第24話 スープ一滴の価値は?
「た、頼む……! 一口……いや、スープの一滴でいい! 舐めさせてくれ!」
王宮の床に一国の王太子が這いつくばっていた。
カイル殿下だ。
彼は私の足元にすがりつき、なりふり構わず懇願している。その横では、ミリア男爵令嬢も「あうあう……」と壊れた玩具のような声を漏らしながら、国王陛下が飲み干した空っぽの丼を羨ましそうに凝視していた。
地獄絵図である。
だが、ラーメンの残り香が漂うこの空間では、彼らを笑う者はいない。会場にいる全員が、「あの黄金の液体を飲めるなら魂を売ってもいい」という顔をしているからだ。
「あらあら、殿下。王族としてのプライドはどうされたのですか?」
私が冷ややかに見下ろすと、殿下は涙目で叫んだ。
「プライドで腹は膨れない! あの匂いを嗅がされて、我慢できる人間がいるものか! 金ならいくらでも出す! だから!」
「金? 公爵家の妻である私にお金の話ですか?」
私が鼻で笑うと、隣で腕を組んでいたジルベール様が懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
用意が良い。
最初からこの展開を読んでいたらしい。
「……カイル殿下。私の妻の手料理が食べたいのなら、それ相応の対価を払っていただこう」
「な、なんだそれは! サインすれば食わせてくれるのか!?」
「契約書だ。内容は三点」
ジルベール様が淡々と読み上げる。
「一つ、レティシアへの婚約破棄および追放処分に対する、正式な謝罪と慰謝料の支払い。二つ、今後一切、レティシアに対し『料理を作れ』等の命令、干渉を行わないこと。そして三つ……」
ここでジルベール様がニヤリと笑った。
「王家が独占している『東方貿易』のスパイスおよび食材の優先購入権を、ヴァルシュタイン公爵家に譲渡すること」
「なっ!?」
殿下が息を呑んだ。
東方貿易権といえば、王家の莫大な財源の一つだ。特に胡椒や香辛料は金と同じ価値がある。
「そ、それはあまりにも……!」
「嫌なら構わない。私たちは帰って、この残ったチャーシューで一杯やるだけだ」
私が寸胴鍋の蓋を少しずらす。
モワァァ……ッ。
再び溢れ出す、焦がしニンニクと鶏油の悪魔的な香り。
「ぐ、ぐぬぅ……っ!!」
殿下の喉が大きく鳴った。
理性の堤防が決壊する音が聞こえた。
「わ、わかった! サインする! スパイスでも権利でも何でも持っていけぇぇぇ!!」
「殿下! なりませ……いえ、サインしてください! 私も食べたいんです!」
ミリアまで加担し、殿下は震える手で契約書にサインした。王家の印章が押された瞬間、ジルベール様は満足げに契約書を回収した。
「……商談成立だ」
「さあ、早く! 早くラーメンを!!」
殿下が犬のように口を開けて待っている。
私はため息をつき、寸胴鍋の蓋を全開にした。
「……仕方ありませんね。実は『替え玉』用のスープが少しだけ残っていたのを思い出しました」
「あるんじゃないか!!」
私は新しい丼を取り出した。
ただし、先ほどの陛下に出した「全部乗せ」とは違う。麺とスープだけ。具なし。
いわゆる『素ラーメン』だ。
「はい、どうぞ。具材はさっき使い切っちゃったので、麺だけですけど」
ドンッと殿下とミリアの前に置く。
「おお……おおお……っ!」
二人は文句を言うどころか、神の恵みを見るような目で丼を拝んだ。
そして箸を突き入れ、猛然とすすり始めた。
ズルルッ! ハフッ、ハフハフッ!
「んんんーッ!!」
殿下が白目を剥いて悶絶する。
「これだ……この味だ……! 枯れ果てた体に染み渡る! 具なんていらない、このスープと麺があれば、他には何もいらない!」
「美味しい! 悔しいけど美味しいですわ! お化粧が崩れるのも構いません!」
二人は言葉も忘れて貪り食った。
ズルズルと音を立て、汁を飛び散らせ、王族と貴族の品位など微塵もない。その姿は、かつて私を「貧乏臭い」と罵った彼ら自身の言葉がブーメランとなって突き刺さっているようで滑稽だった。
「……哀れだな」
ジルベール様が冷ややかな目で見下ろす。
「食欲に負けて国の利権を売り渡すとは。……まあ、おかげで我が家の食卓はさらに潤うわけだが」
「ですね。これで胡椒もシナモンも使い放題ですよ、旦那様!」
私たちは顔を見合わせてハイタッチをした。
数分後。
スープの一滴まで舐め尽くした殿下とミリアは、満腹感と引き換えに、とてつもない虚無感に襲われていた。
「……余は、なんてことを」
殿下が契約書の写しを見て青ざめている。
スパイス利権の譲渡。父王に知られたら廃嫡待ったなしだ。
「さて、私たちはこれで失礼します。……ああ、そうそう」
帰り際、私は振り返ってニッコリと告げた。
「そのラーメン、一杯につき『金貨百枚』になりますので、後ほど請求書を送っておきますね?」
「ブッ!!」
殿下が食べたものを吹き出しそうになった。
「そ、そんな馬鹿な! ぼったくりだ!」
「嫌なら食べなければよかったじゃないですか。『スープの一滴』に魂を売ったのは、貴方達ですよ?」
私はドレスの裾を翻し、ジルベール様のエスコートで会場を後にした。
背後からは、
「悪魔だ……あの女は料理人の皮を被った悪魔だ……!」
という殿下の嘆き節が聞こえてきたが、最高の褒め言葉として受け取っておいた。
外に出ると王都の夜風が心地よかった。
「……終わったな」
ジルベール様が私を見る。
「ええ、スッキリしました! これで心置きなく領地へ帰れます!」
「ああ。……帰ったら、私にも作ってくれるか?」
「え?」
公爵が少し頬を染めて言った。
「……見ていたら腹が減った。具だくさんの、特製ラーメンを頼む」
「ふふ、もちろんです! 旦那様にはチャーシュー増し増しでサービスしますね!」
こうして王都での「ざまぁ」イベントは完全勝利で幕を閉じた。
私たちは戦利品――契約書とプライドを抱え、愛しの我が家、辺境の領地へと馬車を走らせるのだった。




