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「神様を招く三か条!」
テレビの音で、目が覚めた。布団から体を起こすと、赤いパーカーの後ろ姿が、テレビの前で座っているのが見えた。
「その一。神様の居心地のよい部屋を保つ。その二。神様が喜ぶ食生活。その三。これがなにより大事! 神様を信じる心。では、ひとつずつ解説してまいります」
テレビに映っていたのは、微妙な知名度のアイドルだった。昼前の情報番組のミニコーナーで、スタジオに招かれて喋っている。
俺は寝起きの頭でぼうっと画面を追った。テレビを見つめるこの赤パーカーに神様誘拐に誘われ、そして彼がしれっとひと晩ここに泊まっていることを思い出すまでに、数秒かかった。
「あー……ハク様がいる。神様誘拐、あんなに荒唐無稽な話なのに、夢じゃなかったんだ」
起きたら全部なかったことになりそうな、ヘンテコな出来事だったのに。しかし現実の中に、ハク様は確かにいた。俺が起きたと知ると、ハク様は徐ろに顔だけ振り向いた。
「ねえ、このアイドルの常盤美奈ちゃんって子、ここ最近スピッてない? この番組でも『神様を招く』とか言っちゃってる」
「そうなんだよなあ。常盤美奈ちゃんすげーかわいいのに、不思議ちゃんキャラって感じでもなくこうなっちゃってから、ちょっと怖いんだよな」
芸能界は庶民には想像できないほどの壮絶な世界らしい。純粋無垢な若い女の子がアイドルの世界に飛び込み、心を病み、スピリチュアルにのめりこんでしまう……という例もあるようだ。常盤美奈ちゃん、愛称ミーニャンも、最近様子がおかしいひとりだ。
ハク様が残念そうに言う。
「この子、ちょっと前までグループ売りだったけど、脱退してからこうなんだよね」
「……って、ハク様は自称神様だろ。神様を招こうとしてるミーニャンより、自称神様のほうがだいぶやばいぞ」
「俺は今関係ないじゃん。それより加藤くん、お寝坊さんだよ。約束の時間がお昼だからいいけど、ちゃんと間に合うように支度してね」
ハク様は人懐っこい笑顔で、物々しい言葉を口にした。
「今日は身代金三億円が手に入る、特別な日なんだから」
これから、三億円が手に入るらしい。らしい、というのは、俺自身がまだ、実感を持てていないからだ。夏の午前の光が、窓から差し込む。蝉の声がする、ありふれた日常の風景。
三億円が手に入ったら、俺はどうするだろうか。このアパートからは引っ越して、自分の家を持ってみたい……とも思ったが、今住んでいるここはすっかり自分の場所として定着してしまっているから、手放すのが寂しくなりそうだ。
あと、食生活を改善したい。カップ麺生活とお別れする。それから、今まであんまりこだわってこなかった服も、好きなもの、質のいいものにこだわってみようか。白き自由の教団の信者に感化されたわけではないが、もうちょっと、自分の『好き』に向き合ってみてもいいかもしれない。
そこまで考えてから、家、飯、服では、完全に衣食住だな、なんて気づく。三億の大金が手に入ったら、生活が基礎から変わる。心にも余裕が生まれて、生活が一変するに違いない。というのも、ちゃんとイメージできていない、漠然とした想像どまりだが。
「そろそろ公園に行こう。下見ついでにさ」
ハク様が急かしてくる。早く遊園地に行きたい子供みたいに、せわしなく浮かれている。俺は鞄を肩に引っ掛けながら、夢心地の想像と現実のはざまを行ったり来たりしていた。
「三億円で豪遊……いや、その前にそんなに上手くいくかな。教団に捕まったらどうしよう。懺悔室、怖い」
「大丈夫、大丈夫。そうならないように俺が合図するんだから。加藤くんはね、俺の指示に従ってくれればいいんだ」
自信たっぷりに宣言されると、俺も引っ張られるように大丈夫な気がしてくる。
ハク様に促され、俺たちは十時台から公園にやってきた。計画どおり、程よい人出だ。俺くらいの年齢のビジネスマンや、近隣住民、走り回る子供とその保護者が、公園を活気付けている。さらに木々から降り注ぐ蝉の声がBGMになって、公園をより賑やかに演出していた。
