責と罪
翌朝、僕は夜明け前に目を覚ました。
眠れなかった、というより――
頭の中が整理されないまま、朝になってしまった。
《罪の牙》。
その組織が、なぜアルヴェインにとって危険なのか。
そもそも、どんな成り立ちの集団なのか。
最低限、それだけは理解しておきたかった。
そしてもうひとつ。
また――人と戦うことになる、その事実が、胸の奥に重く残っていた。
昨夜の自分は、
「責任」や「当主」という言葉を前に、何も言えなかった。
けれど、分からないまま前に立つのは、
それこそ“無責任”なのではないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
だから僕は、ノルドを探すことにした。
駐屯地の中を歩き回り、
一番奥の、物音の少ない一室――資料室。
積み上げられた書類と地図。
薄暗い灯りの下で、机に向かい、黙々と記録をまとめている男がいた。
「……ノルドさん」
声をかけると、彼はすぐに顔を上げた。
「ああ、アーシェ様。お早いですね」
その声音は穏やかだったが、
どこか“来ると分かっていた”ようにも聞こえた。
僕は一歩、机に近づく。
「すみません。あの……」
言葉を選びながら、正直に続けた。
「罪の牙のこと、
それから……今回の作戦のこと。
もう少し、詳しく知りたくて」
ノルドは、わずかに目を細めた。
叱るでもなく、驚くでもない。
まるで――いずれ、この問いは来ると分かっていたかのように。
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……そうですね」
一呼吸置いてから、静かに言葉を選ぶ。
「まず前提として、
今この国には――」
ノルドは机の端に置かれた簡易地図を指で押さえた。
「皇位継承の可能性を持つ王族が、三人います」
淡々とした口調だったが、
その一言で空気が変わった。
「ご存知かと思いますが――」
彼は僕を一度だけ見て、続ける。
「我々、アルヴェイン家は、
その中でも第四王女を推挙しています」
その言葉は、事実の説明に過ぎないはずだった。
けれど――
胸の奥で、何かが静かに軋むのを感じた。
ノルドは、さらに続ける。
「ですが――」
ノルドは、そこで一度言葉を切った。
意味を測るような、わずかな間。
「この三人の王族とは別に……
かつて、最も次期国王に近いと目されていた方がいました」
指先が、地図の中央付近で止まる。
「第二王子殿下です」
その名を出す声は、低く、抑えられていた。
「……ある事件で、第二王子殿下は亡くなられました」
“亡くなられた”。
その言い方には、
事故とも、病とも、断定しない余白があった。
ノルドは、視線を机の上から外し、静かに続ける。
「公式には、そう扱われています」
その一言で、
“事件”という言葉の重さが、はっきりと輪郭を持った。
「アルヴェイン本家も含め、
我々は――元来、第二王子殿下を推挙しておりました」
ノルドの声が、静かな室内に落ちた。
「《罪の牙》は、その第二王子派の残党が、
組織したとされている集団です」
一拍置き、彼は続ける。
「彼らは、殿下を失った“罪”をよりどころに、
少しずつ勢力を拡大していきました」
罪、という言葉が、やけに重く響く。
「そして――彼らにとって、アルヴェインは」
そこで、ノルドはわずかに言葉を選んだ。
「……彼らにとって、アルヴェインは
“裏切り者”なのです」
静かな断言だった。
そして――
そのまま、視線をこちらへ向ける。
「三年後の儀を、安全に遂行するためにも」
一拍。
「《罪の牙》の力を削ぐことは、
アルヴェインにとって――極めて重要な意味を持ちます」
それは命令ではなかった。
だが、逃げ道のない現実の提示だった。
ノルドは、それ以上の説明をせず、
机の脇に積まれていた一冊の本を、静かに指さした。
意図は――分からなかった。
けれど、その装丁を見た瞬間、
胸の奥が、わずかに沈む。
――『ネファル神話』
昔、ただ一度だけ読んだことがあった。
灰の神。
責任と罪を司る神。
そして――
その使いとされる、灰狼。
民を導く守護者としての責を負う存在。
同時に、罪を嗅ぎ分け、罰を与える処刑者。
神話の中で、灰狼は常に
二つの顔を持っていた。
「他にも何か、気になっておられることはありますか?」
ノルドは、変わらぬ穏やかさで言った。
僕は、少しだけ言葉を選んでから口を開く。
「……王宮付きの魔導士についてです。
心の研究で名を知られた人物がいると、聞きました」
ノルドの手が、わずかに止まった。
視線は書類の上に落とされたまま。
だが、空気が一瞬だけ変わったのを、僕は感じた。
「名は……ルーメン・パリンプセスト。
その人物について、教えていただきたい」
その名は――
イレナから聞いていたものだった。
「……そうですね」
ノルドは、ほんのわずかに間を置いてから続けた。
「国王直属の魔導士です。
ですが――滅多に、公の場には姿を現しません」
淡々とした声だった。
「お会いするのは、難しいでしょう」
それだけを告げて、
ノルドはそれ以上、何も言わなかった。
僕は、その人物に――
