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それから数時間、惰性のままに時間を受け流し、飲み会は静かに幕を閉じた。中原と横内が帰ったのは、長く上っていた日がようやく落ちた頃だった。
俺は空いた缶を片付けて、ふと、床に求人情報誌が落ちているのを見つけた。中原か横内が置き忘れていったようだ。その表紙を見ているだけで、酒に逃げた頭が現実に引き戻される。
酔いを覚ますついでに、履歴書でも買いに行こう。俺は財布と携帯だけ入れた鞄を持って、夏の夜の町へ出かけた。
履歴書はコンビニで手に入った。会計に持っていったところで、レジ横のホットコーナーに目がいった。中にほかほかと、肉まんがふたつ、温められている。
「このお店、真夏でも肉まん置いてるんだ」
ひとり言を零すと、レジ打ちをしていた店員が、はい、と返事をした。
「店長の方針なんです。選択肢は多いほうがいいから、季節商品も季節に拘らずに置こうって」
「そうなんですか。夏に肉まん、売れます?」
「あんまり」
店員が苦笑いする。俺は寄り添うふたつの肉まんに、妙に同情した。なにもできず廃棄を待つ姿に、自分を重ねてしまったのかとしれない。
「あの、お会計、肉まんもいいですか。ふたつください」
別にいらないのに、なるべく必要ないものは買いたくないのに、買ってしまった。
ほかほかの肉まんと履歴書を抱えて、店を出る。夏の夜の蒸し暑さに包まれ、腕に抱えた肉まんも発熱し、汗がじわりと滲む。
そこへコツンと、つま先になにかが当たった。
「ん、なんだこれ」
白いビー玉みたいな石が、足元に転がっている。拾ってみると、オーロラみたいに偏光して、つやつやと光り輝いていた。大粒の真珠のように見えるが、ガラス玉っぽい透明感もある。
「宝石……? なわけないか、こんなところに落ちてるわけないし」
一瞬「売ったら金になるかも」なんてよぎったが、世の中そんなに都合よくできていないことは俺も身をもって知っている。
と、そのときだ。
「あー! お兄さんお兄さん、それ拾ってくれたんだ!」
大声を出しながら、正面から青年が駆けつけてきた。だぼっと着こなした赤いパーカーに、猫っ毛の茶髪の、童顔の男だった。
彼は全力疾走で突進してきて、白い石を持つ俺の手の上に、ぎゅっと握手するように手を被せてきた。
「ありがとー! 大事なものなのに落としちゃって、本当マジでやっべー! って思ってたところだったんだ。転がって側溝に落ちる前に拾ってもらえて、助かっちゃった!」
「あ、は、はい」
すごい勢いで詰め寄られ、俺はたじたじになって仰け反った。そうか、この石ころはこの人の大切なものだったのか。一瞬でも売ってみようかなんて浅ましい考えを浮かべた自分が嫌になる。
石を手渡して、俺はそろりと後退りした。
「大事なもの、見つかってよかったですね。それじゃ」
「待って! 折角拾ってくれたんだ、お礼をさせてよ」
「いや、なんか光ってて気になったから拾っただけで、そんな大したことしてないんで」
「それに救われたんだよ。ねえねえねえ、なにかお礼させて」
赤パーカー男がぐいぐい来る。変なやつに絡まれてしまった。俺は一層身を縮めた。
「お礼って……そんな、いらないですって」
「いらなくないでしょ! お金、困ってるんじゃない?」
彼がさらっと放ったその言葉に、俺は耳を疑った。
「へ? え? 金……?」
「ふふ。やっと食いついた」
そう言った彼は、ニヤッと、訳知り顔で俺を見ていた。
なんだ? この人は間違いなく見知らぬ人だ。初対面のはずなのに、どうして俺が金に困っていることを知っている? 空きっ腹に入れた酒がまだ残っている。考えるほど頭がぐらぐらしてきて、余計に思考が回らなくなる。
赤パーカーの男は大きな目を細めた。
「新しいお仕事を見つけないといけないのに、動き出せずに昼間からお酒を飲んでいる。失業のショックが相当堪えてるのかな」
「な、なんで……」
背すじがぞわっとした。なんで知っているんだ。俺が忘れているだけで、顔見知りだっただろうか。
「……失礼ですが、どこかでお会いしました?」
「ううん。初めましてだよ」
「ですよね。どちら様でしょうか」
俺が改めて尋ねると、彼は目をぱちくりさせた。
「え? 見て分かんない? 神様だよ、神様」
