第五章
ある日を境に、一つの事件が私の心に根付いて離れなくなった。その時から、私の無為はある執着へと変わった。無為な生活というものは自己の外側を生きているがために無為と化してしまうのであって、その生活が何らかの契機で自己の核心に触れた時には周りに障害物のない分、却って凄まじい求心力でそこに引き付けられるという事がよくある。それが私の執着であった。
その事件を私が初めて知ったのは、近所のレンタルビデオ店での事だった。私は学校帰りに一人でその店に立ち寄ったのだった。普段なら音楽CDを借りて用事を済ませるところだったが、その日はほんの気紛れで映画のビデオが陳列されている棚を眺めて歩いていた。ただでさえ客足の少ない田舎のレンタルビデオ店であるのに、私が立ち寄ったのは学校の早く引けた午後三時頃であり、剰え雨降りであったので、店内は閑散とし、スピーカーから流れる流行歌だけがやけに五月蝿く鳴り響いていた。私がとぼとぼと入口近くの陳列棚から順に見て回っていると、いつの間にか棚に並べられているビデオが卑猥な種類のものに変わっている事に気付いた。勿論、法的に年齢制限のある猥褻なビデオは店のもっと奥の方にある暖簾の向こうにある事は知っていた。従って私がそこで目にした物はそれよりも敷居の低い、あくまで「性的表現を含む映画」という事になる。私がそういう類の媒体を嫌悪していた事は前に述べた通りである。私はそれらを瞥見したきり素通りした。然るに、心の作用というのは不思議なもので、ある作用を催すと反射的に正反対の作用を催す事がある。それらが合わせ鏡を覗く様に交互に繰り返され、心に迷いが生じる。これは所謂アンビバレンスというものであり、恐いもの見たさ、という逆説はその一環である。私はその恐いもの見たさで、立ち止まり、後退し、その棚に並ぶビデオを眺めた。無辺際に私の視界を占める夥しい卑俗なビデオは、私の頭上から襲いかからんばかりの堆積を成していた。私は周囲に人のなき事を確認し、森の葉叢の一葉を手に取る様な気軽さを装って、その中の一本を引き抜いた。外装の表面を見ると、そこには白皙の少女の裸体が横たわっていた。少女は血の気が失せ、唇は青ざめ、体中痣だらけの状態で叢の中に目を閉じて仰向けになっていた。表題は思い出せないが、裏面のあらすじを読むとこうであった。ある男達が夜道を歩く少女を誘拐、強姦する。その後一ヶ月余りに渡って監禁、暴行を加え続け、少女は死亡。男達は少女の死体を遺棄する…。しかもその作品は実際に起きた事件を題材に作られたということであった。その時私が人類の及ぼし得る背徳の極地を知った事は言うまでもないが、私は何もその非道極まるビデオの内容に衝撃を受けた訳ではなかった。私を慄然とさせたのは、そのビデオの存在自体であった。何故こんな恐ろしいビデオが存在するのか?それは他でもなく市場にそういう需要があるからであった。つまりこの世の男達は心密かに、自身より崇高な存在を汚辱せんと望んでいる!それは正に下克上の欲求であった。本能寺において光秀が信長を闇討ちにした様に、その卑劣な手段を以て男は女という権力者を討つ事を夢見ていた。そんな欲求の確証がそのビデオである事は間違いのない事実であった。背徳の快楽とは抑圧された者の罪深い反動であり、犠牲になるべき対象がその主体を犠牲にしてしまう倒錯であった。そして彼らは間もなく更に崇高な力、現代で言えば国家によって罰せられる。光秀が秀吉に討たれた様に。すなわちそこでは犠牲にする事は犠牲になる事と同義であり、支配する事は支配される事と同義であった。その時私にはこみ上げる微笑とともに、ある自信が湧いてきた。
(僕の神は間違っていなかった!彼女は間違いなく崇高な存在であって、かつ僕は彼女の犠牲になる事ができる!)
問題は私の神、すなわち姉はこの世のどこにもいないという事だった。私は姉の姿を探す事に執着した。しかし姿形の茫漠とした姉を探すのは困難を極めた。町中のどの女性に至っても姉の幻影を満たす事は叶わなかった。
とまれその日私は降りしきる雨の中を駆け出し、帰宅した。家に着く頃には、分厚い積乱雲の奥から日の光が差してきていた。虹色に弾ける雨粒を全身に受け、私の心にも徐々に青空が見え始めてきていた。