蒼の日 ― 選ばれた夕日
今まで感じたことがないほど、太陽の光が近かった。
それが距離の問題なのか、心的なものなのか――
あるいは、その両方なのかは分からない。
たしかに、そう感じた。
そして、この瞬間。
マナの在り方が、変わった。
凶戦士たちに刺さっていた石から、光が消えた。
次の瞬間、
六体の魔獣の身体は支えを失ったように崩れ、
やがて、動かなくなった。
「……そうですか。儀式は、失敗しましたか」
ザイアスは、どこか哀しげな表情で――
まるで最後の一粒の雨が落ちるように、そう呟いた。
次の瞬間。
ダルカンの剣閃が、ザイアスを切り裂いた。
「……本当に、それは貴方たちの“勝利”なのでしょうか?」
倒れ伏したザイアスは、不気味な笑みを浮かべたまま、
ユーナの方へ視線を向けて言い放った。
次の瞬間、
ダルカンが、迷いなくとどめを刺した。
僕は――目を逸らした。
結局、僕は人の命を奪わずに終えた。
何かを先延ばしにしてしまったような感覚。
そして、責任から逃げたという感覚。
その二つが、
空っぽになったリメアの奥で、鈍く響いていた。
僕は、地面と左手を貫いていた短剣を、再び右手で握った。
もう、輝きはない。
九年間、溜め込まれていたはずの魔力が――
ほとんど空になっていることが、はっきりと分かった。
その剣を、ゆっくりと引き抜く。
一度目のときと同じように――
痛みは、なかった。
傷は一瞬で塞がる。
けれど、左手には確かに、
消えない“跡”だけが残っていた。
◇
クリオが、祭壇の中央――ユーナのもとへ向かった。
ザイアスが死んだことで、
彼女を縛っていた拘束は解けたようだった。
ユーナは、クリオの背に抱えられ、
僕とダルカンのもとへ運ばれてくる。
「ユーナさん」
呼びかけても、反応はない。
ブーケの下には、確かに“いつものユーナの顔”があった。
けれど、その瞳は――
どこか、別の世界を見ているようだった。
「崩心症だ」
ダルカンが、静かにそう告げた。
僕は、その言葉の意味を理解できなかった。
けれど――
ただ“深刻な状態”なのだということだけは、分かった。
「イレナさんのところへ戻る」
それ以上の説明はなかった。
その声に従い、
僕たちは、静まり返った塔を降り始めた。
◇
八十階まで、降りてきていた。
フォーネの像の前を、静かに通り過ぎる。
その瞬間――
再び、雨が塔を叩いていることに気づいた。
落ちた雲よりも、
僕たちはもう“下”に戻ってきたのだ。
石壁を打つ雨音は、
さきほどまでの暴風とは違う。
それでも――
それはやはり、誰かの哀しみのように響いていた。
僕は、魔響区の重さを、はっきりと感じながら塔をくだった。
◇
ついに、四十四階まで降りてきた。
階段の小部屋の扉を開けると、
バルコニーから、雨音が直接耳に響いてきた
「こっちだ」
ダルカンに促され、僕たちはバルコニーへ向かった。
すぐに、見覚えのある姿が目に入った。
「……みんな、よく無事で」
声の主は、アイラと――村の戦士が三人。
僕たちが合流すると、
アイラは一瞬だけユーナの顔を見て、言葉を失う。
そして、何も言わず視線を伏せた。
「……もう、翼が来るはず」
その声が、雨音に溶けかけた――次の瞬間。
「……間に合ったか」
どこか聞き覚えのある声が、背後から響いた。
振り返ると、そこには五つの人影があった。
黒い鳥の紋章。
カナルスのギルドで見た――黒鳥。
声の主は、虎のような獣人だった。
フェンと小競り合いになった、あの女。
あのときの気配も、声も、忘れようがない。
(……なぜ、ここに?)
胸に浮かんだのは、ただその疑問だけだった。
「ダルカンさん。久しぶりですね」
今度は、別の声。
剣士の風貌をした若者が、一歩前に出る。
落ち着いた声だった。
――マルコ。
名前だけは、はっきり覚えていた。
「そうか……やはり、お前たちだったか。
ドロテアから仕事を受けている、という噂は聞いていた」
ダルカンが、低く返す。
その声音に感情はない。
だが、“警戒”だけははっきりと滲んでいた。
「いやあ、あの国――金払いが良くてね」
マルコは肩をすくめ、軽い調子で続ける。
「それに……見たところ、
ダルカンさんたち、満身創痍じゃないですか」
言葉とは裏腹に、視線は鋭い。
戦場を一瞬で見切る、冒険者の目だった。
「ジンさん。
俺はパスでいいっすよ。こんな死にかけの連中、斬っても後味悪いし」
マルコはそう言って、中央に立つ長身の男へ視線を投げた。
――ジン。
黒鳥の団長。
あのときギルドで見た、
場の空気を一瞬で掌握していた男だ。
ジンは短く、頷いただけだった。
「……そういうことだ」
淡々とした声が、雨音を切り裂く。
「蒼の庵。
ならびに――残響者」
その言葉に、空気が凍った。
「討伐対象として、ここで死んでもらう」
それは――宣告だった。
次の瞬間、
マルコを除いた四人が、同時に前へ出る。
足音が重なり、
刃が、静かに抜かれた。
そのとき――
「アーシェ」
低く、確かな声。
「お前は、選べ。
選べなかった俺の代わりに」
振り返らなかった。
顔も、もう見えなかった。
僕は、何も返せなかった。
そしてそれが、
ダルカンが僕に残した、最後の言葉だった。
次の瞬間――
ダルカンは一歩、前へ出る。
剣が振るわれた。
黒鳥とダルカン。
その間に、裂かれた空間が走る。
僕たちは――
避けられたその断絶の向こう側へ、切り離された。
◇
「ダルカンさん!!
