第七章
結局、私は中学を卒業するまで劣等生のままであった。その為、それまで通っていた中学と同じ系列の高校に内部進学する事ができなかった。両親は大変落胆し、私を見放すかに思えたが、それでも一片の慈悲で別の私立高校に私を通わせた。両親はあくまで「良き親」であり続けようとしたが、とは言え真に私の幸福を願っていたかどうかは疑問である。その高校はろくに受験勉強もしない私が入学を許可されただけあって、学業の適性が全くない学生の集まる高校であった。そのため私を取り巻く人種が、中学時代とはまるで変わった。彼らは概ね二種類に分けられた。一つは猛禽の集まりの様な所謂不良学生で、こういう人種は言わば義務教育の延長として高校に進学したに過ぎず、本来高校に来る必要などない人種であった。こういう人種がはびこるお陰で校内暴力を目にする事等はもはや私の日常になっていた。それとは対照的に、もう一つの人種は至って真面目な人種であった。真面目で勤勉で、朝早く登校して自習し、授業中は几帳面にノートをとり、放課後も図書室などに居残って自習をしている。それなのに筆記試験となると前者の不良学生にも及ばない。そういうこの世の残酷さを体現した様な人種であった。私はそのどちらにも属さなかった。相変わらず私はろくに勉強をしなかったのだが、高校での成績は学年でトップをひた走っており、改めて努力の無意味さを感じていたのだった。人間の一生など生まれたときから決まっているのだ。それは神と人類の序列が決して覆らない様に…。またそういう考えが私を幾分か安堵させた。
そんな訳で私には友人がいなかった。同じ様な立場の人間がいなかったのである。因みに健司は中学から高校に易々と内部進学したので、高校進学以来私達が会う事はなかった。
そしてもう一つ重要な事は、私の入学した高校は男女共学だったという事である。高校には男子生徒の3分の1程度ではあったが、女子生徒がいた。私には彼女達と接する機会はなかったが、初めて間近で見る彼女達の制服姿の新鮮さに心打たれたものであった。深緑のブレザーにマドラスチェックのスカート、純白のブラウスの襟元に慎ましく結ばれた真紅のリボン、スカートからまっすぐに伸びた脚は膝下から紺色の生地に金色のワンポイントをあしらった靴下に包まれており、靴は光沢のある焦げ茶であった。全身が芸術作品の様に美しい女子の制服に比べて、男子はと言えば相も変わらず全身真っ黒な学ラン姿であった。こんな対比に喜びを感じていたのは、もしかすると私だけではなかったかも知れない。美しさとはあくまで他者の美しさであり、自身を貶める事によってより手の届かない高みに昇華するものであるから。しかしその崇高さを私程知悉していたものがあろうか?ここに至って私を喜びに満たしたのは、その崇高な美しさよりも、それによって証明された自らの正当性であった。周りの連中はここに来てやっと私の育んできた真理を理解し始めている様に思えるのだった。そしてまたそんな優越感があるがために、私は孤独だったのである。つまり私は孤独を何よりも愛していた。自身の初志貫徹した正義、それは雲間から私を照らす一条の光であり、私にしか認識できない宇宙の色であった。それが私の孤独であった。
最初のうち、私は電車で通学した。しかし自宅から最寄りの駅までが遠い上に、そこからの路線が最短距離を徒に迂回して走っていた為、やたらと通学時間がかかるので、半年で辞めてしまった。それから私は自転車で通学する様になった。国道沿いやだだっ広い田圃、延々と続く川沿いを一時間以上もこぎ続けなければならない道のりだったが、運動不足を解消できるというのと、通学定期代がかからないという理由で両親も賛成し、私は暫くそれを続けた。しかしそういう日頃の肉体的鍛錬にもかかわらず、私は蒼白で小柄で痩身の、軟弱な身体のままであった。私の肉体の弱さは遺伝子レベルで私に染み付いており、生涯覆る事はない様であった。つまり私は生涯「男らしく」なる事ができない訳で、それは個人の意志ではどうしようもない事なのであった。かつて「男らしく」なる事を恐れていた私も、さすがにその頃になれば「男らしさ」が女性に認められる為の必要条件である事に気付いていた。それは私が神にも、その犠牲にもなれない事を示唆しており、私にとって殊更残酷な啓示であった。そのためそれまでの私の矜持は一転して恥辱に変わった。それでは健司がいつか言った様に、貨幣経済を恣にし、神をも支配できる立場になれるだろうか?世間知らずな私ははなからそんな「迷信」を信ずる事ができなかったのだが、もしそれが正しいと仮定しても、どのみち私は支配者にはなれぬであろうと予見した。そうして私は自らの価値観の中で袋小路に入ってしまったのである。果たして青春の迷いとはこのようなものであろうか?恐らく大方の部分についてはそうであるに違いない。それは孤独な部屋から外界への扉を恐る恐る開き、眩い光に感覚を順応させていく過程であって、私にもその過程が必要であったという事であれば、私の懊悩は周囲から看過されて然るべき単なる成長過程であった。然るに、その成長過程の結末が適応という惰性ではなく、犠牲という一つの結実を求めている事に対して、私と私の周囲の人間は警戒しなければならなかった。異質を警戒し、摘出する事は社会の役割である筈だった。それが不可能である程に、私は周りから自然に見えていた。青春時代というのはつまりは誰にとっても異常な時期であるらしかった。