第九章
この業病の様な眷恋に取り憑かれた人間が送る暮らしとはどのようなものか?恐らく何事もなかったかの様な顔をして平凡な毎日を送り続ける事が異常なまでに苦痛となるに違いない。ご多分に漏れず私もそうであった。彼女に捧げられていない一瞬一瞬が拷問の様に堪え難い時間であった。私は自分が犠牲になるべき対象を見つけたのだ。その他の森羅万象に一体何の意味があるであろう?然るに私はそんな無意味なものに取り囲まれ、それらに消極的にではあるにせよ関わって生活せねばならなかった。犠牲の観念が創り出す無意味がこれほどにまで苦痛だとは!しかしそんな苦痛はまた私を自愛へと導くのだった。なぜならその苦痛は私の犠牲の正当性を証明していたからである。彼女が私の神でなければ、これほどにまで全てが無意味と化すであろうか?私の進路について助言する教師、未だ私に期待をかける両親、彼らはつまるところ私に国家の犠牲になる事を勧めていた。長々しい服従の犠牲を。しかしその犠牲は私の全てから意味を奪わなかった。つまりそれは本物ではなかったのである。故に私から全ての意味を奪った彼女こそ本物である!
そうした理論を隈無く点検し、彼女が間違いなく私の唯一の存在意義である事を確認してから、私はやっと彼女自身に思いを馳せるのであった。
あの時、彼女には数人の男が群がっていた。これは男女の性質から言えば極めて不自然な状況であった。なぜなら生殖機会において、女のそれは男とは比較にならぬ程尊いからである。つまり尊いものを大勢に与える事は著しく困難で、それに比べて卑しいものを大勢に与える事は容易いのであるから、むしろ一人の男と大勢の女の組み合わせの方が遥かに自然の均衡を保っているのである。実際、人間以外のほ乳類の集団構成がそれを証明している。それでは一体彼女を中心としたあの集団の不自然さを何によって説明できよう?少なくとも、あの集団は生殖目的で繋がっている訳ではない。だがあの愚連隊どもがそうした欲求を微塵も持たぬとは到底思えない。何せ彼らは肉体的には健全過ぎる程健全な、純粋な「男」なのだから。それに対して、彼女は与えるつもりなど毛頭ない。つまりあの集団の不自然さはあたかも男女双方が生殖を目的にしない様な素振りを見せつつ、そのくせ一方が暗黙のうちにそれを求めているという欺瞞性に由来するのである。そんな猛獣と調教師の様な関係性。それを彼らが友情と呼ぶかどうかは知らないが、彼らは無意識のうちに、神を曙に頂いた屍の山の構図を成していたのである。私が彼女に姉を重ね合わせたのは、正にそういう構図のせいであったろう。
しかしこんな分析は私の心休めにはならなかった。分析は事態を変えはしない。真実を明瞭にする事で、その存在が変質する事は決してないのである。私の日常は日に日に憂鬱になっていった。しかしその憂鬱こそが私の生き甲斐であった。私は生活の隅々にまでその憂鬱を敷衍し、吟味した。そして私は増々孤独になった。学校にはそんな私を時折冷やかして、嘲罵を浴びせる同級生も少なからずいた。しかし私は前述の通り孤独を愛していたので、彼らの嘲罵は私に賛辞を呈する効果しかもたらさなかった。しかし勿論、私はそんな毎日に安穏としていた訳ではなかった。私は彼女に向けられていない、何一つ変化のない毎日に対して次第に焦燥を感じる様になった。私は未来への扉が徐々に閉まりかけていく様な気がしていた。扉は錆び付いた蝶番から鈍い音を立て、僅かな隙間から漏れる光を次第に細めて、私を暗闇の中に取り残そうとしていた。私は急いでそこに駆け寄って扉を開けなければならなかった。しかし走ろうにも私には足がない。扉を押し開けようにも私には腕がない。つまりありとあらゆる手立ては私から奪われていた。私は自分の無能力を恨んだ。世界中のどこに行っても、私が私である限りはどうしようもないのである。すなわち私は無意味の密室に閉じ込められていた!そんな状況を打破するのは、やはり時間という名の魔術であった筈である。私はひたすら自転車をこぎ続けた。こげばこぐ程時間は流れてゆく筈であった。それは通り過ぎる風景とともに。草木の緑を映した透明な川面は穏やかに風景を潤ませ、黄と緑で編まれた重厚な絨毯を敷いた様な田園は凪いだ微風に穂を揺らし、桃色や薄紫色の花弁を広げた花々が空に向かって咲き誇り…。しかし弥増さる眷恋の中にあっては時間すら容易に流れてはくれなかった。彼女を巡る私の思考の推移は、物質世界の運動よりも速かった。つまり外界の時間が私には遅く感じられたのにも無理はなかったのである。従って私の焦燥は内外の時間の懸隔の分だけ募っていった。時間が経てば経つ程それは堆く積もってゆき、やがては私のあらゆる感覚を支配する様になった。どんなものを見ても聞いても、私は彼女をしか連想できぬ様になった。いつしか私は学校帰りに彼女に出会ったあのコンビニの裏の駐輪場に行き、日が暮れるまでそこで待つ様な愚行を働くに至った。冬の待ち伏せは寒さが身に沁みて、私は何度か風邪を引きかけたが、それでも元々私の罹患している「熱病」に比べれば遥かにその症状は軽かった。何せ私はこんな愚かしい時間にのみ生きている実感を得る事ができたのだから。しかしながら彼女は私の前に現れなかった。彼女が私と同じ高校の生徒である事は彼女の制服からして間違いなかったが、私の通っていた高校はマンモス校であり、敷地が広大であったため、学校内で出会う事もなかったのである。私はとうとう腹を決めて、放課後から学校が閉まるまで校門の前で待ち伏せする事にした。こんな古典的な手口をそれまで思い付かなかったのはよほど私が精神的に追いつめられていた為であろうか。しかし追いつめられたが故に思い余って恥も外聞もなくそんな陳腐な手段に訴えたとも解釈できる。すなわち私は彼女に出会った時から既に追いつめられており、無力に思えた時間の流れが結局はその状況に飽和をもたらし、私を行動へと駆り立てたのだとすれば、それは時間の効力という観点から見てある程度は蓋然性のある話である。