覚悟の炎
馬車の音が、規則正しく響いていた。
◇
白井悠真としての既に終わった人生。
僕はずっと――
敷かれたレールの上を歩く人生を送った。
その人生の中で、
常に感じ続けていた視線があった。
父は有名な医師だった。
そして父は婿養子で、
「白井」という名は、母方のものだった。
母方の祖父――
いや、母方の一族そのものが、
代々、医師会で影響力を持つ存在だった。
だからだろう。
向けられる視線の多くは、
いつも「僕自身」ではなかった。
そこにあったのは、
白井家という名前と、
その背後にある権威だった。
そして――
僕が何かに対して
どれほど責任を感じようと、
僕に「罪」が向けられることは、
最後までなかった。
◇
再び馬車の音が聞こえた。
「まぁ、正直に言えばさ。
ガイル様は確かに凄いけど――結局、アルヴェインの分家だろ?
先は、知れてる」
シグは驚くほど、あけすけな口調だった。
そして、間を置かずに続ける。
「でも、エルミナ様は違う」
そう言って、
シグは前を行く馬車――
エルミナの乗る白い天幕へと視線を向けた。
「あの歳でだぜ」
シグは、噛みしめるように言った。
「――あの功績はさ。
本家だって、無視できねぇ」
そこで一拍、間。
そして、ふっと思い出したように――
「アーシェ様は、知らねーかもしれねーけどさ」
シグは、どこか自慢するような調子で続けた。
「一期ほど前だ。
グラディス砦で、帝国とちょっとしたいざこざがあってな」
馬車の揺れに身を任せながら、言葉を重ねる。
「本家も、ガイル様も出陣してた。
正直、俺もでっけぇ戦になると思ってたんだ」
そこで、シグは一度息を吐いた。
「でもよ――」
前を行く馬車を、ちらりと見る。
「エルミナ様は、兵数百を、
たった一人で壊滅させた」
誇張ではない、と言わんばかりの口調だった。
「俺は、その場で見てた。
――見ちまったんだよ」
一瞬、言葉を噛みしめるようにしてから、
シグは、はっきりと言った。
「……ああ。この人だ、ってな」
そして、前を行く馬車から目を離さずに続ける。
「あれ以降だ。
あの人は“白炎の魔導士”って呼ばれるようになった」
誇らしげに、だがどこか一方的な熱を込めて。
「俺がついて行くのは――
あの人だって、確信したぜ」
シグの話を聞き終えたとき、
僕の胸には、言葉にしづらい感情が残っていた。
それは、嫌悪でも怒りでもない。
ただ――少し、複雑だった。
この人もまた、僕と同じように、
あの姉の白炎に惹かれている。
それ自体は、理解できた。
けれど。
彼が惹かれているのは、
あの炎そのものなのか。
それとも――
あの力が切り拓くだろう、
未来の地位や権威なのか。
その境目が、
僕には分からなくなっていた。
「……姉さんの正騎士になれると、いいですね」
気づけば、そんな言葉が自然と口からこぼれていた。
「おっ、ありがとよ!」
シグは一瞬だけ驚いた顔をしてから、すぐに笑う。
「ちゃんとアーシェ様の護衛もするから、そこは任せな」
その言葉は、今までとは少し違って聞こえた。
シグが――
初めて、はっきりと“僕”に向けて言葉を投げてきた。
そう感じた。
◇
馬車の音が変わった。
地を打つ響きが、鈍くなる。
ここまで、小休憩を三度ほど挟んだだけだった。
日の位置から見て、時刻はおそらく正午前後
カフの森は、ポルトから半日もかからないと聞いている。
予定通り――
到着時刻としても、妥当だった。
「ここからは徒歩だそうだ」
横に座るシグが告げた。
僕は頷き、
馬車を降りた。
ほどなくして、命令が下る。
僕はその場で、待機するよう指示された。
しばらくして、兵士の声が森に響く。
「エルミナ様、兵は配置につきました」
「わかりました」
エルミナの声は、落ち着いていた。
「――どうですか。
相手方に、投降の意思はありそう?」
「まもなく、斥候が拠点から戻るとのことです」
