その道の先で
罪の砂漠、初日の夜。
僕は、夜を越すために天幕の設営をしていた。
「くっそ、さみぃーな。昼はあっちぃーってのに」
隣で作業をするヴァンが、ぼやくように呟く。
彼の言葉通り、夜の砂漠の空気は、昼とは打って変わって、容赦なく冷え込んでいた。
おそらく――大気中の水分が極端に少ないため、熱を保持できないのだろう。
そんな推測が、自然と頭に浮かぶ。
それは、医学的知識に基づいた考えだ。
僕は医学以外の分野に、それほど精通しているわけではない。それでも、こうして状況に当てはめて考える程度の応用は、身についていた。
――目的地である《灰の神殿》までは、まだ十日近くかかる。
予定通りの行路を辿れたなら、途中にある小さなオアシスに立ち寄れるはずだった。
◇
作業が一段落した頃、僕は神官に呼ばれ、王女が休む天幕へと向かった。
当然ながら、それは僕らのものより、ひと回り大きく整えられていた。
僕はその前に立ち、静かに魔法を放った。
詠唱に呼応して、乾ききった空気の中に――ほんの僅かだが、水の息吹が生まれた。
これが、僕が王女の近くに配置されている理由だった。
王族のような高貴な身分の者が旅をする際、その身、あるいは旅の環境そのものを補佐するため、魔導士が随行する。
その魔導士を、この国では「旅侍魔」と呼ぶ。
本来、王族の遠征には、旅侍魔が複数名つく。
だが、レアノールは――そんな王族なら当たり前の待遇すら、受けていなかった。
だから、ガイルは、その役目を、僕に与えた。
この役割については、旅立ちの前から聞かされていた。ライコスは僕に、旅侍魔として必要な、いくつかの生活魔法を教えてくれた。
今、使っているのは――そのうちの一つ。
大気中の水分量を、増やす魔法だ。
火魔法に対する防護魔法と、詠唱の構造が、どこか似ている。おそらく、歴史のどこかで、同じ流れから分かれた術なのだろう。
この環境で、水系統の魔法は弱く、消耗も激しい。
因果としても、意味としても――遠い。
ガイルとしては、戦力として期待していない僕には、この加湿器としての役割は、ちょうどよかったのだろう。
役割を終え、僕も休もうと、その場を離れようとした――まさに、その瞬間だった。
天幕の内側から、人影が現れた。
「……すごく、快適になりました。王宮にいるみたいに」
ローブを深く被った、緑の目の王女が、僕に向かってそう言った。
吸い込まれるような、綺麗な瞳。
だが、その視線は――どこか、僕ではない遠くを見ているように感じられた。
僕は、王族という遠い存在を前に、何を答えればいいのか分からず、言葉を失っていた。
短い沈黙のあと――
王女は、僕との距離を少しだけ詰めた。
「お名前は、なんて言うのかしら?」
レアノールが、再び口を開いた。
「……アーシェ・アルヴェインです」
名乗った直後だった。
「……なぜですか?」
一度動いた口は、さっきまでとは打って変わって、その言葉を、自然と口にしていた。
「ご病気だというのに、なぜ、こんな危険な儀式に挑むのですか?」
胸の奥から湧き上がる何かが、言葉を抑えることを許さなかった。
その瞬間――すぐ近くに立つ神官の、鋭い視線を感じた。
レアノールは、すぐには答えなかった。ローブの奥から覗く金の髪は、この砂漠の夜の中でも、驚くほど艶やかだった。
「そうですね」
静かな声だった。
「それが――王族としての、責務ですから」
その瞳は、僕ではなく、どこか遠くを見ていた。
「……でも」
気づけば、僕は一歩、踏み出していた。
「死んでしまったら、意味が――」
言葉の途中で、気配が変わった。
すぐ横から、神官が一歩、前に出てきた。
だが、レアノールは、ただ静かに立っていた。
「……この歳まで、生きられたこと自体が、奇跡なのです」
「ですから――この儀を終えられるのなら」
レアノールは、微かに微笑んだ。
「それ以上を、望む理由はありません」
その声は、とても静かだった。
そして、僕はその言葉に、何も返せなかった。
命とは、何なのか。
意味とは、何なのか。
――分からなかった。
「レアノール様、お身体に障ります。お戻りください」
神官の声が、静かに場を切った。
王女は小さくうなずき、何も言わず、天幕へと戻っていく。
神官が捲り上げた布の向こうへ、あの儚い後ろ姿が、消えてしまう。
僕は、何かを伝えなければならないと、口を動かそうとする。だが、その「何か」は言葉にならず、口の中には、砂の感触だけが残っていた。
――その瞬間だった。
天幕の前で足を止め、王女が振り返った。
吸い込まれるような緑の瞳が――
そのとき、初めて、僕を見たように感じた。
「アーシェ。
貴方が……私を、生かしてくれるのですか?」
その言葉を口にした瞬間――
病を抱えた王女の顔は、年相応の、無邪気な少女の笑顔だった。
風に揺れる、僕の銀の髪の音だけが、この世界に残された、唯一の音のように感じられる。
僕はただ、静かに立ち尽くしていた。
◇
王女は、神官に促されるようにして天幕へと入った。
その直後、低い声が落ちてくる。
「……レアノール様を、刺激するな。
次に同じことをすれば、旅侍魔を変えてもらう」
神官の言葉だった。
けれど、その声は――
なぜか、ひどく遠くに感じられた。
◇
僕は、ヴァルデン兵の後衛部隊が張る天幕群へと戻った。
さすがに貴族という立場もあって、作り自体は他の兵の天幕と変わらないものの、僕とシアナには、それぞれ個別の天幕が与えられていた。
シアナは、自分の天幕の横で、黙々と素振りをしていた。
その姿を横目に、僕は少しだけ迷う。
自分も日課である、短剣への魔力注入を行うべきか。
それとも――この先に待つ危険に備え、できるだけ消耗を避けるべきか。
僕が、この儀に参加した目的。
それは、ユーナの「崩心症」を治すためだ。
そのために、功績を積み、ルーメン・パリンプセストに会う。
それなのに。
別の何かが、胸に引っかかっていた。
ルーメンは、相当な治癒術師だと聞く。
そんな彼でも――王女は、治せないのだろうか。
思考の隙間へ、レアノールの言葉が滑り込んでくる。
割り切るためだった。
そして、目的に集中するためでもあった。
回復分も考え、いつもより余力を残して、日課を行うことにした。
――ユーナなら、こうする。
そう思い込むことで、
それを、免罪符のように胸に置いた。
鞘に収めたまま、短剣を手に取り、胸の前に掲げる。
そして、リメアから意味を宿さない魔力を生み出し、それを、静かに短剣へと流し込んだ。
違和感があった。
砂漠での水魔法の使用は、確かに消耗が激しかった。
だが、聞いていたほどではない。
――確信はない。
けれど、この三年間の習慣の積み重ねが、僕のリメアを、確実に強く、大きくしていたのかもしれない。
……いや。
違和感は、それではなかった。
「アーシェ、色……いつもと違うよ?」
シアナが近づき、そう言った。
その一言で――僕も、ようやく気づいた。
短剣を包んでいた魔力が、どこか赤みを帯びた、灰色をしていた。
そして――
その色は、途切れる一瞬に、
確かに“あの色”を帯びていた。
そう。
僕を、この世界へ導き、
――僕自身が選んだ、
あの、眩い銀色を。




