第十章
ともかく、私は校門前で待ち伏せをした。腕組みをしながら、あたかも友人と待ち合わせをしているかの様な顔で。ただ友人と待ち合わせをしている人間の顔がどんなものであるのか私には分からなかったので、単に待ち倦ねて機嫌の悪くなった表情を作っているに過ぎなかった。私はわらわらと校門から出てくる生徒の顔を一人一人確認しつつ、時折腕時計などを気にしつつ、苛立たしい時間を過ごしていた。知り合いやクラスメイトが通る時には気さくに挨拶などしながら、何とかやり過ごした。彼らは私の表情に何らの企みを見出す事もない様であったが、そんな善良の陰に隠れた私の企みは却って悲鳴をあげていた。
「やあ、あいつは名前も知らない女の為に一日あそこに張り付いていやがるんだ。ストーカー紛いの変態野郎だ」
と彼らが言ってくれていたら、どれだけ私の企みは救われていただろう。その事によって私の企みはもはや企みでなく、目的を与えられ社会から承認された「行動」になる筈だった。行動になれない企みは心の底にひっそりと根付くしか無いのである。しかし言うまでもなくそんな彼らが私の心情を理解しているとは思えないし、第一誰にも理解されない孤独がまた私の誇りにもなっていた訳であるから、承認される事によって得た自信は少なからず私の行動力を奪っていた事は想像に難くない。従って私の表向きの善良さを含めて、万事は順調だった訳である。善良さは悪意の源泉であるようであった。
日も暮れかけ、私の身体が冷え、つま先に感覚が無くなってきていた頃、現れた二人組の女子生徒達に私の目は釘付けになった。彼女達の一人は間違いなくあの彼女だった!だが彼女はあの時程の威光は放っていなかった。友人と談笑するどこにでもいる女子高校生であった。勿論、私は彼女達に声などかける事はできず、彼女達は私に一瞥もくれず私の前を素通りしていった。彼女に偶像的な威光を与えていたのはやはりあの構図に他ならず、そこでの彼女はそれを失っていたのである。しかしそれでも彼女が私の神に近い女という種族である事に変わりはなかった。故に私は彼女達に近づく事ができなかった。遠ざかる彼女達の後ろ姿を眺めていると、どうしようもない寂寥感に襲われる自分に気が付いた。私は一生彼女に近づく事ができず、交流を持つ事などなおできず、こうして人知れず後ろ姿を見守っている他なす術がない。そして彼女の姿が遠い霞の向こうに消えていってしまった日には、再び生きる意味を失うのだ。私は考えた。自分を彼女のうちに留める手段とは一体何だろう。世間で言う「愛の告白」でもぶつけてみるか?失敗を前提に?しかし私のこの峻厳なまでの敬虔さは果たして愛なのだろうか?私は彼女から何も求めていない。愛される事、何かの言葉をもらう事、増して性行為を求めたりしている訳では断じてない。私はただ彼女の一部になりたいのだ。しかしそんな願望を曝け出したところで、彼女に何ができようか?彼女ができる事は何もない。従って私は彼女から何も求めていない。私は彼女を愛していない!私が愛しているのは自分だけだ。そして愛する自分が彼女の一部になる事を望んでいるのだ。だがどうやって?