どうしても、会わなければならなかった。
今の僕に選べる道は、ひとつしかない。
アルヴェインとして、
その責任を引き受けながら、進んでいくことだけだった。
◇
時間は過ぎ、
僕はノルドと共に、
会議室のような一室へ向かった。
扉を開けると、すでに皆が集まっていた。
その中に――
白いローブに身を包んだエルミナの姿があった。
姉は、僕より六つ年上のはずだ。
けれど、そこに幼さはもうなかった。
この作戦の責任者として立つその姿に、
何の違和感もなかった。
「ノルドさん。斥候からの連絡はありましたか?」
姉の声が、室内に静かに響いた。
「いえ。カフの森の状況に変化はありません」
ノルドは地図に視線を落としたまま続ける。
「敵兵は、およそ百名。
それに――」
そこで、わずかに言葉を区切った。
「第二王子殿下の騎士団副団長であった
** クリオ・ヴァルグレイヴ**が、確認されています。
かなりの手練れです」
同じ名前。
それだけのはずなのに、
なぜか、その音が耳に残った。
けれど――
今は考えるべきじゃない。
僕は、そう自分に言い聞かせた。
しかし、こちらの人数はどう見ても二十人ほどしかいなかった。
相手が素人ではないことは、僕の目にも明らかだ。
無謀な作戦ではないのか――
一瞬、そんな考えがよぎる。
だが。
横に立つ姉を見て、
なぜか、その疑念はすぐに消えた。
僕は、あの蒼の旅で少しだけ世界を見た。
だからこそ、
九年間を共に過ごしてきたこの姉が、
どれほどの魔導士なのかを、理解してしまったのだ。
この程度の戦力差など――
きっと、問題にすらならないのだろう。
「エルミナ様、騎士はお付けにならなくてよろしいのでしょうか?」
ノルドの声が、室内に静かに響いた。
「そうね……ミリアさんにお願いしてもよろしいかしら?」
姉がそう言うと、
ミリアは一瞬だけ背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「光栄です」
その姿を見て、僕は理解した。
父の隊に属する戦士であっても――
エルミナの騎士を務めることは、
すでに“選ばれた者”の証なのだと。
「アーシェにも――一人、付いてあげてくださいますか?」
エルミナの声が静かに響いた。
その瞬間だった。
「は、はいっ!」
若い兵士が、思わずといった様子で声を上げた。
周囲の視線が、一斉に彼へ集まる。
エルミナは、品定めをするようにその男を見た。
沈黙。
重たい視線が、彼の全身をなぞる。
「……では、お願いするわ」
そう告げてから、静かに問いかける。
「名は?」
「……シグ・ラウフェンです」
若い兵士は一歩前へ出て、胸に拳を当てた。
声に震えはない。
その視線は真っ直ぐで――僕ではなく、エルミナを見据えていた。
「未熟ではありますが、
任を全うする覚悟はあります」
一瞬の静寂。
「――いいでしょう」
エルミナの声が、室内に静かに響いた。
「あなたには、弟を預けます」
その言葉に、わずかに空気が張り詰める。
「次期当主である この者 。
その意味に――責を置いて、努めなさい」
命令ではなかった。
だが、拒否も許されない言葉だった。
シグは僕の横へ進み出て、一礼した。
その所作は丁寧で、隙もない。
けれど――
どこか、視線が僕を通り越しているように感じた。
僕を“見ていない”というより、
最初から、別の場所を見据えているような――そんな違和感だった。
◇
その後、僕たちはポルトを後にした。
三台の馬車と、十五の騎兵。
港町を抜け、隊列は東の森へ向けて静かに進軍を開始した。
潮の匂いは次第に薄れ、
代わりに、湿った土と木々の匂いが鼻を刺す。
僕は、シグと並んで馬車に揺られていた。
車輪の軋む音と、馬の足音だけが続く沈黙。
その沈黙を、シグが唐突に破った。
「なあ」
彼は前を見たまま、軽い調子で言った。
「エルミナ様って、この冬の後期で十六だろ?」
一拍。
「正騎士は、もう決まってるのか?」
僕ですら知っている、常識だった。
この世界の魔導士は、十六で騎士を従える。
その中でも、主に最も近く仕える者――
直属の騎士を正騎士と呼ぶ。
エルミナほどの魔導士となれば、
ほどなくして騎士団を持つことになるだろう。
だから――
すぐに分かった。
この男が、何を見ているのか。
そして、
どの席を狙っているのかを。
僕は、ふと思い出した。
シアナは、まだ小さかった頃、よく口にしていた。
――エルミナの正騎士になるんだ、と。
そうして、二人でアルヴェインを守るのだ、と。
あれは、夢だったのか。
それとも――今も変わらない願いなのだろうか。
「……そうですね」
僕は、ほんの一瞬だけ間を置いてから続けた
「決めていると思います」
シグは一瞬だけ、残念そうな顔を見せた。
だが、その感情はすぐに切り替えられる。
「白炎の魔導士。あれほどの方なら、
正騎士の席も――十や二十はあるだろ」
その言葉を聞いて、確信した。
やはり、この男は――
僕を見ていなかった。
だが、僕は
そのどこか無責任な男に、特別な感情を抱かなかった。
その姿は、前世で――
嫌というほど見てきた光景だった。




