癒しの魔法
姉との会話のあと、家に戻ったアーシェを待っていたのは、静かすぎる空気だった──。
屋敷は、いつもと同じはずなのに、どこか冷たい。
張り詰めた沈黙が、胸を圧迫していた。
「……何かあったのかしら?」
そう言って、エルミナが、息を呑む。
玄関を抜けると、メイドが駆け寄ってきた。
「シアナ様が……突然、倒れられて」
時間が凍りつく。
「無響病の疑いがあるそうです」
次の瞬間には、僕とエルミナは走り出していた。
足音が廊下に響く。
使用人たちが静かに道をあける中、ただ一直線に――シアナの部屋へ向かう。
扉を開いた瞬間、熱を帯びた魔力が空気を震わせる。
母が額に汗を浮かべながら治癒魔法を重ねていた。
隣には、見知らぬ神官と魔術師。
それでもシアナは、浅い息を繰り返すだけだった。
黙り込むエルミナ。
普段は冷静な姉が、唇を噛みしめ、肩を震わせている。
その姿に、胸が締めつけられる。
――これは、ただ事じゃない。
そう思った途端、部屋の空気が一気にのしかかってきた。
息をするだけで胸が苦しくなる。
治癒の光が幾度も揺らめき、祈りの声が響いては消えていく。
それでもシアナは、浅い息を繰り返すだけだった。
どうすればいいのか、誰にも分からない。
重苦しい空気だけが部屋を満たし、時間の流れを鈍らせていく。
やがて、いくつもの朝と夜が過ぎた。
治癒の光が灯っては消え、祈りが重ねられては途絶える。
その繰り返しのなかで、シアナはただ浅い息を続けていた。
「……魔力が通じていない」
誰かが漏らす。
「やはり、無響病か」
重い声が落ちた。
それでも彼らは治療を続けた。
けれど、やがて――
「……これ以上は、意味がありません」
神官は目を伏せ、静かに頭を垂れた。
魔術師も肩を落とし、重い沈黙のまま部屋を後にする。
もう──“見切り”をつけたのだ。
その言葉なき決定が、
空気を支配していく。
残された空間に、静けさだけが広がった。
リアナは黙って額の布を替え、娘の手を握り続けていた。
その横顔は穏やかに見えたが、僕にはその奥に潜む絶望がわかっていた。
「……旦那様とは、まだ連絡が取れておりません」
執事の報告に、母は視線を逸らすだけだった。
屋敷全体が声をひそめていく。
誰も言わないけれど、全員が悟っていた。
――もう長くない。
僕だけが、取り残されていた。
何もできず、選ぶことすらできない。
拳を、強く握る。
——失う。
その予感が、静かに、しかし確実に、心を蝕んでいく。
視界が滲み、目の前のシアナの顔が、輪郭を失っていく。
その奥に――
記憶に存在しないはずの顔が、浮かんだ。
誰かの命が尽きる、その間際に見たはずの顔。
胸の奥が、鋭く、軋んだ。
そのとき、心の奥で声が響いた。
「……今なら、選べるのか?」
言葉が落ちた途端、音が遠のいていく。
鼓動も、浅い息遣いも、すべてが静かに溶けていった。
残されたのは深い静寂。
その静けさに呑まれながら――病室の光景が浮かび上がった。
灰色のカーテン。
古びたベッド。
何度も命を見送った空間。
静寂の向こうに、ひとりの男が立っていた。
窓辺で背を向け、白衣の裾が淡い光を受けて揺れている。
見覚えはないはずなのに――どこか、自分と重なる気配があった。
「これから先、何度も選ばなきゃならない。
そのたびに苦しむだろう」
男は伏し目がちに告げた。
その口からこぼれた“選ぶ”という響きが、胸の奥に重く沈んだ。
灰色の病室に、重い沈黙が落ちる。
その静けさが、心の奥にまで染み込んでいく。
「選べることは、むしろ残酷かもしれない。