そうこうするうちに、私は死を思い立った。彼女の為に死ぬ事は私にとって何よりも尊い死であった。思えば、全ての死は殉死である筈だった。世間一般の人間はそれがごく緩慢な形で遂げられているに過ぎないのであった。下手をすればそれが誰の為の死なのかも分からずに。私はそれを敏速に、明確な対象を持って遂げられる事を望んだ。そうして私は死に憧れた。私は彼女の目の前で死ぬ事を夢見たのであった。
間もなくして、私はインターネットで銀色のバタフライナイフを購入した。刃渡りの長さからして、所持しているだけでも銃刀法違反に該当するものだが、そんなものを未成年の私が易々と購入できる事実に驚いた。郵便局留で配達を希望すれば家族にも察知されることなく手に入るのだった。それは棺を思わせる小さな細長い箱に収められて、サービスで付属された鋏と一緒に私の元へ送られてきたのだった。ナイフは銀色の無機質で緻密な光沢をたたえ、文鎮の様な快い重みを持っていた。このなだらかな曲線を描く刃が私の閉じ込められている密室の扉の鍵であり、その鍵穴は私自身であった。鍵を開ければそこには彼女が待っており、私は彼女に永遠に留まる事ができる筈だった。
「今後ともヨロシクお願いします!」
と書かれた添書には何らの悪意も見て取れず、業者はこれを単なる工業製品として製造、販売している様であった。そういった彼らの誠実さを裏切って、私が不道徳な用途にこれを用いようとしている事について、私は一抹の自責の念を抱いた。この世の秩序を乱してまで自分の思いを成就させようとしている事は極めて自己中心的な行為に思われた。しかしこの他にどんな方法があっただろう?その他には私が死ぬ術も生きる術もなかったのである。
その夜私は自宅のベランダで予行練習を行った。夜風にかざした刃は月の光に濡れそぼって、大口を開けた闇からむき出された牙の様な凶悍さを私に振り向けた。父の趣味で広く作られたベランダは夜の海底に沈んでおり、私は下半身をそこに浸したまま立ちすくんでいた。すると暗闇の向こうに朧げな彼女の姿が浮かび上がってきた。死ぬ前に何か一言彼女に言いたいところであったが、何の科白も思い付かなかった。行動によって彼女はきっと全てを理解してくれるだろう、と思った。私は黙ってベランダに座り込んだ。冷えきったタイルが寝間着を着た私の尻に清冽な泉を感じさせた。私は目を閉じた。すると周りの風景は消え、彼女の幻影と冷気を焦がした様な冬の匂いだけが微かに残った。次第に青く光る泉が湧き、私を中心に波紋を広げ、その光明に彼女の姿が照らし出されて浮かび上がった。私は頭上で姉の姿を思い浮かべ、もう一度彼女と同化させる事を試みた。すると彼女達はお互いをすり抜けてなかなか同化せず、そればかりか姉妹の様に戯れだした。私は恍惚に襲われたが、同時にある自己欺瞞に気付いた。彼女は姉ではない。姉は彼女ではないのだ。こんな分かりきった事実に今更ながら私は慄然としたが、そこで全てを諦める程私は誠実ではなかった。行動とは得てして思い定めたら最後、鉄砲から放たれた弾丸の様に引き返す事ができないものである。就中自分の生に関わる重大な行動程そうである。
(彼女が姉でないから何であろう?彼女が神でないから何であろう?僕は分かっているのだ。この世には姉も神もいない事を。そしてその代役が必要だという事も。代役が彼女でなければならない理由などどこにもない。だが彼女に出会ったあの瞬間をこそ信ずるべきだ。そうしなければ僕はこの先何度でも彼女に出会うだろう。永遠に同じ事を繰り返して、惚けた一生を送る事になるのだ!)
私は目を見開いた。同時に全ての幻影は霧の如く消え去った。眼前にはベランダの柵の上まで伸びた木の枝先が化け物の鉤爪の様に戦慄いていた。私は視界を占める暗闇を刃で勢いよく真横に切り裂いた。風を切る鋭い音は警笛の様に辺りに響き、それ以外の全ての物音を鎮静させた。私は五感を全て右手の刃に集中させ、慎重にそれを自分の首筋に近づけた。音も立てずに忍び寄る刃はやがて私の頸動脈付近を撫でる様に触れ、冷たいその身を横たえた。まるで残酷な一つの生命の様に刃先は私の首筋にかじり付き、死の接吻を与えようとしているかに感ぜられた。この刃の最も切れ味のよい部分は恐らく肉眼では殆ど確認できない程の薄さである。