ダルカンさん!!」
叫びは、裂けた空間に吸い込まれるように消えた。
断絶の向こう側で、
ジンとダルカンが刃を交えている。
その姿を見た瞬間、理解してしまった。
――あの人は、
僕たちを逃がすために、ここで死ぬつもりだ。
クリオが、僕の肩を強く掴んだ。
「アーシェ、行くぞ」
僕は、その手を振り払った。
「……クリオさんは、
ダルカンさんを見捨てるんですか?」
自分でも驚くほど、強い言葉だった。
一瞬、クリオの手が止まる。
けれど――
「……それが、ダルカンさんの選択だ」
その声は、怒りでも叱責でもなく、
ひどく静かで、優しかった。
「ここで全員が戻れば、全滅だ」
言葉は短い。
だが、逃げ場のない“現実”だった。
僕は唇を噛む。
裂け目の向こうが、わずかに歪んだ。
黒鳥の魔導士らしき女が、
冷静な所作で、裂け目を“縫う”ように修復している。
空間が、少しずつ閉じていく。
「――来たぞ」
アイラの声が響いた。
反射的に外を見る。
雨の帳の向こう、テラスに――
四体のワイバーンが降り立っていた。
その背には、白銀の鎧をまとった戦士たち。
濡れた翼を畳み、
まるで最初からここに来ると決まっていたかのように、
静かに、確かに待機している。
裂け目は、なおも修復され続けていた。
その縁で――
黒鳥の戦士らしき男が、一人、膝をついている。
だが、止まらない。
裂け目の向こうでは、
ダルカンとジンの戦いが、今も続いていた。
刃が交わり、空間が歪む。
どちらも、一歩も退かない。
「……ダルカンさん」
思わず、声が漏れた。
そのとき――
視界の端に、クリオの背に抱えられたユーナが映った。
彼女は、こちらを見ていない。
まっすぐ――
裂け目の向こう、ダルカンを見ていた。
そして、次の瞬間。
ユーナが、僕の手を掴んだ。
力は弱い。
けれど、迷いのない動きだった。
僕の手を、確かに“選ぶ方向”へ引く。
テラスの方へ。
――逃げろ、と。
何も言わずに。
それが、
ダルカンの選択であり、
ユーナの選択であり、
そして――僕に突きつけられた選択だった。
僕は、進んだ。
テラスの方へ。
雨は、まだ降っていた。
ワイバーン――
旅立ちの日、空の彼方に見上げた、あの存在が、
今は目の前にいた。
村の戦士たちが、
アイラが、
そしてユーナが、次々とワイバーンへと乗り込んでいく。
僕はテラスの縁に立ち、
消えかけている裂け目の向こうを、もう一度だけ見た。
マルコは動かず、ただ傍観している。
三人はすでに倒れ、
残っているのは――ジンと、ダルカン。
一騎打ちだった。
刃が交わるたび、空間が歪む。
その姿を見て、思い出す。
ダルカンの強さを。
(……あの人なら)
(きっと、無事に帰ってくる)
そんな考えが、胸をよぎった――そのとき。
クリオが、もう一度、僕の肩を叩いた。
何も言わずに。
それだけで、十分だった。
僕は、白銀の鎧を纏った戦士の後ろに乗り、
ワイバーンに跨る。
全員が、乗った。
飛び立つ準備が整う。
消えかけの裂け目の向こうで、
ジンとダルカンの剣撃が、最後に交錯した。
そして――
ワイバーンが、翼を打ち、空へ出た。
その瞬間。
裂け目が、閉じた。
ジンの剣が、
ダルカンの身体を――切り裂いた。
息が、止まった。
あの瞬間、
僕は何を考えていたのだろう。
恐怖か。
後悔か。
それとも――祈りか。
ただ一つだけ、確かなことがある。
あの光景は、
きっと、ずっと忘れられない。
どれだけ遠くへ飛び立っても。
雲は、静かに消えていった。
空は晴れ、
その隙間から、夕日が差し込む。
赤い光が、塔を照らし、
雨の痕を照らし、
そして――僕の手の傷を照らしていた。
そのとき、僕は理解していた。
これは終わりではない。
逃げでも、偶然でもない。
僕は――
ひとつの選択をしたのだ。
それが正しかったのかどうかは、
まだ分からない。
けれど、
選ばなかったまま立ち尽くすことだけは、
もうしなかった。
蒼の日は、
確かに、そうして暮れていった。