その報告に、エルミナは静かに頷いた。
時間が、わずかに流れる。
やがて、一人の兵が森の奥から姿を現した。
「エルミナ様」
息を整えながら、兵は続ける。
「先方より伝言です。
……エルミナ様と、直接お話がしたいとのこと」
一瞬、周囲の空気が張り詰めた。
「危険かと思われますが……」
兵は、そう付け加えた。
エルミナは、少しだけ沈黙した。
森の音だけが、短い間を埋める。
「……わかりました」
そう言って、顔を上げる。
「私が行きます」
兵の間に、わずかな動揺が走った。
そして――
エルミナは、こちらを振り返った。
「アーシェ」
名を呼ばれ、胸が小さく跳ねた。
「貴方も、同行しなさい」
僕は、静かに頷いた。
敵の中央へ踏み込むことに、
恐怖がなかったわけではない。
けれど――
もし、無駄な血を流さずに済む可能性があるのなら。
そう思ったとき、
胸の奥に、わずかな安堵が生まれているのを感じた。
そして――
エルミナと僕は、それぞれの騎士だけを伴い、
罪の牙の拠点へと歩き出した。
◇
森を進むと、ほどなくして拠点に辿り着いた。
そこは、
小さな集落のような場所だった。
簡易テントがいくつも張られ、
数台の馬車が寄せられている。
見る限り、ここに長く腰を据えていたわけではなさそうだ。
そのときだった。
視界の端で、二つの視線を感じた。
兄弟だろうか。
僕と同じくらいの年頃の男の子と、
エルミナと同じくらいの年頃の女の子。
二人は言葉もなく、
ただ――不安そうな目で、こちらを見つめていた。
その前に、
三人の男が歩み出てきた。
中央に立つ男は、背が高く、
片目を覆う眼帯がひどく目立つ。
「……あの中央の、隻眼の男が
クリオ・ヴァルグレイヴです」
ミリアが、エルミナの耳元へ
声を落として告げた。
エルミナは――
何の反応も示さなかった。
「アルヴェイン――ガイルの子か」
隻眼の男は、僕を一瞥してそう呟いた。
その声音に、迷いはなかった。
興味でも、敵意でもない。
ただ、事実を確認しただけの声。
――やはり、この男は。
僕の知るクリオとは、まったくの別人だった。
「ついて来い。長のもとへ案内する」
クリオは、エルミナだけを見てそう言った。
エルミナは、短く頷く。
言葉はなかった。
僕たちはそのまま、
森の奥に設えられた一つのテントへと導かれた。
◇
「従者は外で待て」
クリオは、エルミナ以外を静止するように言った。
一瞬、空気が止まる。
「彼は、アルヴェインの長男であり、
次期当主です」
エルミナは、声を荒げることなく続けた。
「彼を同伴できないというのなら――
ここで交渉は終わりです」
「交渉は終わり、だと?」
クリオは、鼻で笑った。
「貴様たちが――
自分たちが優勢だと思っているのか?」
一拍。
「……まあ、いい」
その短い言葉の裏に、意味は十分すぎるほど含まれていた。
ここは敵の中央。
誰かが一言、声を上げれば――
一斉に、刃がこちらを向く。
クリオは、ゆっくりと踵を返した。
「来い」
僕は、エルミナの背を追い、テントの中へ足を踏み入れた。
外の森のざわめきが、
布一枚を隔てただけで、嘘のように遠ざかる。
その瞬間――
「……私の近くにいなさい」
エルミナが、小さく僕に囁いた。
命令ではない。
作戦指示でもない。
それは――
紛れもなく、姉の声だった。
僕は何も言わず、ただ一歩、彼女の背に近づいた。
中は、思ったよりも広かった。
中央には粗末な卓と椅子。
壁際には地図や武器、補給品らしき木箱が無造作に置かれている。
――軍営だ。
長く腰を据えるつもりのない、
それでいて、いつでも戦える配置。
テントの奥に、一人の男が座っていた。
歳は、六十は優に超えていそうな老人だった。
深く刻まれた皺。
背は曲がっているが、その視線だけは鋭く、衰えを感じさせない。
「……アルヴェインか」
低く、擦れた声が響いた。
「裏切り者の分際で――