なにを言っているんだ、この人は。
ぽかんとしてしまった俺と、きょとんとしている彼の間に、数秒の沈黙が流れた。やがて彼が、がしっと俺の腕にしがみつく。
「えー! 見るからに神様でしょ! 俺、そんなにオーラない? たしかに神様の中ではマニアックな部類に入るし、B級のジャンク品の自覚もあるけど! やめて、傷つく反応しないで!」
あ、見るからに変質者だ。俺はこれ以上この人と関わらないほうがいいと判断した。
「そうでしたか。失礼しました。では俺は急ぐので、これで」
さっと背を向けてアパートに逃げ帰ろうとすると、その背中に、また彼の声が届いた。
「いいの? お金、助けてほしいんじゃないの?」
無意識に、足が止まった。関わらないほうがいい。分かっているのに、振り向いてしまった。彼はどこか不敵な、それでいて無邪気な笑みで、こちらを見つめていた。
「さっきの白い石ね。君には分からないだろうけど、とてつもない価値があるものでね。これを無傷で回収できたのは、君のおかげ。その恩を返すとなれば、お金くらい出すよ。冗談抜きにね」
「意味が分からない。なんで俺が金に困ってること、知ってるんだよ」
「あはは、神様だもん。神通力、神通力」
まさか、神通力なんてありえない。動揺しつつ目を泳がせた俺は、自分の手元に抱えた、コンビニの袋に気がついた。袋の口が捲れて、買ったばかりの履歴書が覗いている。
なるほど、この男はこの履歴書を見て、俺が求職中だと見抜いた。そして俺から漂う酒臭さで、昼間から飲んでいた状況まで分かった。そこから、俺の置かれている危機的状況を推理した、と。
一瞬、本物の神通力みたいな、超能力かと思った。
「はは、なにが神様だよ」
急に馬鹿らしくなって、俺は乾いた笑いを零した。
「神様なんているわけないだろ。いるんなら、なんでこんな不平等な社会なんだよ」
勤め先が倒産して、金がなくて、おまけにちょっとコンビニに出かけたら変な奴に絡まれて。神様がいるんなら、どうして俺にこんな罰を与えるんだ。
「悪いことをして金を稼いでも捕まってない奴もいるのに、頑張ってもどうにもならない奴もいる。神様に縋ったって、現実はなにも変わらない」
これは単なる愚痴だ。こんな惨めな愚痴を他人に向かって零してしまう自分が、また惨めになる。
赤パーカー男はきょとんとした顔で俺の話を聞いていたが、やがて、ふっと目を伏せ、真顔になった。
「ふうん。最近のこの国の一般人は、そういうこと言うんだ。無宗教の国だからかな? なんにせよ、呆れた」
すっと、背中が寒くなった。へらへらした笑顔が消えると、童顔なのに、なぜか妙に迫力がある。声を呑む俺を睨み、彼は腰に手を当て、声のトーンを上げた。
「気が向いたときだけお参りに来るだけで、普段は全然信じてないくせに、自分の都合が悪いときばっかり神様が守ってくれないって! 他人のせいにする! 挙句の果てに虫のいい願い事まで押し付けてきて、図々しいことこのうえないよ。信仰の価値をまるで分かってない!」
「た、たしかに!」
言われてみればそのとおりだ。上手く行けば自分の調子が良いのだと捉え、悪いときは神様のせいにするのでは、単なる他責思考ではないか。
パーカー男は不機嫌顔で捲くし立て、さらに俺に詰め寄った。
「いいか、俺たち神様は概念なんだ。信仰がある限り存在するけど、ないと存在し得ない。こっちにメリットがなきゃお前らみたいな人間なんか助けてやらねえよ!」
めちゃくちゃに言い返してから、彼は腕を組んだ。
「まあ、大事な白い石を拾ってくれた恩があるから、失言は見逃してあげるけど」
自称「神様」は、にこっと笑った。
「とりあえずさ、こんなところで立ち話もなんだし、どこかに座ろう。話はそれからだよ」
彼は強引に俺の鞄のベルトを掴み、リードみたいに引っ張って歩き出した。
つれてこられたのは、コンビニの裏の公園である。公園といっても遊具があって子供で賑わう公園でなく、変なモニュメントが置かれた憩いの広場的な公園である。日暮れのあとのこの時間は閑散としており、見渡しても、俺とパーカー男と、あとは鳩しかいなかった。
どう見ても怖い人だから関わりたくなかったのに、パーカー男の押しの強さに流されて、俺はベンチに座らされた。彼も隣に座っている。
