責罪の足音
三年前――
馬車から降りた瞬間、シアナが飛びついてきた。
突然の衝撃に体勢を崩しながらも、
その顔を見て、胸の奥がほどけるのを感じた。
生きて帰れた。
そう、実感できた。
僕は母に、自分の決断を伝えた。
アルヴェインとしての責任を引き受けること。
それは、縛られるための選択ではない。
選ぶ力を失わないために。
自分の選択を、現実に刻むための選択だった。
魔導の道を進みたいことも、僕は正直に伝えた。
母は驚く様子もなく、静かに頷いただけだった。
「そう。なら、きちんとした師をつけましょう」
母方の家から、優秀な魔導の師を招くことが決まった。
それと同時に、剣術も学ぶ。
剣も選択であり。
そして、この名を背負う者としての――嗜みだった。
ユレッタは、緊張状態にあった。
そのため、僕のほうからレオのもとへ出向くことはできなかった。
――けれど。
一度だけ、
レオのほうから、ファルナまで来てくれた。
その姿を目にした瞬間、
胸の奥で張りつめていたものが、音を立てて崩れた。
僕は、涙を堪えることができなかった。
◇
そして、今。
夏の日差しが、容赦なく照りつけていた。
責罪の儀は、もう遠い未来ではない。
三年前――蒼の日。
雲の塔の頂で、
自ら短剣を突き立てて刻んだ、左手の傷は、
まるで時を待っていたかのように、
意味を帯びた、不思議な形へと変わっていた。
そして、今。
夏の日差しが、容赦なく照りつけていた。
あの日――
雲の塔の頂で、
自ら短剣を突き立てて刻んだ、左手の傷は、
まるで意味を帯びるかのように、
不思議な形へと変わっていた。
選択の続きが待っている。
そんな予感が、
確かに胸の奥にあった。
――《責罪の儀》。
それは、
セレストリア王国の王族が、
王位継承権を得るために課される儀式。
王国北東の地、《ネフィレス》。
その奥地にある灰の神殿にて――
責と罪を司る神、ネフィルに認められた者のみが、
継承の資格を得るとされている。
責罪の儀は、常に危険を伴う。
事実――
かつて最も有力と目されていた第二王子も、
その儀の最中に命を落としたと、伝えられている。
現在、王国に存在する継承候補は九名。
だが――
すでに儀を終えている者は、
第一王子と第三王子のみだった。
そもそも、
責罪の儀に挑むこと自体が容易ではない。
本人の素養。
大貴族の後ろ盾。
そして、資金。
それらを持たぬ者には、
最初から――
儀に挑む資格すら、与えられていないのが実情だった。
第四王女――レアノール。
彼女の母は、
東の大陸にある地方貴族の出身だと聞いている。
名門というわけではなく、
王族の妃としては、
決して身分が高いとは言えない。
それでも――
彼女には、
アルヴェイン本家を含む後ろ盾があった。
他の継承候補者たちは、
それぞれが有力貴族と結びつき、
何かしらの利害関係を抱えている。
派閥。
婚姻。
資金。
影響力。
それらが複雑に絡み合う中で――
第四王女レアノールは、
どこにも深く属していない存在だった。
ゆえに、
彼女が選ばれた理由は、
おそらく――
「最も、扱いやすかった」からだ。
消去法による選択。
そう評されているのを、
僕は、耳にしたことがある。
僕は、まだこのとき――
王族や貴族の話は、
どこか遠い世界の出来事のように感じられていた。
それは、
自分の足元には、まだ届いていないものだと、
どこかで思っていたからだ。
そんな折――
近日、
父と、
すでに自ら軍を率いている姉・エルミナが、
一度ファルナへ戻るという報告が、
屋敷へと届いた。
◇
数日後、
エルミナの隊がファルナへ到着した。
屋敷の前に現れたのは、
十人ほどの騎兵を伴った、
白い馬車だった。
その中に――
二人ほど、明らかに雰囲気の違う
白鎧の騎士がいる。
おそらく、あれが
正騎士――
魔導士直属の騎士なのだろう。
……やはり、
シグは、なれなかったようだ。
僕とシアナ、母、オルフェ――
屋敷に仕える家の者たちは皆、
揃ってエルミナの帰還を出迎えた。
馬車から、一人の女性が姿を現す。
白みがかった、透き通る金の髪を、
静かに靡かせて。
その姿を目にした瞬間、
胸の奥で、時間がほどけた。
エルミナとは――
二年ぶりの再会だった。
「母様――ただいま戻りました」
姉は、そう一言だけ告げると、
深くも浅くもない、きちんとした礼をした。
母が何か言葉を返すよりも先に、
エルミナは視線を伏せ、
控えていたメイドへと小さく合図を送る。
そして、そのまま――
メイドに先導される形で、
静かに屋敷の中へと入っていった。
「エルミナねえさん……少し、背が伸びてたね」
横に立つシアナが、僕に小さく微笑みかけた。
そのシアナ自身も、
いつの間にか背が伸び、
銀色のカールした髪は肩を越えて揺れている。
――大人に、近づいていた。
僕も屋敷へ戻ろうとした、そのときだった。
「――アーシェ様」
聞き覚えのある声が、背後から届く。
振り返る。
「俺だよ。シグだ」
深く被った甲冑のせいで、すぐには分からなかった。
だが、その声と立ち方を見た瞬間――
確かに、彼だと分かった。
「……シグさん。お久しぶりです」
そう言って、僕は小さく頭を下げた。
その姿を見るに――
彼は、エルミナの隊に加わることはできたようだった。
「今度の遠征、よろしく頼むぜ。
成果を上げて――そろそろ、正騎士になってやるさ」
彼は、まるで当然の未来を語るように、野心を口にした。
この男の決断と、
その先の道を疑いもせずに突き進む姿は、
どこか危うく、
それでいて――嫌いではなかった。
「アーシェ様も、大きくなったな。
こっちも、有望株だったかもな」
冗談めかしたその言葉を残し、
シグは笑いながら持ち場へ戻っていった。
◇
屋敷の一室で机を囲み、
戻らぬ父の席だけを空けたまま、
家族四人が集まっていた。
「エルミナ、どうですか?
