ってるはずないよ」
「じゃ、いいじゃないか・・・部活やってんなら、帰りが遅くなりそうだな。それでも構わん。校門を出て来るのは何時頃になりそうだ?」
吉井の訊き方には嫌も応もない。
吉井の気性を知っているので、逆らえない。
剛志は、田島から、杉元や大迫の放課後の動静を聞いていた。
県立K高、地方の拠点校の一つとして、進学実績を伸ばしており、部活は部員の練習時間をあまり拘束しないところが多い。
柔道部の部活が終わるのは六時頃だが、杉元と大迫は、梶原が迎えに来ると、早めに部活を抜け出して、五時半頃いなくなることがある、と田島は言っていた。
「進学校だから、あまり遅くまで部活をしない。それでも、六時半とか七時頃までやってる部がある。サッカー部もそうなんだが、梶原は早めに部活を抜け出すことが多いようだ。だから、校門を、いつ出てくるかわからないんだ」
「じゃあ、校門を、ずっと、見張ってればいいんだな」
剛志は、吉井と梶原らを出会わせたくなかった。
「見張るったって、出て来るのは、早くても、五時半過ぎだぞ。普通だと、六時半より遅くなる。そんなに待つつもりかよ。・・・それに、ここで見張ってても、やつらが校門を出て来るとは限らんぞ。学校にいないかもしれんし、裏門もあるんだ」
「あは、はは。それで、やめろ、ってか。怖いのか?」
「杉元と大迫は、柔道の有段者で、体格も体力も普通じゃない。見ただけで逃げ出したくなるようなやつらだ。もっと厄介なのは、梶原だ。梶原は、上背があって、筋肉質だ。サッカーの他に、ボクシングジムにも通ってる。三年生も梶原には手出しをしない、って聞いた。二年生だが、梶原は、おれの学校の番長みたいなやつだ」
「ほーう、そうか。こいつは面白い」
「えっ? 何か、やるつもりかよ! 相手は三人だ。それも、今言ったように、腕力自慢の恐ろしい連中だ。和己がひどい目に遭うだけだ。ケガじゃすまないぞ」
吉井の目が光った。
吉井を煽ってしまう結果になったようだ。
「・・・二年生で、野球をやってるやつを、誰か知ってるか?」
吉井が、突然、話題を変えたので、剛志はほっとした。
山元さんと安永さんが中学の先輩だ。和己も知ってるだろ?」
「・・・ああ、そうだったな。中学の大会で活躍してたな」
「本校の硬式野球部でもレギュラーだ。・・・何か、関係あるのか?」
「いや、ちょっとな。・・・ま、とにかく、やつらが校門を出て来たら、教えろ。出て来なかったら、また、考える」
「えっ! ・・・困ったなあ」
「なにっ! 何言ってんだ! だれのためにここに来てると思ってんだよ!」
2
吉井は、体は小柄だが、切れ長の目が鋭く、精悍な風貌をしていた。幼い頃から空手道場に通っていて、その技量は、有段者の多い道場の中でも際立っていた。
吉井は、無鉄砲のように見えて、年齢に似合わぬ利口なところがあった。
剛志は、中学時代から、いろいろな場面で、それを見てきていた。
吉井は、例の三人に、どういう闘いを挑もうとしているのか。
吉井は、車止めから腰を上げて、黒色の乗用車に近よると、助手席の横のガラスを右こぶしの背でトントンとたたいた。
若い男が運転席の方から降りてきた。
切れ長の目が鋭く、日焼けした顔が精悍に見えた。
吉井が、早速、自分の兄の政博だと紹介した。
そう言われてみれば、目元や口元が吉井に似ていた。
吉井に八つ年上の兄がいて、その兄が、以前、有名な暴走族集団の総長だったと聞いたことがあったが、会うのは初めてだった。
剛志が、緊張して、丁寧に頭を下げると、政博は、白い歯を見せて笑って、首だけ曲げる鷹揚な会釈を返した。
髪の毛を短く刈り込んでいる。
吉井より背が高く、体型も太めだ。
上はダークブルーの長袖シャツ、下は股から下が大きく広がった迷彩色の作業ズボンに黒革製の半長靴だ。
