「不思議な入浴剤」
ピンポーン・・・
のり子の部屋のチャイムがなった。
のり子は、夕食の準備をしていた手を休めて、玄関へと進んだ。
「どちらさまですか?」
「ワンダー石鹸のものです、少しだけお時間ください」
のり子は、今にも玄関のドアを開けようとしていた手を止めた。
「セールスですか?セールスなら、うちは結構です」
「いえいえ、うちの会社はつい最近できたばかりで、その私どもの製品のサンプルを使っていただこうと思いまして・・・なにも、販売はしませんから・・・お願いします」
ドアの外からする声は、まだ若い男性のものだった。ドアが開く前から、会社の名前を言うとか、新人丸出しのようだし、サンプルをくれるって言うのにも、のり子は気持ちが惹かれた。このくらいの相手なら、いざというときには十分追い返すこともできそうだ。そうじゃなきゃ都会で、女性の一人暮らしなどままならないのだ。
「はい、分かりました。サンプルだけですよ」
のり子は、ドアを開けた。
そこには、真新しい背広をきちんと着こなした、まじめそうな青年が立っていた。
「初めまして、ワンダー石鹸の水谷と言います。まだどこの会社も作ったことのない商品を開発しまして、会社を設立したのです。今回は、そのご挨拶にサンプルをお持ちしました」
「いったいなんのサンプルなのですか?石鹸?」
「あっ、失礼しました?新しい入浴剤です」
そういうと、その青年は、抱えていた黒いかばんからいくつかの入浴剤らしい袋をとりだした。
「入浴剤なら、もらい物が使わずじまいでそのまま残ってるわ」
「いいえ、ワンダー石鹸社のものは、いままでのものとは画期的に違うのです」
「ふ~ん、そうなの?」
もっとなにかいいものをサンプルでもらえるのだろうかと期待していたのり子は、入浴剤と分かって、まったく関心を失ってしまった。
「よかったら今晩にもこのサンプルをお使いください。画期的なところが分かっていただけると思います。新製品なものですから、後ほどご感想などもおうかがいできたらうれしいのですけど」
そういうと青年セールスマンは、のり子にサンプルの袋を渡した。
「はいはい、わかりました」
「よろしくお願いします」
そういうと、青年セールスマンはその場を去っていった。
のり子の手元には、青年セールスマンに渡された、入浴剤のサンプルが握られている。
・・・森の入浴剤・・・
サンプルには、そう書かれていた。
「どこにでもありそうな名前ね・・・なにが画期的なのかしら?まあ、さっきの彼はわりといい感じの青年だし、今晩使ってあげようかしら・・・ただだしね」
「・・・いいな~・・・・ごめん、そろそろお風呂に入るね。今度また電話するね。じゃ、」
のり子の悪い癖で、いつもの長電話でもう夜も遅い時間になってしまっている。
「はやいとこ、お風呂に入って休まないと・・・」
のり子は、着替えをかかえてバスルームの方に進みかけて、ふっと思い出した。
「そういえば、夕方、入浴剤のサンプルをもらったのだっけ・・・試してみようかしら」
のり子は、バスルームに入って入浴剤をお湯に溶かした。お湯がグリーンに染まって、かすかに香りがついている。別段普通の入浴剤と大差なさそうだ。
「画期的とか言っていたけど、まあ、こんなものよね。ただだからまあいいけど」
のり子は、体を洗い終わると、バスタブの中に身を沈めた。
とたんに、周囲の様子が一変した。
「えっ?なにこれ?いったいここどこなのよ?」
周囲からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。のり子の周囲すべてが森で覆われていた。頭上からは、太陽の光が木漏れ日となって、気持ちよく注いでいる。
のり子は、いつのまにか森の奥深いところにある泉のなかに体を沈めているのであった。
「どういうことなの?私は、いつのまにこんなところに来たのかしら?・・・確か、お風呂に入って・・・もしかして、お風呂の中で眠ってしまったのかしら?・・・そうよ、きっと夢なんだわ。だって、こんなに気持ちがいいもの。・・・きっと、長電話のせいね。はやくお風呂上がって、ちゃんと寝ましょう」
自分で理解できない場面にあうと、すぐに夢のせいにしてしまうのはのり子の子供のころからの癖である。難しいことは夢で解決してしまう。
のり子が、森の中の泉から上がると、いつのまにかもとのバスルームに戻っていた。
「あれ?どうなってるのかしら?やっぱり、夢だったのよね・・・そうそう夢にしましょう」
のり子は、お風呂での出来事を強引に夢のせいにして、ベットにもぐりこんでしまった。
次の日の夕方、のり子は、会社から帰ると、いつものように台所で夕食の準備をしていた。
ピンポーン・・・
「あれ、どなたかしら?」
のり子は、夕食の準備をしていた手を休めて、玄関の方に向かった。
「どちらさまですか?」
「ワンダー石鹸の水谷と言います」
どうやら昨日の、青年セールスマンらしい。
「はい、いま開けます」
ドアを開けると、昨日の青年が、昨日とまったく同じく真新しい背広をきちっと着て立っていた。
「昨日お渡しした、サンプルはお使いいただけましたか?」
「えっ?・・・あっ、はい、使いましたけど・・・」
「よかったら、ご感想などおうかがいできないでしょうか?」
「感想ですか?・・・そうですね・・・特に・・・」
「え?特にですか?」
青年セールスマンは怪訝そうな顔でのり子を見ている。
「そういえば、不思議な夢を見たような・・・森の中にいる夢を、お風呂の中で見ました」
