第5話 朝食はとろ〜り卵のエッグマフィン
チュンチュン……。
小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。
ボロ屋敷での初夜は、意外にも快適だった。
ベッドはカビ臭かったけれど、お腹がいっぱいなら人間、大抵のことは許せるものだ。
「ふわぁ……よく寝た。さて、朝ごはんの仕込みをしなきゃ」
私は大きく伸びをして、寝間着のまま厨房へと向かった。
昨夜、ハンバーグを平らげたせいで食材が減ってしまった。
今日は森へハーブを採りに行こうか、それとも川で魚を釣ろうか……。そんな牧歌的な計画を立てながら勝手口のカーテンを開けた、その時だ。
「!!」
窓ガラスの向こうに、張り付いている人影があった。
朝霧の中にぼんやりと浮かぶ、長身の男。
腕を組み、仁王立ちで、ジッとこちらを凝視している。
「ひぃっ!?」
心臓が止まるかと思った。
幽霊? ストーカー? それとも借金取り?
私が腰を抜かしそうになった瞬間、ガラス越しに目が合った。
冷徹なアイスブルーの瞳。
整いすぎて逆に怖い美貌。
「……ジルベール公爵?」
私は慌てて鍵を開けた。
「おはようございます、閣下。……あの、朝っぱらから何をされているんですか?」
まさか、一晩中そこに立っていたわけじゃないですよね?
公爵はズカズカと厨房に入り込んでくると、私の格好を一瞥し、ふいっと顔を背けた。
耳が少し赤い。
「……朝の巡回だ。不審者がいないか見回っていた」
「不審者って、閣下ご自身のことでは……」
言葉を飲み込む。
よく見れば公爵の髪には朝露がきらりと光っていた。巡回というのは嘘ではないかもしれないが、その視線がチラチラとカマドの方を向いているのはなぜだろう。
「異常はないようだな。……ところで」
公爵が不自然なほど滑らかに話題を変えた。
「巡回をして腹が減った。……何か、あるか?」
やっぱりこれだ。
この国の裏の支配者様は、朝ごはんをたかりに来たのだ。
(王宮の料理人が逃げ出したって噂、本当なのかも)
呆れつつも、料理人としての血が騒ぐ。
朝から重たいステーキは胃に悪い。
寝起きには、もっとこう……脳を目覚めさせるようなワンハンドで食べられる物がいい。
「わかりました。ちょうどパンを焼こうと思っていたんです」
私は昨晩のうちに仕込んでおいた生地を取り出した。
小麦粉に天然酵母を混ぜて発酵させたものだ。
これを丸めて、コーングリッツをまぶす。
「パンだと? 窯も温まっていないのに焼けるのか?」
「ふふ、このパンはフライパンで焼けるんですよ」
熱した鉄板の上に生地を並べる。
蓋をして蒸し焼きにすること数分。
香ばしい小麦の香りが漂い始め、公爵の鼻がピクピクと動く。焼き上がったのは、外はカリッと、中はもっちりとした『イングリッシュマフィン』だ。
これを半分に割り、断面を軽く焼く。
その間に厚切りベーコンをジュージューと焼き、隣で目玉焼きを作る。ポイントは、黄身が固まる直前の「半熟」で止めること。
最後に、スライスしたチーズを乗せて余熱でとろけさせる。
「仕上げは……黒胡椒を少し」
マフィンにバターを塗り、具材をタワーのように積み重ねる。
ベーコン、チーズ、半熟目玉焼き。
茶色と黄色と白のコントラスト。まさに朝の芸術品だ。
「お待たせしました。『ソーセージエッグマフィン』です」
差し出した瞬間、公爵の手が伸びた。
もはや「毒味」という言い訳すらしないらしい。彼はマフィンを両手で掴むと、大きな口を開けてかぶりついた。
サクッ、モチッ。
心地よい音が響く。
そして次の瞬間、
「んっ……!」
半熟の黄身がプチンと弾け、濃厚なソースとなってベーコンに絡みついた。
溶けたチーズとバター、肉の塩気が渾然一体となって口の中に広がる。
公爵の動きが止まった。
目を見開き、口の端についた黄身を舌でペロリと舐め取る。
「……なんだ、このパンは」
咀嚼しながら彼は感動に打ち震えていた。
「外側は驚くほど香ばしいのに、中は餅のように弾力がある。そこに卵のコクと、塩気の効いた肉が……計算され尽くしている」
「パンの粉っぽさを消すために、トウモロコシの粉をまぶしたのがポイントです」
「天才か」
公爵は夢中で二口、三口と食べ進める。
片手で持てる手軽さも気に入ったのか、あっという間に一つを完食し、無言で「もう一つ」と手を差し出してきた。
「はいはい」
二つ目を渡すと、今度は少し味わうようにゆっくりと食べ始めた。窓から差し込む朝日が、もぐもぐする公爵を照らす。
黙って食べていれば、絵画のように美しい光景なのだが。
「……レティシア」
食べ終えた公爵が、ナプキンで口を拭いながら私を呼んだ。
初めて名前を呼ばれた気がする。
「はい?」
「昼は、何時だ?」
「……はい?」
「昼食の時間だ。正午か? それとも一時か? 会議をねじ込む必要がある」
真剣な眼差しでスケジュール調整を始めた。
「えっと、お昼もいらっしゃるんですか?」
「当然だ。この屋敷の管理はお前の義務だろう」
公爵は懐から革袋を取り出し、テーブルにドンと置いた。
中からジャラジャラと音がする。金貨だ。
「食材費だ。足りなければ言え。王都から最高級の小麦でも牛でも取り寄せさせる。……だから」
彼は立ち上がり、去り際に私を振り返った。
その瞳は、もはや完全に「飼い主を待つ忠犬」の色をしていた。
「昼も楽しみにしている」
言い残して公爵は風のように去っていった。
残されたのは大量の金貨と空っぽの皿。
「……これ、もしかして」
私は金貨の袋を握りしめ呆然と呟いた。
「胃袋を掴んだっていうか、三食付きの家政婦として認定されただけじゃ……?」
まあ、お金がもらえるならいいか。
この金貨があれば、市場で新しい調味料が買えるし!
私は現金を前に思考をポジティブに切り替えた。まさかこの行動が公爵による「囲い込み」の第一歩だとは気づかずに。