それでも――今なら、選べるのか?」
その言葉が、さらに重くのしかかる。
空気が冷たく沈み、胸が押し潰されそうになる。
呼吸は浅く、握りしめた手まで冷たく強ばった。
――冷たい。
それだけが、確かな感覚として残る。
胸の奥まで凍りついていくようだった。
その冷たさの奥から、ふと小さな温もりがよみがえる。
泣きそうな僕の袖を握った、小さな手。
あの小さな手の感触だけは、失いたくなかった。
視線を上げる。
「……わからない。
でも、それでも――」
迷って立ち止まった僕の手を、シアナが力いっぱい引いた感触がよみがえる。
小さな背中がまっすぐ前へ進んでいく――その姿だけが鮮烈に胸に残っている。
だから――
「僕は……助けたいんだ」
男は目を見開き、かすかに笑った。
「……そうか。
なら、もう十分だ」
そして、ゆっくりと告げる。
「俺はお前で――お前は俺だ」
その響きが――胸の奥に、静かに落ちた。
次の瞬間、どこからともなく――水の“せせらぎ”が聞こえてきた。
閉ざされていた記憶が、ゆっくりとほどけていく。
白井悠真として生きていた日々。
あの病室で、命から目を逸らした瞬間。
――救えなかった、その顔。
『僕は医者だった』
記憶と今が重なり、胸の奥で強い光となった。
⸻音が戻る。
息遣い、誰かの呼ぶ声。
重たい現実が、ゆっくりと胸に沈み込む。
目の前には、苦しげに眠るシアナ。
荒い呼吸、赤く火照った頬――その姿に言葉が漏れた。
「……肺炎だ」
前世で幾度も見た症状。
どうすればいいかは知っていた。
だが、この世界ではその術がなかった。
絶望が全身に重くのしかかる。
――それでも。
「シアナを……助けたい」
意志が、思考を動かす。
肺胞の炎症。気道の閉塞。酸素の取り込み不全。
思考が知識を呼び、知識が意志を燃やす。
このままじゃ届かないことはわかっていた。
それでも、僕はただ、諦めなかった。
意志と知識が重なり、揺るぎない一点へと収束していく。
胸の奥に宿ったその力は、澄んだ光となって揺るぎなく輝いた。
その瞬間。
部屋の空気が震えた。
「……! マナの流れが……」
リアナが息を呑む。
エルミナの目に、戸惑いと期待が浮かぶ。
僕の手のひらから、光が零れていた。
詠唱も言葉もない。
ただ、願いが魔法になっていた。
シアナの呼吸が安らぎ、顔の赤みが薄れる。
「……下がってる」
リアナの声は震えていた。
部屋に張りつめていた緊張が、静かに解けていく。
安堵、希望、驚き。
皆の視線が僕に注がれる。重い。でも――
僕はただ、シアナの手を握った。
「……よかった」
小さな指がかすかに握り返す。
まるで、また手を引いてくれるかのように。
その感触が、胸を熱くした。
なぜ魔法が発動したのかは分からない。
ただ確かに、それは“同じ”ではなかった。
これまでこの世界で見てきた魔法とは――何かが、
違っていた。
その違いが何を意味するのか、今の僕にはまだ分からなかった。
ただ、その感覚だけが、胸に深く残っていた。
無響病とは、祈りも治癒も届かぬ病である。
体内のマナの流れが閉ざされ、治癒魔法は効果を失う。
症状は浅い呼吸、熱、そして感情の停滞。
進行すれば、肺や心臓の炎症が命を奪う。
原因については諸説ある。
ある者は「強い感情が澱んだ土地で発する」と言い、
ある者は「古き呪いが人の内に触れる」と記す。
いずれも真実は定かではない。
ただひとつ確かなのは――
響きを失った者は、孤独の中で呼吸する、ということである。
――『医療魔術大全』第六章 無響病 より