その紙切れ一枚分の微細な接地面積に力を加える事により膨大な圧力がかかり、対象物を切り裂いてしまうのである。してみると、その刃の原理はまるで私の生き方と相通ずる様に思えてきた。たった一点の、それもほんの一瞬の為に自らを犠牲にする事で、この朦朧とした現実を切り裂く生死は正に刃の原理であった。そうして暫く私は刃を首筋にあてがっていた。冬の夜風が身に沁みるに連れて、徐々に刃は体温を帯びて温かくなってきた。後は横一文字に刃を引くだけで全ては完了する筈であった。私はもはや刃に親炙していた。このような落ち着いた心境でこの愛しい瞬間を慈しむ事はもう二度とできないであろう。「美」とはつまり「悲」では無かったか?刃の鋭利な悲愴さに、私は自己を投影し、私の精神は美しく共鳴した。私はその時本当の意味で自分を愛する事ができた様に思う。私の生は無意味ではなかったと。
その時、部屋の証明が灯り、カーテンが開き、窓が開いた。辺りは部屋から漏れる明かりで一気に明るくなった。
「兄ちゃん、何してんの?」
見ると弟であった。私は咄嗟にナイフを折り畳み、懐に隠した。私は弟にだけ見せる甘い笑顔を作って言った。
「いや、風呂上がりでのぼせてたからな。少し涼もうと思って」
「ていうか外寒すぎるだろ。風邪引くぞ」
「ああ、もう中に入るよ」
私はそう言って窓から部屋の中に入った。弟は既に来年度からの高校進学が決まっていた。なかなか偏差値の高い高校で、県内でも三本の指には入る。無論私の通う高校とは雲泥の差である。それに弟には既に恋人がおり、付き合いも順調らしい。つい先日この家にも遊びに来た事があるが、可愛らしい娘であった。つまり私はどこを取っても弟には敵わない、駄目な兄貴である。これまで私を圧迫してきた弟に対する劣等感は底知れぬものがあった。だがその時となっては状況が変わっていた。結局は周囲に惑わされず本質を追究し続けた者が日の目を見るのだ。私はより崇高なものの為に、しかもそれと明確に分かる形で、一瞬で犠牲になる事ができるのだ。弟が長い長い年月をかけて愛を育み、就職し、結婚し、子供ができて、働いて、税金を納めて…。そうした営為の先にも実現可能かどうか定かでないものを、私は一瞬で成し遂げるのだ!そうして私は劣等感という病理をも免れていたのである。私は同じ様にして弟に対してのみならず、世間一般のありとあらゆる存在に対して極めて世俗的な優越感をすら抱いていた。恐らくこういった優越感も、私の僅かな道徳心が凶行を阻止し得なかった原因の一つであろう。
私は部屋の明かりを消し、枕元にナイフを置くと、その傍らに横になり、そっと目を閉じた。豆電球の微かな赤光の中で、私は自分の暗澹たる来し方を思い起こしていた。私の前を通り過ぎていった友人達を。
小学生の時のことである。悠一郎は沢山の女児達に囲まれて談笑していた。私はその中に入れなかった。しかし今思えばその必要はなかったのだ。稚拙な遊戯の中で、どうして真の犠牲が得られよう?どうして己の存在を昇華させられよう?してみるとあの時期というのはほんの予行演習に過ぎなかったのだ。例えそれに失敗したとしても、本番で成功しさえすればその生は成功だと言えよう。つまり私は彼らの予想を裏切って真の成功者となる!何と気味の良い話だ!
また、明とその友人達を思い出した。彼らの読む猥褻本を、私は直視する事ができなかった。男が女に惹かれるのは何故か?それは犠牲への恐怖を取り除くために他ならない。然るに彼らは犠牲になる事を恐れながら、それでいて女体という果実にだけ惹かれていた。彼らはその恐怖を取り除かない限り、生身の女を相手する事などできないだろう。増して犠牲など期待するべくも無い。つまり私の態度は正しかった!私は女体を知らなくとも犠牲への恐怖を取り除く事ができたのだから。
次は健司である。彼など論外だ!彼は犠牲になる気すらない。貨幣経済を以て女を支配しようと試みている。しかしその先に一体何があるのか?脂ぎった金持ち、空虚な老人、孤独な唐変木、ああ考えたくもない!彼はあの聡明さをして何を考えているのだろう?結局貨幣経済に支配されているのは彼自身ではないか!彼は何故世俗を度外視した本質を考えようとしないのだろう?あの大馬鹿者が!
私はこうして過去の友人達を階梯にして、完全な自信を手に眠りについた。尤もこんな高揚感の為に、私が完全に入眠するまでにはかなりの時間がかかった。