剛志のことは、吉井から聞いて、よく知っているようだった。
剛志は政博がここにいる理由がわからなかった。
吉井が、腕時計を覗いて、五時までまだ二十分ある、見張りを始めるのは六時頃でいいだろうから、ちょっと早すぎるな、と言った。
剛志は、梶原らは五時半頃には学校を出るかもしれないと思ったが、何も言わなかった。
和己が六時頃でいいだろうと言うのを聞いて、政博が、そんなら、悪いけど、つきあってくれや、昼食をゆっくり食べる時間がなかったんだ、と言った。
政博は、車で四,五分も走れば、小さなラーメン店があることを知っていた。
ラーメン店は、住宅街の一角にあって、古い二階屋で、一階部分が店舗になっていた。
店の横手の駐車場は、普通車なら五、六台は駐められそうだったが、他に駐めてある車はない。
暖簾をくぐると、いらっしゃい、と威勢のいい声がした。
狭い店内には、カウンター席の他に、テーブル席と小さな座敷席があった。
他に客の姿はない。
政博は、カウンター越しに声をかけた店の主人らしい初老の男と顔馴染みらしく、よお、と右手をあげただけで、座敷席に腰を下ろすと、すぐに半長靴を脱ぎ始めた。
畳を三枚ほど平行に並べた狭い座敷には、二つの細長い折りたたみ式の簡易テーブルがあって、片隅に薄い座布団が七,八枚重ねてある。
政博は座布団を三枚取って、右側のテーブルの周りにばらまいてから、そのうちの一枚を自分の尻の下に敷いて、胡座をかいた。
吉井も、それに倣って、スニーカーを脱いで、政博の向かい側に座った。
剛志は、そんなところに上がり込む気にはなれなかったが、政博に促すような目を向けられて、結局、靴を脱いで、吉井の隣に座るしかなかった。
政博が、ラーメンを三人分注文してから、カウンターの向こうでラーメンを作り始めた主人に声をかけた。
「川上さん、景気はどう?」
「まあ、ぼちぼちですよ」
「連中、最近も来てるかい?」
「ええ、時々、どやどやと、十数人」
「迷惑をかけてないかい?」
「いえ、この周辺では爆音を控えてくれてます。みんな、気のいい若者ばかりで、食べ終わると、どんぶり類を片づけてくれます」
「おれの頃と変わってないようだな」
「そうですね。極真のマサがリーダーだった頃のようにはいかんでしょうが、鉄拳のテツが目を光らせてますからね」
「鶴田のやつにも、長いこと、会ってないな・・・」
政博は、遠いところを見るような目をした。
「ところで、客はおれたちだけで、気の毒だな。いつも、こんな風なの?」
政博は、急に、話題を変えた。
「いや、この時間に入ってくるお得意さんはほとんどいないんですよ。パートさんに休んでもらえるし、家内は家事ができるし、こんな時間も必要なんです。昼時には、ほぼ、満席になります。これから先も、あと二時間もすれば、忙しくなります」
「相変わらず繁盛してるんだね。いい麺使ってて、出汁の味も絶品だもんな」
「この近辺にも、コンビニなんかが増えて、どうなるかと思ってるんですが、今のところ、なんとか・・・命がけで仕込みをしてますからね」
「あは、はは。命がけ、とはね。それで、頭が薄くなったんだな」
「頭が薄くなった、ってのは余計です! これでも、気にしてるんだ。朝晩、育毛液をたっぷりぶっかけて、頭をブラシでたたいてるんです」
「あは、はは。川上さんが頭をブラシでたたいてるとこ見てみたいもんだな」
「こうやって」
オヤジは、手近の棚からシャモジを右手に取ると、目を皿のようにして鏡を見ているような恰好をしながら、シャモジの平べったい部分で頭をたたいている様子を演って見せた。
「あは、はは。苦労してんだね」
「そうなんですがね。手間をかけてる割には、以前より抜けてます」
「それは気の毒だな。ところで、白髪になっても頭の毛は生えてくるもんかね」