ずいぶんと、度胸だけはあるじゃないか」
吐き捨てるような言葉だった。
「ヘルムート様。
投降のご意志があるか、その確認に参りました」
その名を口にした瞬間、
エルミナの声には、わずかな硬さが混じった。
――ヘルムート。
エルミナは、この男を知っている。
だが、その事実を示す感情は、
声にも、表情にも、いっさい浮かばなかった。
あるのはただ、
距離を測るように置かれた、冷静な言葉だけ。
「小娘が、何をほざく」
ヘルムートが吐き捨てる。
「アルヴェイン本家の命だか何だか知らんが――
数十の兵を連れて、この森へノコノコやってきておいて、
何が“投降の確認”だ」
一拍、置いて――
吐き捨てるように続ける。
「――お前たちこそ、
自分たちの罪を知れ」
嘲るような笑みとともに、
言葉が地面に叩きつけられた。
「お言葉ですが――」
エルミナは、間を置かずに続けた。
「アルヴェインは、
王家に対する責を、ただ全うしているだけです」
その声音は、淡々としていた。
怒りも、弁明も、そこにはなかった。
「若造の分際で――
私に“責”を説くつもりか」
ヘルムートは、怒鳴るように吐き捨てた。
「責任が、どれほど重いものか。
その重さが、貴様らに分かると思うか?」
テントの空気が、ぎしりと軋む。
だが――
エルミナは、一歩も引かなかった。
「ええ。分かっています」
声は低く、静かだった。
「だからこそ、覚悟があります」
一拍。
「あなた方を――
そして、この森ごと、灰にする覚悟が」
それは、脅しではなかった。
僕は知っている。
姉は、脅しを口にするような人じゃない。
九年間、ずっと見てきた。
僕なんかよりも、ずっと――
アルヴェインを背負う覚悟を持った人なのだと。
「もういい。クリオ、こいつらを殺せ」
ヘルムートの声が響いた――その刹那。
クリオの剣が、一直線に僕へと迫った。
――だが。
白い炎が、僕と剣のあいだに立ち上がる。
防いだ、のではない。
剣が、解けた。
刃が触れた瞬間、
白炎に呑み込まれた金属は、
悲鳴のような音を立てて崩れ落ちる。
一瞬だった。
鋭さも、殺意も、
確かにそこにあったはずの“剣”は、
次の瞬間には、灰にもならず――
ただ、形を失っていた。
静寂が落ちる。
僕は、息をするのを忘れていた。
姉の声が響く。
「――言ったはずです」
振り返らず、淡々と。
「覚悟がある、と」
「ヘルムート・カインツ。
そして――罪の牙」
エルミナの手に白炎が、揺らぐ。
「セレストリア王
カリオン三世の名において」
「――ここで、終わらせます」
エルミナの声が響いた。
その瞬間。
「ばかな……」
ヘルムートは一歩、無意識に後ずさる。
「陛下が?
王命が出ているのか?……そんなはずが……」
ヘルムートは、がくりと膝をついた。
さきほどまでの怒号は消え、
老いた身体だけが、現実の重さに耐えきれず沈む。
「……ヘルムート様」
抑えた声が、背後から響いた。
「あのアルヴェインの娘――
只者ではありません」
クリオは――かつての誓いを、振り払うように続けた。
「せめて……
貴方だけでも、お逃げください」
クリオの言葉が、空気に溶けきる前に――
エルミナは、指先をわずかに払った。
次の瞬間、
白い炎が、テントを焼き裂いた。
そして、エルミナは天に向けて手を掲げた。
白い炎が、一直線に夜空へと打ち上がる。
それは――合図だった。
「……残念ですが」
エルミナは、感情を交えずに告げる。
「交渉は、決裂しました」
一拍。
「――罪の牙を、壊滅します」
エルミナは、それ以上、何も言わなかった。
その言葉と同時に、動きが生まれた。
僕らは、瞬く間に無数の戦士に取り囲まれる。
ミリアが即座にエルミナの側へ。
シグは一歩下がり、迷いなく僕の前に立った。
ここは戦場になる。
あの瞬間。
僕は――確かに見た。
宣告の、その瞬間。
姉は――
ほんの一瞬だけ、悲しそうな表情をしていた。




