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少年と刃  作者: 北川瑞山
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第六章

 学校から家に帰る道すがら、私は健司に洗いざらいの告白をした。私の崇拝が実は私だけのものではなく、この世の中に暗黙のうちに流布された了解であることの確証が得られた上での告白であった。が、健司は私の告白を聞くや、大口を開けて笑い出した。

「君の言う犠牲とはそんな事だったのか。それは大いなる思い込みだ」

歩きながら健司は路傍に咲く紅色の躑躅の花を摘み取った。

「だがあながち見当違いでもない。なかなか本質を突いているよ。確かに女は僕たち男よりも崇高な存在だ。カマキリの雄は交尾の後に雌に食われると言う。しかも食われた雄はまだ幸運な方で、以前君が言った様に殆どの雄は雌の犠牲にすらなれない存在さ。だがね、人間の社会というのはそういう本質が見えなくなってしまうくらいにまで成熟しているんだ。崇高さに胡座をかいていた女は今や支配される側に置かれている。いつの間にか力を持った男は一夫一婦制を敷き、どの男でも公平に女が得られる様に細工をした。そこでは女はもはや男の所有物に成り下がっているんだ!彼女達を支配したものとは何なのか?それは貨幣経済という化け物だ。結局、女の持つ人類の繁栄という目的合理性は貨幣経済という更に合理的な化け物を生み、他ならぬそれによって女は支配されるに至ったのだ。何たる皮肉だ!」

健司は躑躅の花の根元から蜜を吸い、道端に捨てた。花は横たわって花弁を揺らし、血の滴りの様な艶やかな寂寥をそこに附していた。健司は続けた。

「犠牲になろう何て考えるな。社会は僕らと共にある。僕らはただ流れに従って生きるだけで、勝者になれるんだ」

健司の聡明さに、私は絶望した。なぜなら健司の言った様な事は、以前明の部屋で猥褻な雑誌を目にした時に、私自身薄々感じていたからだ。ただしあの時私はそれを感じつつも容認する事はできなかった。しかしそれが今こうして他人の口を介して伝えられると、より明瞭な真実性を帯びて聞こえ、その事が私を絶望に至らしめたのである。それでも私はその論理を認めたくはなかった。

「どうやら君と僕は感性が違うらしい。僕にはとてもそんな風には思えないよ」

私の気弱な反駁に、健司は鼻で笑いながら答えた。

「感性だって?馬鹿な事を言うもんじゃない。これは論理の問題だ。そもそも優れた感性というものは須く論理の集合体であると考えられるべきだ。論理に沿わない感性など論理を駆使できない者の逃避の場でしかない」

私は価値観を覆されまいと必死になった。

「じゃあ論理で答えるさ。女が支配されていると言ったね?それはどんな根拠に基づいているんだい?経済的にはなるほど、支配されていると言って良いかも知れない。しかしそれはあくまで経済を世の中心に据えた前提での話だ。例えば家庭を中心に据えてみたらどうだ?女は家庭を育む主体であり、男はその為の糧を稼ぎに遣らされる鵜飼いの鵜じゃないか。どちらが支配されているなんて一概には言えない事だ」

そこまで一気に言い切ると、私は心持ち息を切らせた。しかしそんな私と対照的に、健司は口笛でも吹く様な冷淡な表情で受け流した。それは実に残酷な表情であった。

「何を世の中心に据えるべきか、君も恐らく分かって言っているんだろう?」

私は訳が分からなくなった。

(姉の幻影は、崇高な神の存在は、犠牲への憧憬は、全て間違いだったのか?いや、間違いの筈はない。ではこの成熟した社会ではもはやそれが顕現し得ないのか?しかし世の潮流はどうあれ、生命の本質は不変の筈だ)

この時私が世の流れに逆らってでも本質に近づきたいと考えたのは、ごく自然な発想ではなかったか?むしろそうした逆行が自矜にさえなり得たのは、この時期の少年の場合珍しい事ではなかろう。もっともその時の私にはそれは逆行とは思われなかった。なぜなら自然の摂理に逆行しているのはむしろ成熟社会の潮流の方であったからである。そういう意味では、私の意志は自然への回帰と言っても良いかも知れなかった。

(人類の知恵は神を超えてしまったのか?人類を創造したのは神であるのに?そんな筈はない!)

こんな原理への回帰が逆行と考えられる事こそ私にとって不快であった。

 私はその後、健司と別れて帰宅した。家では母が薄暗い台所の明かりだけを付けて、夕食の準備をしていた。その姿は家庭を育む者の崇高な姿でなければならなかった。然るに家の片隅で水仕事に勤しむ母はどう見ても支配された者の様相を呈していた。薄暗い部屋の中、私は腰を落ち着けてテレビを付けた。バラエティ番組の喧噪が家中の静寂を破って拡散した。あるタレントが夫婦で出演していた。妻が夫をいじめ、ひっぱたき、それによって周囲の笑いを引き出していた。それは明らかに弱者が強者を攻撃する事の倒錯によって引き起こされる笑いであった。確かに男は強者になってしまっていた。

 勿論、このような日常の営為に私がそれまで気付かぬ筈はなかった。しかし私はそれらに対し目を閉じ、耳を塞ぎ、自己の価値観、つまり姉の存在をひたすら守り続けてきたのであった。そして私はこの期に及んで、敢えてそういう自己欺瞞を堅持し続けようと思ったのである。


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