「黒い毛が生えてくる、と宣伝してる毛生え薬を使ってます。なんにでもよく毛が生える、ってんで、その容器のビンにも黒い毛が生えてますよ」
オヤジは、ニコリともせずに、そんなことを言う。
「まさか! ほんと?」
「頭は生えてこないけど、アソコの毛は増えてます。見せましょうか?」
「見たくない、そんなもん」
「あは、はは。最近のコマーシャルは騙し方が半端じゃないですね。あたしも騙されてんじゃないかと思い始めてます」
「気がつくのが遅過ぎるんじゃないの。言っちゃ悪いけど、育毛剤が効くような年齢には見ないんだけど、いくつになったの?」
「もう、トシですよ。五十歳になりました」
「ほう、まだ五十歳なの。十年以上も前に、父親に連れられて、ここに来たときも、確か、五十歳だったな」
「あは、ははは・・・。吉井さんにあっちゃかなわないな」
政博とラーメン店のオヤジの会話は、まるで、かけ合い漫才のようだった。
吉井は、二人のやり取りを、煽るような顔をして、時には笑い転げたりしながら、聞いている。
五時半以降のことは、全く頭に入っていないように見えた。
3
吉井が、そろそろ出ようか、と言って、腰を上げた。
時間の経過を忘れていたわけではなかったようだ。
政博も、時計に目をやって、腰を上げた。
午後五時半になるかならないくらいの時刻だった。
剛志は、まずい時間帯だと思ったが、黙って行動を共にするしかない。
三人は、政博の車で、学校前のコンビニ店に向かった。
政博が運転席、吉井が助手席、剛志は吉井の後の後部座席に大きな体を縮めるようにして座っていた。
「うまく誘き出せるか?」
「方法は考えてあるが、やってみないとわからんな」
「今日でなくちゃいかん、というわけでもないだろう」
「いや、あそこだったら、今日でないとだめだ」
前の二人は、そんな会話をしていた。
剛志には意味がわからなかった。
コンビニ店の駐車場に着くと、四,五台の車が駐めてあったが、右端から三番目の駐車スペースが空いていた。
政博は、そこに、バックで車を入れた。
コンビニ店も駐車場もすっかり日陰になっていた。
政博は、コンビニ店に入って、缶コーヒーを三つ買ってきた。
校門の周辺は、まだ、遠方のビルの向こうに没しかけた西日に照らされていた。
片側一車線、計二車線の街路を隔てて、右前方に校門の周辺が見渡せた。
部活を早めに終えた男女の生徒たちが、三々五々、校門を左右に分かれて出て行く。生徒たちの顔は、個々に、識別できた。
剛志は、運転席の後に移り、体全体を縮めるようにして、校門の方に目を凝らしていた。
駐車場に車を駐めて、一〇分経つか経たないうちに、剛志が、緊張しきったどもり声を出した。
「あ、あいつらだ! さ、三人一緒だ!」
どの生徒と、どの生徒だ、と吉井に教えてやる必要はなかった。
見張りを始めた時間が、剛志の願いに反して、ぴったり合ってしまった。
剛志の胸の動悸が早鐘を打つようになった。
吉井は、三人に目を留めると、すぐに、車のドアを勢いよく開けて、飛び降りた。
車道脇の歩道に出たが、車の往来が多い時間帯で、街路を横断できない。
歩道から身を乗り出すようにして、三人に向かって叫んだ。
「ちょっと、待ってください! 部活、のことで話があるんです!」
吉井は、部活、という言葉に力を込めた。
叫ぶような大声だったが、丁寧な言葉遣いだった。
途端に、剛志は、学校を退めてから派手な私服しか着なくなっていた吉井が、ごく普通の高校生らしい服を着ている理由がわかったような気がした。
三人は、立ち止まって、手を上げて呼びかけている吉井の方に顔を向けた。
三人とも、通学カバンを右手に提げて、長袖の白シャツに黒ズボンの中間服姿だ。
刈り上げ頭の杉元が、吉井に向かって、
「どこの学校? 君も柔道部?」
と、叫び返してきた。
傍らの坊主頭の大迫が、太短い首を捻って、怪訝な顔を向けている。
