必然の点
翌朝。
僕は、与えられた部屋でひとり、短剣に魔力を注ぐという日課をこなしていた。普段は夜、眠りにつく直前に行うことが多い。それをこの朝早い時間に済ませているのは、今日の午後からが忙しくなると分かっていたからだ。念のため、リメアには余力を残しておいた。
王女一行は、予定通り正午には到着すると聞かされている。街の喧騒が、駐屯地にまで届いていた。この建物に詰める兵たちですら、どこか浮き立っている様子が伝わってくる。けれど、僕の気分は上がらなかった。王族という存在が、この国でどれほど大きな意味を持つのか。僕は、まだよく分かっていない気がしていた。
日課を終えた頃、シアナが部屋にやってきた。ノックもなく扉を開けて入ってくるあたりが、いかにもこの姉らしい。
「あっ、今日もやってたの? アーシェって、ほんとマメだな」
シアナの様子は、昨日の騒動などまるでなかったかのように、いつも通りだった。
「シアナも、毎日、素振りは欠かさないでしょ?」
僕がそう返すと、
「一日振らずんば、三日後退、だってさ。オルフェがうるさいから」
シアナは、どこか楽しそうに笑いながら答えた。
◇
昼前になっていた。
この街の北には、儀へと赴く王族のために用意された別荘がある。代々、王女や王子が儀式の前に身を休め、身と心を整えるための場所だ。王女一行は、まもなくそこへ到着する予定だった。そして、僕たちもまた、謁見のため、そちらへ向かう準備を整えていた。
僕は兵に呼ばれ、皆が集まる中庭へと向かった。そこには、シアナ、エルミナ、兵の面々、そしてガイルがいた。父の姿を見たのは、この地に到着して以来、初めてだった。
◇
ガイルを、先頭に三十名ほどの兵が、街の大通りを進んでいた。シアナとエルミナの姿は列の前方に見えた。僕は一人、後方を歩いていた。
責と罪の灰が施された街は、昨日にもましてハレの様相を帯びていた。通りに集まる視線も、歓声も、そのすべてが王女の到着を待っているように感じられる。
だが、やはり所々に、レグラン家の私兵が配置されていた。その立ち位置や視線は、治安維持という言葉から明らかに逸れている。彼らは見ていた。街ではなく――僕たち、アルヴェイン家を。
僕たちはそのまま大通りをしばらく進み、北へ折れて目的地を目指していた。
――少し進んだ、そのときだった。
突然、十人ほどの集団が、行く手を遮るように通りへと躍り出た。
「貴様らアルヴェインは、異国の血を引く小娘に、継承権を与えようというのか!」
集団の先頭に立つ初老の男が、ガイルへ向かって声を張り上げた。その言葉を皮切りに、背後に控えていた人々から、ざわめきとともに罵声が飛び交う。
「売国奴だ!」「反神者め!」
次々に投げつけられる言葉は、もはやガイル一人に向けられたものではない。――僕たち、アルヴェイン家そのものへと向けられていた。
ガイルが、何かを口にしかけた、その瞬間――控えていたレグラン家の兵が、素早く割って入った。彼らは有無を言わさず騒いでいた人々を取り囲み、そのまま通りの外へと連れていった。
騒動は収まり、ガイルを先頭に、兵団は再び進み出そうとしていた。
父の背が、視界に映った。――あの男は、あの場で何を口にしただろうか。それだけが、胸の奥に残っていた。
僕が最後尾を追うように歩き出そうとした、その瞬間、道の脇に、先ほどの騒動の主たちが、兵に取り押さえられているのが目に入った。
「レアノール王女は、母君が東の大陸の出身でな。あまりよく思ってねえ連中も多いんだ」
前を歩くヴァンが、振り返ることなく、その騒動について語った。
「ああいう連中が、最近増えててな。
ここ五年ほどで、伝令魔法が一気に進歩した影響もあるんでしょうが
確かに、便利にはなったが――
