白脆の王女
「アーシェ、王女様、見えなかったよ。ほんと残念」
馬群が通り過ぎるのと同時に、シアナの声が響いた。
「すぐに謁見の時間があるし、これからの遠征で、何度も会えるだろ?」
僕は、そう言って――
少しだけ素っ気なく、シアナに返した。
「そうだけど。早く会いたいなー。
すごく綺麗なんでしょ?」
「……たしかに、綺麗だったけど。
まだ、子どもだし」
その言葉は考えるより先に――自然と、僕の口からこぼれていた。
「えっ?アーシェ、見えたの?」
シアナは、思い切りこちらを振り向く。
「えー……。
子どもって、確か同い年でしょ?」
少し不貞腐れた声。けれど、その視線は、やけに鋭かった。
アーシェとして十二歳になり、ふとした拍子に、白井としての思考が顔を出すことが増えていた。けれど―『あの白衣の影を見ることは、もう、ないのだろう』そう、感じていた。
◇
しばらくその場で待機していると、王国兵が僕とシアナの名を呼んだ。
兵に先導され、僕とシアナは、庭の奥に建つ屋敷へと歩き出した。
屋敷の周囲には、先ほどの騎馬隊がすでに馬を下り、待機していた。
そして――
庭を進んでいった、あの灰色の馬車が、屋敷の脇に静かに停められていた。
屋敷に入り、廊下をしばらく進み、僕たちは一つの大部屋へと通された。
そこには、大きな長方形のテーブルが置かれていた。
左側には、前方から順に――
ガイル、ロイス、エルミナ。
見知った顔が、すでに席についていた。
僕とシアナは、エルミナの隣に腰を下ろした。
ふと、室内を見渡す。
左の最前の席は、ぽっかりと空席のままだった。右側の席にも、まだ誰の姿もなかった。
そして――この長い卓の最前、その中央。あそこに、王女が座るのだろう。
しばらくして、深い灰色のローブをまとった中年の男が、三人の騎士を伴って入室してきた。彼は右側最前の席に静かに腰を下ろし、騎士たちはその背後に控えるように立った。
さらに少し遅れて――アルヴェイン家の紋章が刻まれた鎧を身につけた若い男が、数名の従者を伴い、室内へと入ってきた。
男は、僕の背後を通り過ぎると、テーブル左側の前列を目指して歩いていた。
「よっ!ヴァルデンの長男だよな――アーシェ、だったか?身内なのに、初めましてだな」
ふいに、背中越しに投げられた声。気安い調子だった。
振り返ると、黒髪に端正な顔立ちの若い男が、こちらを見ていた。その瞳は、僕とよく似た――わずかに灰を帯びた色をしている。笑みを浮かべてはいるが、視線は笑っていない。値踏みするような目が、僕をまっすぐ捉えていた。
「俺はオルロ・アルヴェインだ。
王女も有力な候補じゃないし、おたくらも分家。まあ、俺も似たようなもんだ。せいぜい、仲良くしようぜ」
婉曲も、配慮もない。それを失礼とも思っていない口調で、オルロは言い切った。
「オルロ様。その発言は、看過できません」
右側最前に座る灰色のローブの男が、感情を押し殺した声で告げた。
「レアノール王女には、他のいかなる候補者とも等しく、継承の権利がございます。そして――」
「この義の行方は、貴方方アルヴェインのみならず、セレストリアそのものの未来を左右するのです」
「ヴァルディオ様はさ、誰が王になろうが、正直どうでもいいんだろ?」
オルロは肩をすくめ、左最前の空席へと歩み寄った。
「あんたら、責の灰は、儀さえ無事に終わりゃ、それでいいんだからさ」
そう言うと、オルロは一瞬だけガイルに頭を下げ、席についた。
「そうですね。それが――我々の責ですから」
灰のローブの男は、何の迷いもなく、あっさりと言い切った。
事前に、聞いていた。
責の灰。王国の創世期より、責罪の儀を取り仕切ってきた存在。
そして――
目の前に立つこの男こそが、
灰の魔導士、ヴァルディオ・グレイアス。
現・王宮魔導長。
そして、責の灰を束ねる長でもある。
彼らこそが――王政そのものを、静かに、しかし確かに支え続けてきた存在だった。
オルロとヴァルディオの応酬を前に、僕たちヴァルデンのアルヴェインは、ただ沈黙を保っていた。
そうして――
言葉の応酬は途切れ、静かな時間だけが、ゆっくりと場を満たしていった。
しばらくして、扉の向こうから足音が聞こえる。
扉が開かれ、二人の兵と、一人の神官のような者が姿を現した。
そして、その後ろから――
旅装を思わせながらも、王族らしい意匠が施された装いの少女が、静かに部屋へ入ってくる。
金色の髪。
エメラルドグリーンの瞳。
その一歩一歩が、場の空気を、確かに変えていった。
皆が席を立ち、王女が席に着くのを待った。
隣のシアナは、分かりやすいほど目を輝かせている。
僕は――
気づけば、吸い寄せられるように、王女の瞳を追っていた。だが、その視線が交わることはなかった。
確かに、綺麗な人だった。
……いや。
まだ、可愛いと呼ぶほうが、正しい年頃なのだろう。だが、その白い肌には、どこか病人めいた儚さがあった。
そして、もう一つ。前を歩く神官の存在にも、違和感を覚える。本来、祭事に関するすべては、責の灰が取り仕切るはずだ。それとは別に神官が同行している――その事実が、妙に引っかかった。
王女が席につくと、それに倣い、他の者たちも腰を下ろした。王女の背後に控えていた神官が、一歩前に出て口を開く。
「皆様、本日はお集まりいただき、感謝いたします。責罪の儀が滞りなく終えられるよう、どうかお力添えを。ネフェルの加護が、ここに集いし者すべてにあらんことを」
その言葉の余韻が消えかけた、そのとき―王女が、小さく咳き込むのが、ふと視界に入った。
――やはり、体調が思わしくないのだろうか。そんな考えが、胸の奥に、静かに残った。
その後、王女は神官と兵に伴われ、静かに部屋を後にした。扉が閉じると、張りつめていた空気だけが、取り残された。
「おいおい、本当に大丈夫なのか?
