第四章
そんな訳で私の小学生時代は、その後の人格形成の礎を築いた時期であった。この礎がなければ、私は幸福と不幸の混濁した、ごく普通の思春期を迎えていたに違いない。神の与え賜うこの世の両極、その表裏一体のものを、私は享受できたのかも知れない。しかしその後の私は至って無為であった。それは神への畏れから来る無為であり、私にとって自己防衛の手段に他ならなかった。少なくとも学校にいる間は、私は無為の海に浸かっていた。
私は小学校卒業後、私立の中学校に入学した。と言っても、ぎりぎりの成績で無理をして入学したので、勉学において私は周囲の生徒からすぐに取り残された。元々逆上がり一回すらできた事のない程の運動音痴であったため、私はたちまち学年中で札付きの劣等生に堕ちた。私はあの港町にいた時の様に、再び孤独に陥った。私の身につけた処世術も、いつの間にか役に立たなくなっていた。処世術を駆使する以前に、人間として相手にされなくなっていたからであろう。もっとも、私の生活を無為にしていたのはそういう自身の体たらくよりも、この中学が男子校であったという事によるところが大きかった。黒い学ランに身を包んだ生徒達の群れ。水牛の群れの様に愚鈍な動きをする彼らの人波を見ていると、この中で何かに秀でていようがいまいが、そんな事はおおよそ無意味に思えるのだった。犠牲者の群れ。書いて字の如く、義に生きる牛の群れ。程度の違いこそあれ、彼らは所詮牛に過ぎなかった。私はよく小学生時代の女児達を懐かしんだ。また、通学中に通りを歩く制服姿の女子学生を目にする度に、自分が彼女達といよいよ袂を分かち、男という荒野を歩みつつある事を知った。
私はその中学において、庭球部に所属していた。運動音痴のくせに運動部に入ったのは、父親の勧めによるものであった。案の定、私はそこでも周りの練習に付いていく事ができず、劣等生となった。そういう訳で、私は三月と経たないうちに、放課後になると部活動を放擲して、そこらの原っぱで時間を潰す様になった。そういう時、私は大概同学年の健司と一緒にいた。健司は私と共に庭球部に入部したが、やはり練習が嫌になって、私と部活動を怠ける仲となっていたのである。もっとも健司は学業では優秀であった為、私の様に全てを諦めた者と違って、純粋に運動が嫌いであっただけであろう。ともあれ家もごく近所であったため、私達はすぐに親密になった。
陰鬱な暗雲の立ちこめるある日の放課後、私は健司といつもの様に部活動に出ず、校舎の脇に立つ鉄塔の麓の高台に登った。そこからはコートの周りを運動着姿でランニングする部員達が米粒の様に小さく、眼下に蠢いて見えるのであった。吹奏楽部の部員が金管楽器を個人練習する音が、気怠く高台にまで響いていた。少し強めに吹く風になぶられて、健司と私はお互い別々の方角の空を見上げながら話をした。
「退屈だな」
そう言った健司の蒼白な横顔に、私は視線を移した。健司の銀縁の眼鏡に光が反射し、表情は分からなかった。
「退屈だね」
私は素直に応答した。現に私は人生そのものに退屈していた。そんな科白をこぼす権利は、むしろ私の方にある様に思われたのである。
「君はこんな退屈をどう思う?僕らはこうして各々の勤めに黙々と従事する群衆を高みから見物している。彼らは何か大きな力に突き動かされている、確かに愚昧な連中さ。しかし彼らは退屈を感じていない。退屈を感じているのはむしろ彼らの愚かさを知った僕らの方だ。それを考えれば僕らの方こそ愚かじゃないか?」
健司は涼しげな息を吐く様に、空に向かって呟いた。世の本質への熟知が憂鬱を生むことに、私は異論がなかった。神の概念、犠牲への憧憬、これらが私から自己を霧消させ、代わりに長く堪え難い人生を課していた。だが同意はしなかった。
「それはそうだ。しかし僕はそれが愚かだとは思わないよ。人生は退屈に満ちているんだ。退屈は僕らの一番の敵だけど、同時に世界の本質なんだ。なぜなら世界の本質とは無意味だから。そうであれば、それを噛み締めて生きる事が唯一の意味じゃないか」
その時、私は健司と同等の退屈に欲望をも見出していた。あてどもない犠牲への欲望。私達の退屈とは、いつしか自らを捧げる為の待ち時間であった。そしてそれは私にとって愚かどころか、私が存在するただ一つの意味に感ぜられたのは当然の事であった。
「君は虚無主義者のくせに随分前向きなんだな。何処かの哲学者に聞かせてやりたい」
