蒼の残響
夜になっていた。
雨は、もう上がっていた。
僕たちは――
“翼”と呼ばれる存在に導かれ、
ドレイナ近郊の拠点まで運ばれていた。
結局、
彼らが何者だったのかは、分からないままだ。
僕らを地に下ろし、
何も告げず、去っていった。
拠点には、すでに塔から救われた人々も辿り着いていた。
ロルとベルとの再会。
二人はこの遠征の結末――
そして、ダルカンが下した決断を悟り、声を殺して涙していた。
ここは、まだ敵の領域だ。
蒼聖騎士の追手が来るのも、時間の問題。
僕らの走竜も、すでに回収されていた。
その再会を喜ぶ暇すらなく――
僕たちは、夜の森へと踏み出した。
◇
蒼聖騎士のほとんどは、蒼の日の儀のために首都ドレイナへ集結していた。
そのおかげで、街道は思っていたよりも安全だった。
僕たちは、何日もかけて東へ進んだ。
庵の人々は、遊牧民のように各地を移動して暮らしているらしい。
リメア泉の近くにあった隠れ村も、数ある拠点のひとつに過ぎなかった。
北の国には、さらに大きな拠点があるという。
「もう少し東へ進んだら、私たちは北の拠点へ向かう」
アイラは、そう説明してくれた。
◇
さらに、数日が過ぎた。
あれからも、ユーナの様子は変わらなかった。
ベルが、ほとんど付きっきりで世話をしてくれていた。
やがて、街道は二股に分かれた。
東へ向かう道と、北へ向かう道。
ここが、蒼の庵の人々との別れだった。
「アーシェ」
アイラが、静かに声をかけてくる。
「ダルカンのことは……残念だった。
ユーナのことは、頼んだ」
一瞬、言葉を探すように間を置いてから、彼女は続けた。
「世界は広い。
たが、人生も長い。
生きていれば……また、会える」
そう言って、蒼い髪を風に揺らし、
彼女は北へ続く道へ歩き出した。
百人ほどの庵の人々が、それに続く。
振り返る者はいなかった。
やがて、その背中が街道の先に溶けていく。
残されたのは――
僕と、クリオ、ユーナ、ベル、ロル。
五人だけだった。
僕たちは、東へ続く道を進み出した。
◇
別れ際、アイラは僕たちに馬車を一台、残してくれた。
ユーナがこの状態では、
走竜を扱える大人は、もはやクリオ一人だけだった。
そのため、
二匹の走竜に馬車を引かせ、
そのうち一匹にクリオが騎乗する形で――
僕たちは旅を続けることになった。
走竜は、本来とても気性が荒い。
馬車を引かせるなど、普通なら不可能らしい。
だが、この二匹は違った。
竜は、ダルカンに強い敬意を払っていた。
そして――
その敬意の“残り香”のようなものが、
今も、僕たちに向けられているのだと分かった。
走竜たちは驚くほど大人しく、
何も言わず、静かに馬車を引いてくれていた。
馬車の中は、静かだった。
ほとんど会話はない。
けれど――
ベルは、常にユーナの様子を気にかけていた。
ロルは休憩や食事のたびに、黙って剣を振り続けていた。
それぞれが、それぞれのやり方で
失われたものと向き合っていたのだと思う。
そんな旅が、一ヶ月ほど続いた。
やがて――
遠くから、川のせせらぎが聞こえてきた。
胸の奥が、わずかに緩む。
とても、懐かしい音だった。
そして――
視界の先に、カナルスの東門が見えてきた。
◇
カナルスには、昼頃に着いた。
馬車を止め、走竜を繋ぎ、
僕たちはそのまま街へ入る。
クリオがユーナを背負い、先頭を歩く。
僕とロル、ベルがその後ろに続いた。
屋台では、アズリンが売られていた。
甘い香りが風に乗って流れてくる。
――懐かしい。
けれど、
その懐かしさを、素直に受け取れる状況じゃなかった。
街は、何も変わっていない。
人の声も、石畳も、昼の光も。
変わったのは――
僕たちのほうだった。
裏通りに差し掛かる。
いつもなら、フェンが顔を出してきそうな場所。
……だが、誰もいない。
胸の奥で、小さな違和感が鳴った。
そして、辿り着く。
平凡な一軒家のような建物。
目立たず、飾り気もない。
――イレナの家。
クリオは、何も言わずに扉を開けた。
軋む音とともに、扉が開く。
彼はそのまま中へ入り、
僕たち三人も、無言でそれに続いた。
「ばぁちゃん、戻ったぜ」
クリオの声が、家の中に響いた。
返事はない。
しばらくして――
奥の方から、ゆっくりと足音が近づいてきた。
イレナが、姿を現す。
まず、ロルとベル。
次に、クリオの背のユーナ。
それから――
僕の左手に残った傷。
そして、
“いるはずのもの”が、いないこと。
イレナは、それらを一つひとつ確かめるように見てから、
何も問わず、ただ一言だけ――
「……おかえり」
それは、
すべてを理解した上での言葉だった。
◇
僕たちは、家の奥へ進んだ。
クリオはイレナに、塔で起きたことを一つ一つ説明していった。
雨のこと、儀式のこと、そして――ダルカンの選択。
その話を聞いたときのイレナの表情を、僕は忘れないと思う。
声も、言葉もない。ただ、深く、理解してしまった顔だった。
ユーナの状態が「崩心症」だと知り、
しかも――イレナにも治せないと聞いたとき、
胸の奥が、静かに崩れ落ちた。
けれど、イレナは続けた。
新律派という集団が関わっていること。
そして――必ず、治療法はあるということを。
その言葉を聞いた瞬間、