順調ですか?」
母の問いは、あまりにも大きく、
そして曖昧だった。
母リアナは、
魔導士としては高い評価を受けている。
けれど――
国家や貴族社会、軍といった世界とは、
距離のある場所で生きてきた人で、
その方面には疎かった。
「そうですね。
責罪の儀の安全を期すため、活動を続けてまいりましたが――
罪の牙の勢力は、いまだ衰えず。
作戦は、難航しております」
エルミナの説明に、
母は思わず、深刻な表情を浮かべた。
三年前――
姉が壊滅させた罪の牙は、
あくまで“一勢力”に過ぎなかった。
その後も、
彼らは王国内の各地で活動を続けていると、
話は聞いていた。
「……ガイルの意思は、変わりません」
母は一度、言葉を区切り、
そして、エルミナの目をまっすぐ見た。
「どうか……
あなたが、シアナとアーシェ――
この二人を、守ってあげて」
それは、命令ではなかった。
母としての――
ただの、願いだった。
「はい。
必要とあらば――私の命に代えても」
エルミナの言葉が、部屋に落ちた。
一瞬の静寂。
「……何を言っているのですか」
母の声は、低く、しかし強かった。
「あなた自身も――
あなた自身が、守られなければならないのです」
その声は、
どこか悲しげだった。
エルミナは、何も言わず、
静かに首を縦に振った。
僕とシアナは、
ただその二人のやり取りを、黙って聞いていた。
その後、母は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえる。
気づけば、
この兄弟三人だけの空間は――
随分と久しぶりだった。
「……母様は、心配しすぎだよ」
沈黙を破ったのは、シアナだった。
「エルミナ姉さんもいるし、
父様だっているでしょ?」
少しだけ肩をすくめ、
いつもの調子で、そう言う。
その声音は軽い。
けれど――
無理に明るくしているわけでもなかった。
「シアナ――
人とは、儚いものです」
エルミナは、そう言って視線を落とした。
「母様は、その儚さを知っている。
だからこそ……心配しているのです」
その言葉は、
静かだったが、重かった。
胸の奥に、確かに響いた。
――白井として、
僕は、幾度も命と向き合ってきた。
救えた命。
救えなかった命。
選択の先で、
静かに失われていったもの。
そして――
この世界でも、同じ光景を見てきた。
生と死の境。
その、曖昧で、
決して越えてはならない線を。
シアナは、静かに頷いた。
「でも――
私は、姉さんも父様も。
それに、アーシェのことも信じてるから」
シアナの言葉は、まっすぐだった。
二人の姉は、まったく違う。
それでも――
最後まで平行線のまま、
変わらないこの二人の関係を、
僕は、嫌いではなかった。
そんなことを思いながら、ふとエルミナの顔を見た。
彼女も――
ほんの少しだけ、微笑んでいた。
◇
数日が過ぎた。
夏の日差しは、さらに強さを増していた。
――そして、ついに。
父、ガイルが帰還した。
ユレッタよりさらに北。
グラディス砦での作戦を、
本家の者たちへ引き継いだうえでの帰還だった。
白井の世界で見た
ファンタジー作品の軍勢が、
現実として、目の前にあった。
幾度か見てきた光景だ。
屋敷の門前には、
騎馬の列と、数台の馬車。
僕らが出迎えに庭へ出たときには、
すでにガイルとロイスは、
屋敷へと歩みを進めていた。
その二人の歩みに合わせて、
重厚な足音が屋敷に響いた。
僕には、その音が――
責任と罪が互いに擦れ合い、
削り合っているかのように聞こえた。
そう。
まだ、誰も知らなかった。
これが、始まりに過ぎないことを。
この国が――
責と罪の灰に沈んでいく、その理由を。