健司はその時初めて淡い微笑をたたえた。こういう微笑を見せる時、それは決まって彼が挑発を試みている時であった。私はむきになって彼の挑発に乗った。
「僕は虚無主義者なんかじゃないよ。僕は神の存在を信じているんだ。虚無主義とは違う」
健司はこんな私の主張を、微笑を崩さずに訝った。
「神の存在があって、それでいて世界の本質が無意味?よく分からんな。それじゃあ神は何故世界を創造したんだ?まさか意味もなくただの気まぐれで創ったなんて言うんじゃないだろうね?」
健司は頬杖をつき、眼鏡の奥の瞳でこちらを注視していた。庭球部がラリーを始めたらしい。ボールの弾ける音が足元から断続的に響き渡ってきた。無意味な躍動。私達の同級生はボール拾いをしている。彼らはコートの周りやネットの端に後ろに手を組んだまま直立しており、こぼれ球があると走り寄って素早く拾い、それを籠に入れ、元の位置に戻る。そしてまたくるりと踵を返して後ろ手に直立するのである。無意味な服従。
「…犠牲さ」
私はその言葉を選ぶ事なく、初めて外界に吐き出した。
「犠牲?」
健司は一層訝しげに私を見た。
「そう。神は崇高な存在足り得る為に下界に犠牲を創った。その世界があって初めて神は神として君臨できる訳だ」
そんな私の告白を耳にして、少なからず健司は理解したようであった。が、同時に問いただした。
「なるほど、それは神が世界を創造した理由としてはもっともらしい。しかし犠牲は無意味なのか?」
「犠牲が無意味なんじゃない。犠牲がそれ以外の全てを無意味にしてしまうんだ。僕らの存在理由はそれに収斂されているんだ」
「分からんな。君の言う犠牲がどういう意味を持つのだとしてもだ。それ一つあれば無意味からは脱却できそうなものだがね?」
「ところがだ。犠牲になれるのはこの世の全ての存在ではないんだ。僕らの中のほんの一部、ほんの一握りに限られている。つまりそれ以外の殆どの存在にとって、存在は無意味に他ならないのさ」
「じゃあ、その犠牲とは一体何なんだ?犠牲者を選別する神の存在とは、君にとって一体何なんだ?」
そこまで来ると、私は口ごもった。自分の核心を見透かされるようで、怖かった。沈黙は私達の間に悠然と流れた。まるで私が真実を語る事を戒める様に。私の真実は私だけの物でなければならなかった。言語を介して他人に伝えてしまえば、それは足の早い食物が空気に触れた様に腐敗し、二度と私の元へ戻って来ぬ様な気がした。永久に続くかに思われた沈黙を破ったのは健司であった。健司は足元の草を毟りながら立ち上がり、こう言った。
「よし、わかった。そんならここから一緒に飛んでみよう。ここからなら一発で死ねる」
言うと健司は毟った草を虚空へ向かって撒いた。雑草の葉は弱々しい一個の生命の様な一塊を成していたかと思うと、やがては風に煽られた死灰の如くその断片を拡散させながら舞い落ちた。健司の微笑は一層傲岸になっていた。理論を実証によって確かめねば気の済まないところは日頃からの健司の瑕瑾であったが、とは言えこの狂人じみた誘いを涼しげに促す彼の挙措に、私は鳥肌を立てた。私は彼なりの強がりか冗談であろうと思った。が、誘いは止まなかった。
「どうした?僕にも君にも無意味しか残ってないんだろう?それなら躊躇う事はないはずだ。一緒に飛ぼう」
崖の縁から彼が指差す虚空には、真っ白な死が提示されていた。この時、私が躊躇う事なく飛ぶ事ができなかったのは何故だろうか。死への恐怖?道徳心?いずれも真実から遠い気がする。私は未だ犠牲への憧憬に後ろ髪を引かれていたのだ。つまり存在の無意味さを力説した後でさえ、私はそれを否認する欲求を持していた。多くの人にとって「生きる」という営為は案外こんなものではなかろうかと、私は思う。ふと見ると、崖下の庭球部の部員達がこちらを指差して、何やら一斉に喚き散らしていた。大方「下りてこい」とでも言っていたのであろう。だが遥か下方にいる部員達の声はこちらに届く前に霧の様に不明瞭となり、聞き取る事ができなかった。私は考えた。
(もし僕がここで崖下に飛び降りたら…)
下で待つ部員達の夥しい視線。飛び散る私の肉片を眼に映す彼らが驚愕の後に示す態度は、侮蔑だろうか、畏怖だろうか。いずれにしても、私はそんなものの為に死ぬ事はできなかった。
「呼んでいるみたいだ。行こう」
そう言うと健司は立ちすくむ私の真横を通り過ぎ、崖の裏手の土手を下りていった。私達はその後、先輩部員から長々しい説教を食らった。