咳の音
砂漠の夜は、静かで冷たい。
咳を堪える音だけが、天幕の中に残る。
十二年前、私はこの国の第四王女として生まれた。
生まれたとき、祝福の声があったと聞く。
だが、その記憶は私のものではない。
私の最初の記憶は――
薬の匂いと、祈りの言葉。
そして、静かに交わされる視線だった。
第四王女。
その響きは、軽い。
王位には遠く、期待にも遠い。
母は、東の大陸の地方貴族だったと聞く。
私と同じ、緑の瞳と、淡い金の髪を持つ、綺麗な人だったらしい。
私が四つになる頃、母は――私と同じ病で死んだ。
覚えているのは、腕の温もりではなく。
王宮の廊下に落ちる、囁き声。
「王を誑かした女の娘」
「異国の穢れた血」
それが、私に向けられた最初の言葉だった。
三歳になった頃。
重い扉が開き、灰色のローブを纏った男が入ってきた。
王宮魔導長――
ヴァルディオ・グレイアス。
その名は、あとから知った。
あの日、私はただ、その瞳の色だけを覚えている。
冷たい灰色だった。
「この子が、適任だ」
そう、誰かが言った。
意味は分からなかった。
だが、部屋の空気が変わったことだけは、幼い私にも分かった。
アルヴェイン家が後ろ盾になる。
責罪の儀に参加する。
それは――選択ではなかった。
宣告だった。
あの日から、国は――私を“生かす”ことに決めた。
死なせないためではない。
儀まで、保たせるために。
父に仕えてきた、最高の治癒術師。
ルーメン・パリンプセスト。
彼の手は、あたたかかった。
何度も、私を死の縁から引き戻した。
だが――
白脆の病は、消えない。
治るのではなく、ただ、延ばされる。
この病は、マナの濃い中央大陸では、進行が早いと聞いた。
だから――
私を十二まで、東の大陸で療養させるという話があったらしい。
母の生まれた土地。
海の向こうの、遠い場所。
だが、その話は消えた。
王宮の魔導師たちが、反対したのだと、あとから知った。
「中央から離すわけにはいかない」
そう、誰かが言ったと聞く。
私は、その意味を知らなかった。
ただ――
東の海を、一度も見ないまま、私はこの国で、儀を待つことになった。
王族としての教育は受けた。
この国の歴史。
王家について。
魔術の理論。
だが、とりわけ心を惹かれたのは――
あの東の大陸についてだった。
母の生まれた土地。
海の向こうの、異国。
書物の挿絵に描かれた、深い緑と、青い海。
そこは、私がこの一生で、脚を踏み入れることのない場所。
――そう、理解していた。
それでも。
地図を閉じるたびに、胸の奥が、わずかに熱を持った。
それが、何なのかは分からなかった。
願い、と呼ぶには小さすぎて。
諦め、と呼ぶには温かすぎる。
私は、それから目を逸らして生きてきた。
私は、王族だ。
だから、この国のために生きる。
そして、この国のために死ぬ。
それが、私の責務。
――そう、教えられてきた。
母の国を、一度だけでも見てみたい。
その思いは、誰にも言わなかった。
言ってしまえば――
私は、私に与えられた“価値”を失ってしまうような気がしていた。
◇
喉に走る違和感を抑えきれず、小さな咳が、夜に響いた。今夜は特にマナが身体に響いた。
静寂が、すぐに戻る。
この遠征も、すでに半ばを過ぎたと聞く。
幼い頃から私に仕えてきた神官――セルノフが、静かな声で告げる。
「順調に進んでおります」
順調。
その言葉は、いつも同じ温度だった。
数名の兵が倒れたことも、私の咳が深くなっていることも。
その一言の中に、静かに沈められる。
初日から、私の天幕に魔法を施していた
アルヴェインの旅侍魔は――
今夜は、来ていないようだった。
いつもと、魔法の質が違う。
ほんの僅かな違い。
だが、私には分かる。
この病は――マナに過敏になる。
だからこそ。
空気に混じる魔力の揺らぎも、触れられるように感じてしまう。
「……今夜は、旅侍魔は違う方なのですか?」
セルノフが、わずかに間を置く。
あの、銀の瞳の者の魔法は――どこか、心地よかった。
ただ湿度を整えるだけではない。術式の揺らぎが、私の呼吸と、自然に重なっていた。
まるで、長い年月、治癒魔術に携わってきた者のような精度。
「アーシェ・アルヴェインは、現在、前線に出ております。少し……問題がありまして」
セルノフは、淡々と告げた。
先ほど自ら口にした“順調”という言葉など、
初めから存在しなかったかのように。
「今夜、担当している者は、王宮魔導師の中でも優秀な治癒術師です。快適にお休みになれるかと思います」
セルノフの声は、いつもと変わらない。
「……そうですか」
私は、それ以上何も言わなかった。
快適。
その言葉が、ただ喉の奥にひっかかったままだった。
そう。
私は、察していた。
砂漠のマナが揺らいでいる。
意味刻みが現れたのだろう。
この砂漠に潜む、罪の魔物が王としての資質を測る。
それを退けられない王族は、ここで終わる。
辿り着けなかった者たちは、記録の端に沈むだけだ。
――そう、教えられてきた。
私は、目を閉じた。
私も、ここで終わるのだろうか。
喉に走る違和感。
溢れた咳が、砂漠のマナに溶けていく。
夜は、何も答えなかった。