そのせいで、いろんな情報が、国民にまで届くようになっちまった」
ここ数年で、伝令の技術――とりわけ魔法を用いたものが大きく発展したという話は、僕も耳にしていた。
“伝魔石”と呼ばれる道具を使うらしいが、それ以上の詳しい仕組みについては、僕は知らなかった。
この異世界では、情報が以前よりもずっと速く、そして広く伝わるようになってきていた。そしてだからこそ、その情報が生む、さまざまな「意味」や「歪み」も、同時に生まれているのだろう。
前世の世界でも、似たような時代は何度もあったのだろう。実際、僕自身も、インターネットによって情報社会が急速に発展していく時代を生きていた人間だ。
けれど、この世界では――そうした発展の中心にあるのは、科学ではなく、魔法だった。
そして、その技術の多くは、東の大陸から流れ込んできたものだと聞く。
東は、僕の生まれた中央大陸よりも、さらに魔法技術が発展している土地だ。
当然、こうした新しい技術は、現権力者にとって不都合な存在もある。多くは警戒され、時に――駆逐の対象とすらなってきた。
だが、結果はこうして、すでに市井へと広がっている。
僕の目に映る、兵に取り押さえられている人々の姿。その光景から、どうしようもない皮肉を感じずにはいられなかった。
東からもたらされた技術が、東に由来を持つ王女を、否定する結果を生み出しているという、この現実に。
三年前に対峙した、罪の牙。そして、レグラン家。さらに、国民それぞれの感情。
それらが、責と罪の灰の底から、断片的に浮かび上がっているように、僕には感じられていた。
◇
その後は、特にトラブルもなく進んだ。
やがて道の先に、高い塀が見えてくる。
その奥には、灰色の屋敷が、静かに佇んでいた。
――そこが、目的地だと。見た瞬間に、はっきりと分かった。
兵団は、そのまま歩を進めた。
門の前には、おそらく王国の正規軍であろう兵が二人、立っていた。
彼らは無言でガイルの顔を確認し、短い間を置いて――ゆっくりと門を開いた。
門をくぐる瞬間、すでに、真夏の太陽は天頂へと近づきつつあった。
僕たちは、王女の到着を待つため、庭で待機することになった。
さすがは王族の別荘だった。三十名程度の兵では、とても埋め尽くせないほどの広さを持つ庭が、そこには広がっていた。
待機時間が始まって、そう間もないうちに――シアナが、こちらへと歩み寄ってきた。
『王女を迎える隊列を崩すのは、さすがにまずいのではないか』
そんな考えが、頭をよぎった。
だが――やはり、シアナはシアナだった。
「もうすぐ、会えるね。レアノール王女」
シアナは、心から楽しそうにしていた。
――僕がアルヴェインの長男として、この世界に生まれ落ちた瞬間から。
この日は、選ぶ以前に、すでに定められていたのだろう。
王女と出会うこと。
そして、責罪の儀に参列すること。
そんなふうに考えていた、そのとき。
遠くから、馬の足音が、静けさを破るように響いてきた。
その響きは、次第に近づいてくる。
「まもなく、王女殿下が到着する。各自、配置につけ」
王国兵の号令が、庭に張り詰めた空気を走らせた。
さらに音が近づき、ついに塀の隙間から、先頭の馬の姿が見えた。
ほどなくして、馬群がゆっくりと門を抜け、庭へと進み入ってくる。
僕たちは、左手を胸に当て、セレストリアの礼を取り、身じろぎもせず立っていた。次々と騎馬が過ぎていく。
その守りの中央に――一台の馬車があった。
そして、僕の視線の先をなぞるように、その馬車が、ゆっくりと進んでいった。
そう――
あの瞬間は、きっと必然だったのだろう。
僕の視界に、はっきりと映った。
灰色の豪奢な馬車の窓越しに――
金色の、ゆるやかなウェーブを描く髪。
そして、エメラルドグリーンの瞳。
どこか儚さを湛えた、その横顔が。