「え?夢ですか?・・・・夢ではないのですけど・・・・あまりお楽しみになれなかったのですね・・・」
青年セールスマンは少しがっかりしたような顔を見せた。
のり子は、なんか悪いことを言ったような気持ちになって、あわてて彼に言った。
「とっても気分のいい夢を見ることができる入浴剤ですね」
もちろん愛想笑いもプラスして彼に言った。
青年セールスマンは、小さくため息をつくと、気を取り直したようにカバンの中から、また小さな袋を取り出した。
「よかったら、今度はこの入浴剤をお試し願えませんか?もちろん、サンプルですのでただです」
のり子は、なにか気にするようなこと言ったのかしらと考えながら、彼が差出した小さな袋を受け取った。
・・・海の入浴剤・・・
袋にはそう書かれてあった。
「よかったら、今晩でもお試しください。それと・・・夢ではありませんから?」
そんなことを言うと、彼はひとつお辞儀をしてから、その場を立ち去っていった。
「夢ではないって?・・・どういうことかしら?」
のり子は、着替えを手に抱えて、バスルームの方に進んだ。
「そういえば、今日もサンプルをいただいたんだわ」
のり子は、ふっと気がつくと、サンプルの入浴剤をお湯に溶かした。
お風呂のお湯がブルーに染まった。
「夢じゃないって言っていたような?・・今日は、お風呂の中で寝ないようにしなきゃね」
のり子は、体を洗うとバスタブに体を沈めた。
「えっ?ここは、どこ?また変な夢を見ているの?・・・いいえ、夢じゃないのだわ。きっと、これが画期的って言ってた意味なのだわ」
のり子は、いつのまにか大海原の中に漂っているのでした。
「どういうことなのかしら?夢だとすると簡単なのだけど・・・」
自分で理解できない場面にあうと、すぐに夢のせいにしてしまうのはのり子の子供のころからの癖である。難しいことは夢で解決してしまう。
でも、今度は、夢のせいにしないでこの不思議な入浴剤の画期的な効用に身を任せることにした。
すると、のり子の体は、海のなかに潜り始めた。でも、不思議と息が苦しくはない。
のり子は、魚のように海の中を自由に泳ぎはじめた。
カジキのように早く、はやく。マグロのように遠くにとおくに。
鯨のように深くふかく・・・
のり子が、いままでで体験したことがないほど自由で、心が解き放たれるような心地よい気持ちだった。
「すご~っい。すご~っい」
のり子は、お風呂から上がると、しばらくは余韻に浸っていた。
「また明日あのセールスマンくるかしら?そしたらこの入浴剤買っちゃおう。もしかして、ものすごくたかいのかな?・・・」
あれやこれや考えているうちに、いつのまにかベットの中で寝息をたてていた。
次の日の夕方、のり子は、会社から帰ると、いつものように台所で夕食の準備をしていた。
ピンポーン・・・
「あれ、どなたかしら?」
「ワンダー石鹸の水谷と言います」
「来たきた。はいはい、今開けます」
ドアを開けると、いつものようにきちんと背広を着た青年セールスマンが立っていた。
「こんばんは、どうでしたか?昨日のサンプルは、お使いになられましたか?」
のり子は、その質問を待っていましたと言わんばかりに、勢い込んで青年セールスマンに向かって答えた。
「もう~最高ですよ、とってもよかったわ。商品を買いたいのですけど、やっぱり結構なお値段なんでしょう?」
青年サラリーマンはにっこり笑った。
「そうですか、そんなによかったですか。ありがとうございます。そうだ、特別にもうひとつサンプルの入浴剤を差し上げます」
「えっ?いいの?ありがとう」
「今回はちょっと変わった入浴剤ですが、よかったら今晩にでもお試しください。今日は、3種類お渡ししますので、どれでもお好みのものをお試しください」
そう言うと、青年セールスマンは、カバンから3つの小さな袋を取り出した。
「こんなにいいのかしら?ありがとう、今晩もお風呂が楽しみだわ」
袋には、それぞれ、
・ ・・和風・・・
・ ・・中華・・・
・ ・・洋風・・・
と書かれてあった。
「いったい、どういう効用があるのかしら?」
青年セールスマンは、のり子にサンプルを渡すと、ひとつお辞儀をしてその場を去っていった。
のり子は、着替えを手に抱えて、バスルームの方に進んだ。
「そういえば、今日もサンプルをいただいたんだわ」
のり子は、3つのサンプルのうちから、中華のサンプルを選んでお湯に溶かした。
のり子が、中華を選んだのは、食事の時につけていたTV番組で、中華料理の特集をやっていたという、単純な理由からだ。のり子は、あんまり難しく考えるのは得意ではない。
サンプルを溶かすと、お風呂のお湯は乳白色に染まった。
のり子は、さっさと体を洗うと、いったいどんな光景がのり子を待ってるのだろうと、わくわくしながらバスタブに体を沈めた。
「えっ?ここはどこ?」
のり子が、周囲を見渡すと、のり子の周囲360度全部が壁で覆われて、どんぶりに描かれている、あの渦巻き模様に囲まれていた。
「いいえ、違うわ。本当にここは中華麺の中なのよ」
のり子は、巨大な中華どんぶりのなかで、中華麺やなると、チャーシューやねぎと一緒にスープのお風呂に浮かんでいた。
「中華麺は食べるもので、漬かるものではないわね。あのセールスマンには悪いけど今回のサンプルは最低だわ、体がべたべたするし・・・最悪だわ・・・」
のり子は、中華どんぶりの中で、ぶつぶつ文句を並べた。
「でも、これって夢じゃないのよね・・・・」
ふと、のり子がそんなことを口にしたとたんに、頭の上の方から巨大な2本の柱がのり子に近づいてきた。
おしまい




