第八章
高校では、私が部活動に所属する事はなかった。教師も両親も、
「学業に専念する」
という私の言を鵜呑みにした。内心私は一刻でも長く一人でいたかったのである。一人で過ごす時にのみ、私は現実から自己の内面世界に逃避できる様な気がしていた。一時間余り自転車をこぎ続ける登下校の際も、私はいつも一人であった。あの黙々とペダルをこぎ続けた時間は私にとって何だったであろう?それはともすると同じ道のりの無意味な往復に見えた。しかし私の眼差しの先には一つの希望を見据えていた。それは時間というものの概念によってもたらされる希望であった。空の表情、田畑の緑のそよぎ、川のせせらぎ、風の音、日光の煌めき。これらの刻々とした変化は、一つとして同じ時間などないことを意味していた。時間とは存在の変化であり、つまりは時間によって全ての存在は変質し、問題は何らかの結論を見出し、それによって心の迷いなどは蒸散していく筈であると私は信じた。外に出て運動をする事にはこんな精神的効用があるらしかった。私は長くひたすらまっすぐな道のりを疾走しながら、現在が確実に過去に変わっていくのを感じていた。そして遥か遠くに延びた道のその先に、必ず「何か」が待っていると信じて、私は一人そこに向かって突き進んだ。そんな私の楽観的な空想を遮断されない為に、私は一人でいる事が是非とも必要であったのである。
そんな予感は意外にもすぐに現実のものとなった。ある秋晴れの日であった。生徒達の制服が夏服から冬服に変わって間もない頃、私は下校の道すがら、いつもの様に学校の脇にあるコンビニへ立ち寄った。私はコンビニの裏にある駐輪場に自転車を止めた。そこは人通りの多い公道からは建物の陰になって見えない薄暗い場所であった。コンビニで暫く雑誌を立ち読みし、買い物をした後店を出て、私が自転車の止めてあった裏手に回ると、そこには五、六人の男子高校生が屯し、私の自転車を取り囲んでいた。彼らは私と同じ制服を着ていたので、すぐに同じ高校の生徒である事が分かった。彼らを一目見てもう一つ気付いた事は、彼らはどうしようもない不良学生であるという事だった。それは一見して明らかであった。シャツの襟は胸の辺りまではだけ、しどけなくズボンをずり下げ、下品な色の髪は逆立ち、肌は浅黒く…彼らのどぶ川の色に淀んだ目という目がこちらに穢らわしい視線を送っていた。彼らは純粋な「男」であった。悪の力、数の力、そうした人工の知恵によって模造可能な力を纏う事で、彼らは犠牲者になろうと企んでいた。本来なら諦めるべき犠牲者の地位を!彼らは敗者である事を自覚していた。しかし男である事をやめられなかった。彼らの苦肉の策はもはや社会から認められぬ、排斥されるべき悪の道であった。そのいじらしさときたら!しかしその時私は彼らに怯えていた。彼らはいずれも体格において頗る恵まれていたのである。増して肉体の貧相な私と比べれば雲泥の差であった。健全な精神は健全な身体に宿れかし。健全な身体には得てして不健全な精神が宿るのが常であるようだ。しかし私から見れば彼らの精神は極めて健全であった。
彼らのうち、大柄な一人が不敵な笑みを浮かべて言った。
「よう、これお前のか?」
指差す自転車のサドルには既に柄の悪い坊主頭が腰を下ろしていた。
「ちょっと貸してくんねえか?なあ?」
私の足元にしゃがみ込んだ偉丈夫が上目遣いで私を睨む。私は膝の戦慄きを感じた。身体が凍結し、視覚、聴覚が現実から遠のき、薄ぼんやりとした感覚だけが脳裡を冒すのみとなった。
「おい、早く鍵よこせよ。じゃなきゃ金とんぞ」
彼らが私に詰め寄ってくるに従って、私は視線を合わせまいと俯いた。私は声をあげて助けを求める事もできなかった。それが恐怖からか羞恥からかは分からない。私は俯いたまま黙っていたが、やがては彼らの一人に胸ぐらを掴まれて引き上げられた。すると否応無く私の視界は香水の匂いのする屈強な身体で占められた。犇めき合う彼らの身体は私を突き飛ばし、なおもじりじりと詰め寄り、今度は私の足を蹂躙した。
(好きにしろ…)
私は諦念と放心の混淆した不真面目な沈黙を守り、もはやなす術など考えてはいなかった。
その時である、私の背後からその声は響いた。それは降り注ぐ様な救済、あるいは柔らかな君臨、ああ、何と表現したら良いだろう!ともかく神は私の背後に、平然と現れた。
「ちょっと、もう行くよ」
彼女は西日の逆行を背に浴びて、その制服姿の輪郭を金色に縁取られていた。彼女の一言で、愚連隊はまるで潮が引く様に私の前から退き、彼女に引き付けられていった。彼女はその愚連隊の中にいて一際小さく、華奢であったが、その嶄然とした気高さによって彼らより抜きん出た孤高の位置にいる様に思われた。彼女は踵を返しつつ、一瞬こちらを睥睨した。その横顔に垣間見えた人を寄せ付けぬ様な凛とした目元とすらりとした鼻梁は却って蠱惑的で、この世のものとは思えぬ威光を放っているかのようであった。その時彼女は私の中で姉の姿と重なり合い、完全に同化した。私は今しがた受けた恐怖と恥辱を忘れ、幼い日に見た夢を漂い、懐古の念に似た胸の痛みを覚えた。呆然と立ちすくむ私を置き去りにして、一群は薄暮の中を去っていった。こうして私は自転車を奪われる難を免れたのである。奪われるどころか、私は与えられた。神の存在、私の生きる唯一の意味を。