俺は横目で、男の動向を窺っていた。どうしよう。変質者ってこんな感じで現れるのか。初めてのことだからどう対処すればいいのか、戸惑ってしまう。まずは警察か。
鞄からそっと、携帯を取り出す。一一○を押そうとしたのを察知したか、赤パーカー男がさっと、俺の手から素早く携帯を抜き取った。
「ストップ。人を呼ばないでね。折角こんな静かな場所に来たんだから」
連絡手段を奪われた。青くなる俺に、彼はにこーっと朗らかに笑って見せた。
「俺は君と話をしたいの。部外者はいらない」
まずい。かなり危険な相手だったかもしれない。今すぐ逃げたほうがいいか。でも今の携帯を奪う素早さを鑑みるに、逃げたところですぐに捕まる気がする。動きの読めない相手だし、下手に刺激しないほうがいい。どうにか隙をつく方法を考えないと。とりあえず、携帯を取り返せないだろうか。
俺はまとまらない思考でぐるぐると考え、肉まんを袋から出した。
「食べます?」
心を許したように見せて、隙を作る作戦である。ほわほわと湯気を上げる肉まんに、彼は怪訝な顔をした。
「なにこれ。神様はこんなの食べないよ」
「そうですか……。二個あるし、別に食べたくて買ったわけでもないから、食べてもらおうと思ったのに」
「そうなの? じゃあ一個もらおうかな」
なんとも言えない空気の中、彼は俺の差し出す肉まんを受け取った。
公園は静寂に包まれている。昼間であれば、ここはビジネスマンの休憩の場になり、近隣住民の散歩道にもなる。夜になるとこんなに静かなのか、などと考えていると、隣に座るパーカー男が急に叫んだ。
「な、なにこれ! ふわふわでぽかぽかで、ぎゅっとしててむぐっとしてる!」
「え……肉まん食べたことない人のリアクション?」
「へえ、これ肉まんっていうんだ。こんなおいしいものが庶民の食文化に根づいているんだね。この世のすべての肉まんと肉まん職人を祝福しちゃうよ」
「もしかしてマジで肉まん知らない人?」
赤パーカー男は、外見年齢おおよそ二十代前半くらい、俺より年下かな、といった風貌をしている。どうやったら大人になるまで肉まんを知らずに生きてこられるのだろう。
そうだ、そういえばこの人は、先ほどから俺に金をちらつかせたり、「庶民の食文化」などと言ったり、金持ちっぽい言動を見せている。もしかして、本当にあの石ころを拾ったお礼に、俺に金を差し出すつもりなのか?
とはいえ、こんな得体の知れない人物からの金なんて怖いし、そもそもそこまでお礼をされるようなことはしていないし、肉まんでお茶を濁してさっさと逃げるのが得策だろう。
俺がもそもそと肉まんを頬張っている間に、パーカー男は先に肉まんを平らげた。そして先ほど奪った携帯をこちらに翳す。
「指、借りるね」
「む?」
肉まんで右手がふさがっているうちに、彼は俺の左手を引っ張って指紋認証を解除した。それから慣れた手つきで画面を勝手に操作し、耳に当てる。
衝撃の非常識行動に驚いて、反応が遅れた。俺が慌てて携帯を取り返そうとするも、そんな隙すら与えず、電話先の応答があったらしい。
パーカー男は、意気揚々と、電話に向かって宣言した。
「貴様らの信仰する神、白珠様を誘拐した!」
俺は隣で、肉まんを咥えたまま、凍りついた。
「返してほしくば身代金三億円を現金で用意しろ。引渡し日と場所は、またこちらから連絡する。警察には言うな。言った時点で、神様の命はない!」
ぷつん。彼は喋るだけ喋って、一方的に電話を切った。そしてなにごともなかったかのように、携帯を俺に返す。
「はい、ありがと」
俺はまだ肉まんを口に咥え、絶句していた。今なにが起こったのか、脳味噌が処理できるまでに、時間がかかった。しばらく無言で状況を整理しながら肉まんを食べ進め、最後のひと欠けを飲み込んでから、携帯をぶんどった。
「いや、なにしてくれてんだ!」
「どうしたどうした、三億じゃ足りなかった?」
パーカー男は悪びれるどころか、俺の反応を面白そうに見ている。こちらは血の気が引いて、混乱して、しっちゃかめっちゃかである。
「なんの話だよ、神様とか誘拐とか、身代金とか!」
「ははは、ごめんごめん。俺、自分の携帯持ってなくてさ。ちゃんと話すから、落ち着いて聞いてね」
男は愛想よく笑うばかりで、反省の色はない。混乱を招いておいて、彼はしたり顔で切り出した。