聞いてたより、不味そうだぜ?」
オルロが口を開いた。だが――その言葉が何を指しているのか、僕には分からなかった。
「それはどなたから情報ですか?ゼール殿ですか?」
ヴァルディオは、オルロを睨むように言った。
「何言ってんだ。王都セリオンじゃ有名な話だぜ」
オルロは鼻で笑うように言った。
「レアノール王女が――白脆病だって噂になってる」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が、わずかに張りつめた。そして――ガイルの視線が、先ほどまでよりも、明らかに鋭くなっているのが目に入った。
「……なるほど」
ヴァルディオは目を伏せ、感情の読めない声で応じる。
「俗世のことには、どうにも疎くてね」
二人の会話だけが部屋に響いた。
シアナの無響病。
ユーナの崩心症。
――そして。
『医師として、果たせなかったことを果たせ』
かつてカロニアで見た、未来の自分が残した意味が、胸の奥で静かに反響した。
だからだろう。
僕は、この世界の「病」について――
できる限り、学び続けてきた。
白脆病。
それは、生まれつきリメアが過敏であるがゆえに起こる病だ。
強い意味。
激しい感情。
外界から流れ込むそれらに反応し、リメアが乱れ――
結果として、持ち主自身を、内側から傷つけていく。
病は、意思を持たない。
だが、意味に触れすぎた身体は、
その意味に、耐えられなくなる。
そして――
この大陸には、白脆病を根本から治療する方法は、存在しない。
――そんな状態の少女を、責と罪の儀へと、挑ませるというのか。
喉の奥までせり上がった言葉を、僕は、声にできずに飲み込んだ。
「儀に挑むのは、王女自らの、決断です」
ヴァルディオが、迷いのない声で言い放つ。
「罪と責を背負うこと。
それこそが――セレストリア王族に課せられた、責任なのです」
その声音には、情も、躊躇もなかった。あるのはただ、この国を“存続させてきた理屈”だけだった。
灰の魔導士の言葉を最後に、一人、また一人と席を立ち、部屋を後にしていった。
やがて、室内に残る者はほとんどいなくなった。
アルヴェイン家の者も――いつの間にか、僕とシアナだけになっていた。
そのときだった。ヴァルディオが、静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「アーシェ様」
不意に名を呼ばれ、視線を上げる。
「アルセリアさんは、お元気でしたか?」
唐突な名に、胸の奥がわずかに波打った。
「私もね、彼女の弟子の一人でして。
あの方が、王宮魔導長だった頃は……ずいぶんと、お世話になりました」
懐かしむような口調。だが、その目は、過去ではなく――僕自身を見ていた。
「貴方が“万象”に従事したと聞き、大変、興味を持っております」
一拍置いて、彼は微かに笑った。
「正直に言えばね。私は――白炎のお姉さんよりも、貴方を買っています」
その言葉が、何を意味するのか。僕には、まだ分からなかった。
「では」
踵を返しながら、ヴァルディオは、淡々と告げる。
「銀が、再び輝くことを――期待していますよ」
そう言い残し、彼は、自分の言葉だけを部屋に置いて去っていった。
『――銀が、再び輝く』
その言葉の、明確な意味は分からなかった。
だが、あの灰の魔導士が――僕が“使徒”であることを見抜いていた。その一点だけは、疑いようがなかった。
――では、彼は何者なのか。
使徒なのか。それとも、残響者なのか。
答えは、出なかった。
そして僕には、この時点で、選べる道など存在しなかった。
ただ一つ。
あの病の少女が、自らの責で、死地へと進むのなら――それを、助ける側に立つしかなかった。