僕の中で、ひとつの記憶が蘇った。
カロニアで見た、
“未来の僕”が残した文字。
『家族を、仲間を、救え。
魔術を磨け。
そして――医師として果たせなかったことを、果たせ』
さらに重なるように、
ダルカンの最後の言葉が胸に響く。
『お前は―選べ』
その瞬間、迷いは消えた。
僕は、決めた。
ユーナを治す。
崩心症の治療法を、必ず見つける。
それが――
僕が、この世界で選んだ道だった。
◇
ロルとベルは、イレナさんのもとで世話になることになった。
そして僕は――
ヴァルデンへ帰ることを決めた。
イレナの話によれば、
崩心症とは――
人の心を構成する六つの要素、その均衡が大きく崩れることで発症する状態らしい。
そして、新律派という集団は、
その崩壊を人為的に引き起こす技術を持っているという。
おそらくユーナは、
蒼の儀式のために“哀しみ”を過剰に調整された。
現時点では、治療法はまだ見えていない。
だが、イレナは言った。
セレストリア王宮付きの魔導士の中に、
心の研究で名を知られた人物がいるという。
イレナは、王家に伝手があり、
その魔導士へ連絡を試みてくれているらしい。
だが――
二人の間には、過去にかなり深い確執があったという。
理由は聞かなかった。
ただ、その口ぶりから察するに、
積極的な助力は期待できない――それが現実だった。
その話をイレナが語ったとき、
クリオが、ふと視線を外した。
まるで、遠い場所を見ているように。
その意味を、
今の僕は、まだ理解できなかった。
答えへ至る経路は、まだ霧の向こうにあった。
けれど――
僕には、そこへ至る道があった。
三年後。
僕はアルヴェイン家の長男として、
父と共に「王位継承承認の儀」に参加することが決まっている。
それは――
その魔導士と、正面から向き合える
唯一にして、確かな機会だった。
◇
二週間ほど、この川沿いの街で過ごした。
穏やかな日常だった。
そして――
僕が旅立つと決めていた日が、やってきた。
フェンが、セレストリアまで僕を送ってくれることになっていた。
カナルスに戻ってから、
彼とはまだ一度も顔を合わせていなかった。
朝食を終えたころ、
フェンがやってきた。
何も言わず、ただ――
僕の肩を、ぽんと叩く。
大きく、硬い手だった。
けれど、そこには確かな温もりがあった。
顔を上げると、フェンは
まるで――
「全部、分かってる」
そう言っているような顔をしていた。
◇
準備は、もうすべて終えていた。
イレナの家の入り口には――
皆が、見送りに集まってくれていた。
クリオ。
ロル。
ベル。
イレナ。
そして――ユーナ。
それぞれが、それぞれのやり方で、
言葉や、視線や、沈黙をくれた。
僕は、それに応えるように――
一人ひとりの顔を、順に見た。
「……時間は、かかるかもしれません」
言葉を選びながら、僕は続けた。
「でも――必ず、ユーナさんの治療法を見つけます」
脳裏に浮かんだのは、
あのときのダルカンの背中。
大きくて、無言で、ただ前に立つ背中だった。
「そして、また戻ってきます」
それは約束というより――
すでに選んだ未来を、口にしただけだった。
この世界で。
いや、白井として生きた時間も含めて。
僕には、初めて――
自分で選んだ“目的”があった。
だから――
振り返らなかった。
フェンの背を追い、
僕はその暖かな場所を後にした。
◇
フェンと並んで、カナルスの町を歩いていた。
彼はもう、いつもの調子に戻っていた。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
僕たちは、街の北東にある船着場へ向かっていた。
カナルスのあるリヴァルナとセレストリアは、友好国だ。
だから、運河を越える船も定期的に行き来している。
ほどなく、目的地に着いた。
そこは、大層な港というわけではない。
小ぶりな船がいくつも並び、
人の往来も静かな――そんな場所だった。
「フェンさん……本当に、ありがとうございます。
わざわざ、セレストリアまで送ってもらえるなんて」
そう言うと、フェンは鼻で笑った。
「何言ってんだ。
ダルカンさんは俺の兄貴みたいなもんだったし、
ユーナは――妹みたいなもんだ」
そう言ってから、ぐっと親指で僕を指す。
「ってことはだ。
お前も、俺の弟だろ?」
ガハハハ、と豪快に笑う。
その言葉が、胸の奥にすっと落ちた。
――嬉しかった。
フェンは、停泊している一隻の船を指さした。
「あれだ!」
運河を越えるには十分すぎるほど、
しっかりした造りの船が、そこにあった。
僕たちは迷うことなく乗り込んだ。
◇
しばらくして――
準備を終えた船は、
ゆっくりと岸を離れ始めた。
カナルスの町並みが、
少しずつ遠ざかっていった。
船には、僕たちと船員を含めて、
二十人ほどが乗っていた。
商人らしい者、冒険者風の者、目的も素性もばらばらだった。
誰もが多くを語らず、ただ水音に身を委ねていた。
運河を越えるのに、三十分もかからないと聞いていた。
船の行き先は――
ヴァルデン領南西、ポルト。
僕は、ゆっくりと離れていくカナルスの町並みを見つめていた。
日の光が、眩しかった。
――ひとつの冒険が、終わった。
そして、選んだ道を、歩きはじめた。