梶原が、車道側に位置を移して、
「サッカー部?」
と、訊いてきた。
「聞いてもらいたい、伝言、があるんです!」
吉井は、伝言、という言葉に力を込めたが、部活名を無視した。
杉元が梶原に顔を向けた。
梶原が頷くのを見て、杉元は、吉井の方に顔を向けると、左手を横に上げて、人差し指を突き出した。
「向こうに横断歩道があるから、回ってくれる?」
コンビニ店の右方向、三十メートルくらい離れたところに、信号機が見えている。
吉井は横断歩道に向かって駆け出した。
吉井は、青信号になった横断歩道を渡ってしまうと、両手をズボンのポケットに突っ込んで、ゆっくりと三人に近づいて行く。
剛志は、不安に胸を締めつけられて、顔を伏せたくなった。
吉井は三人が待っているところに着くと、ペコリと頭を下げて、何か言い始めた。
ツツジの植え込みの境目にある欅の一本目の木の近くだ。
ビルの向こうに没しかけた西日が、欅の木と吉井と三人を照らしていて、それらの影が学校側のブロック塀まで斜めに長く伸びている。微風に吹かれて、落ち葉が、二,三枚、吉井の近くに落ちた。
剛志が胸の動悸を抑えながら見ていると、どう話をつけたものか、吉井が三人に背を向けて歩き出すと、三人も後に続いた。
政博は、これを予測していたように、エンジンを始動すると、すぐに発進した。右方向からの車が途切れたところを見計らって、駐車場を出ると、左に向かった。吉井たちが歩き出した方向だ。
政博は、彼らを一度も振り返ることなく、車を一五〇メートルほど走らせた。左折の合図のウインカーを点滅させ始め、速度を緩めると、ハンドルを左に切った。
乗り入れた路地は、普通車がやっと離合できるほどの、左右に民家が建ち並んだ坂道だ。
坂道を徒歩で五,六分ものぼると、右側に剛志の学校のサブグラウンドがあって、野球部が、大会前は、七時前まで練習していた。
野球部が練習しない日は、特別な学校行事でもない限り、グラウンド内に立ち入る者はいない。
この日は、秋の県大会の二日目か、三日目で、野球部が出場する日だった。
大会出場日に野球部がサブグラウンド《ここ》を使うことはない。
県大会ともなれば、ダグアウトに入れない者も、全員、応援に参加する。
剛志は、やっと、吉井が考えていることがわかったような気がした。
迷いのない運転ぶりからみて、政博も下見を済ましているはずだ。
グラウンドの入り口には、柵状の門扉がある。
剛志の肩ほどの高さがあった。
鉄骨の頑丈なもので、レールの上を滑らせて左右に開く仕組みになっている。内側の腰ぐらいの高さのところに、鉄棒状の柵止めががっちりはまっていて、簡単に開くとは思えなかった。
政博は、門扉の前に車を停めて、車を降りた。
柵止めの前に立つと、内側に右手を入れて、鉄棒を横に滑らせて、難なく外してしまった。重い門扉の右側だけを押し開けておいて、運転席にもどると、車をグラウンドに乗り入れた。それから、また、車を降りて、門扉を閉めると、元通りに柵止めをした。
事前に要領がわかっていたとしか思えなかった
三塁ベースから十四、五メートルほど離れた位置に、部室と用具入れ兼用の、細長いクラブハウスがある。古い木造で、壁板も木製の窓枠も白いペンキが剥げかかって、前面の防護用の金網は、錆びが目立ち、黒褐色に変色していた。
クラブハウスは普通車を、縦に三、四台、並べられるほどの長さがあった。
政博の車は、その前を通り過ぎて、裏側に回った。
クラブハウスの裏は小さな雑木林になっていて、その手前の空き地は、雑草がかなり生い茂ったままだったが、車を乗り入れるだけの空間が十分にあった。
政博は、何の躊躇も迷いもない様子で、そこに車を乗り入れた。
車を駐めた場所は、グラウンドの入り口や三塁ベース寄りの内野側から見た場合は、完全な死角になっていた。