俺は引き渡し場所の目印に決めたモニュメントが見える、でも近すぎない位置のベンチに腰掛け、コンビニで貰った求人誌を開いていた。これを見ているふりをしていれば、自然に振る舞いつつも、本で隠せばなんとなく視線の動きを誤魔化せる。この老若男女が混じる風景の中で、我ながら俺は全く浮かない。自分の目立たない風貌が、いつになく役に立っている。
脇の団地に、赤い影が見える。ハク様が高い場所から見守っている。フードは被っていない。まだ身代金の運び手、教団の信者は現れていないようだ。
俺の座るベンチに、サンドイッチをもったスーツの男性が座った。この辺のビジネスマンが、早めの昼休憩をとるようだ。彼はサンドイッチを開け、目が合った俺に会釈した。
「お隣、失礼します」
「どうぞ」
「おや、求人誌ですか。お仕事を探しているところですか?」
「あー、えーっと、はい。フリーターっす」
「そうでしたか。いやはや、定職につかない生き方というのもよいものです。辞めやすい、自分の時間で働きやすい……自由時間を作れる生き方は、賢い選択ですよ」
ビジネスマンが俺に話しかけてくる。しかも挨拶程度ではなく、結構がっつり喋るタイプの人だ。ちょっと困った。俺はそろそろ身代金の受け渡し、教団の動きに集中しないといけないのに。愛想笑いで立ち去って待機場所を変えたいところだが、またこのおじさんは人の良さそうな感じで、ここで立ち去るには罪悪感がある。
やがて約束の時間、十一時になると、公園の入り口に一台の晩が停まった。白い車体に、金色のステッカーが貼られている。ハク様と観た祭礼の動画に映っていた、垂れ幕に刻まれていたアイコン……教団のシンボルマークだ。
車から男がふたり降りてきた。片方は黄色いジャージに身を包み、耳に携帯を当てている。ハク様から来ている指示をリアルタイムで聞いているようで、不安げな顔で周りを見回している。
もう一方はTシャツの男。運転席から降りてきた。黄色ジャージ同様そわそわした様子で、バンの後部座席のドアを開けている。そこから下ろされたものを見るなり、俺は息を止めた。
黒いトランクだ。本当に金を持ってきたようだ。実物を前にすると、急激に緊張してきた。あの中に、三億円が入っている。子供の笑い声、蝉の声、公園を行き交う人々の平和な挨拶。隣のおじさん。いろんな音が鼓膜を刺激しているのに、頭にはなにも届いてこない。
教団はあんな石ころのために、得体の知れない相手に三億を差し出す。改めて、衝撃的である。
ふたりの信者がトランクを引いて、公園に入ってきたその刹那。突然、俺の隣にいたサンドイッチおじさんが立ち上がった。反射的に振り向くと、彼はもう俺のほうは見ておらず、お喋りしていた朗らかな笑顔を浮かべたまま、停まっていたバンに向かって突進していった。
「へ?」
唐突なことに、俺は間抜けな声を出した。よく見たらサンドイッチおじさんは、片手に金属バットを握っている。彼だけではない。別のベンチで休んでいたおじいさんや、子供を見ながらママ友と談笑していた女性、木の選定をしていた公園管理の職員っぽい人まで、そこらじゅうからぱらぱらと駆け出していく。各々、ベンチの下やモニュメントの影、植え込みの中から、鉄パイプや鍬やらを取り出し、バンに向かっていく。
いきなり詰め掛けられた黄色ジャージとTシャツは、びくっと飛び退いた。
「えっ、うわああ!」
きゃあっと叫んで、ママ友さんたちが子供を庇う。子供たちも目を丸くしてバンに注目し、休憩中のビジネスマンたちは咄嗟に立ち上がった。
俺は声を出せなかった。なにが起こった?
トランクを運んできた信者ふたりが、武装した人々に追われて公園の外へ逃げている。襲い掛かった側の集団は、エンジンがかかったままだったバンに我が物顔で次々に乗り込み、あっという間に発進していなくなった。
トランクも、持っていかれた。
「加藤くん!」
俺を呼ぶ声がした。振り向くと、フードを被ったハク様が、血相を変えてこちらに走ってきている。
「あっ、ハク様。ハク様……! なあ、今なにが起こったんだ!?」
冷静さを失い狼狽する俺の手首を、ハク様が引っ掴む。
「逃げるよ!」
俺の手を引いて、彼は走り出した。引っ張られる俺も、よろけながら駆け出す。
「さ、三億……!」
公園のざわめきと蝉の声が、背中じゅうに広がる。頭の中は、いまだ真っ白だった。




