蒼の日 ― 蒼の巫女 ―
僕たちは再び、乱れた空気の満ちる螺旋階段を登っていた。
蒼光が壁に揺らぎ、靴音だけが小さく反響する。
その中で、クリオが何気ない口調で口を開いた。
「ダルカンさん。
やっぱりさっきの吸魔石……目の奴らが言ってた通りだ。
教団と“新律派”、繋がってるぜ。」
僕には意味が分からない単語がいくつもあった。
けれど、ダルカンはまるで当然の報告を受けたかのように頷いた。
「ああ。
脱出には“翼”が来る。
そのときに情報を整理する。」
クリオも深く考えず返した。
「了解。じゃあ、上で片付けてからだな。」
二人の声は落ち着いていて、
まるで“僕の知らない世界”で交わされる会話のようだった。
(……教団? 新律派? “翼”?)
僕にはそのどれも意味が分からなかった。
ただひとつ分かったのは――
ダルカンとクリオは、僕の想像しているよりもずっと大きな組織に関わっている。
協力者がいるだけではない。
情報網、作戦、潜入、救出――
彼らの行動が、すべてどこかの“仕組み”の上で動いていること。
僕は小さく息を呑んだ。
◇
その後も、僕たちはただ黙って階段を登り続けた。
五十階。
六十階。
七十階――。
階層が変わるごとに螺旋階段の位置は微妙にずれ、
広いフロアを斜めに横断してから別の階段へ向かわなければならなかった。
そのたびに――
殉死者の群れが、蒼い霧の奥から湧くように現れた。
蒼鎧をまとった兵。
フォーネ教団の護衛隊。
中には、かつて抵抗したレジスタンスのような装束の者までいる。
この塔で命を奪われ、
“悲しみの魔素”に囚われたまま殉死者となった者たち。
その無数の手が、僕たちへ伸びてきた。
だが――
ダルカンは、
まるでただ歩いているだけのような静かな動作で首を落とし。
クリオは、影のように敵の背後へ滑り込み、急所だけを正確に穿つ。
殉死者の群れは、次々と崩れ落ちていった。
僕は息を呑むしかない。
魔響区――
マナの乱れが、肌を殴るように伝わってくる。
空気が押し返してくるような圧力。
ただ呼吸するだけで胸が軋む。
普通の人間なら、動くどころではないはずだ。
けれど――
ダルカンも、クリオも、まったく影響を受けていない。
(やはり……残響者や“使徒”には、魔響の乱れは小さいのだろう)
もはやここは人の領域ではないのに、
二人はまるで塔の空気そのものを、自分の味方にしているようだった。
七十階を越えるころには、
息遣いも鼓動も蒼い霧に飲み込まれそうなほど重たくなっていた。
足が石に吸い付くように重い。
魔力の流れが皮膚の裏でざらざらと軋んでいる。
胸の奥のリメアまでも、かすかに軋む。
けれど、二人の背中だけは――
迷いなく、まっすぐ“頂上”へ向かっていた。
ダルカンの背中は揺るがず、
クリオの影はぶれることなく前へ進み続ける。
(……僕も、行かなきゃ)
ここまで来たのは偶然じゃない。
僕が選んだ道だ。
ユーナが待つ、塔の頂へ。
僕はその背を追って、一段、一段を踏みしめた。
◇
八十階にたどり着いた。
ここもマナは乱れていたが――
それまでの階層とは、明らかに“質”が違った。
空気が静かすぎる。
殉死者の気配も、血の匂いも、まったくしない。
ただ、冷たく重たい“圧”だけがフロア全体に満ちていた。
「……ここだけ、空気が違う」
思わず呟くと、クリオも小さく頷いた。
部屋の中心には――
巨大な石像が一つ、ぽつりと立っていた。
「あれが、『フォーネ』の姿だとよ」
クリオが僕の横で言う。
「おれはネフィルしか見たことねーけどな。
……神ってのは、大体ああいう感じらしい」
石像は、前世の神話に出てくるような“女神”の姿に見えた。
しなやかな腕。
髪の流れを模した彫刻。
胸元には祈りの形を象った紋様。
けれど――
顔だけは、見えない。
石像の顔の部分には
石で作られた“ブーケ”のようなものが覆うように抱えられていた。
まるで、意図的に“女神の顔を隠している”ように。
ティルザと同じ――
“神の顔は見えない”
だが。
なぜか僕の背筋は、ティルザのときとは違う震え方をしていた。
暖かさでも、導かれるような感覚でもない。
もっと――
底のほうで冷たく沈むような、息が詰まる震え。
これが、哀しみの神フォーネ。
顔の見えない石像は微動だにしないはずなのに、
どこか“こちらを見ている”気配だけが、静かに背中へ刺さる。
その視線を振り払うように僕が瞬きをしたそのとき――
「行くぞ」
ダルカンの声が、湿ったフロアに低く響いた。
クリオが無言でうなずき、
僕も思わず石像から目をそらす。
一歩離れるたびに、胸の奥に絡みついていた冷たい糸がほどけていく。
僕たちは、フォーネの像に背を向け、
次の階段へと静かに足を踏み出した。
その瞬間――
石像のないはずの“視線”が、
ほんの一拍だけ僕の背をなぞった気がした。
だが振り返らず、僕は階段を上った。
◇
再び、螺旋階段を登っていた。
この塔に、僕たちはどれほどいるのだろう。
早朝に突入したはずだ。
けれど――塔の内部では
時間の気配そのものが消えていた。
いまは昼過ぎなのだろうか?
それとももう、夕刻に近いのか。
ただひとつ確かなのは――
儀式は“夕刻”に最も雨が強まり、その瞬間に完遂する。
という事実だけ。
見えない塔の外壁を叩きつける雨音が、
じわじわと強くなっているのが分かった。
(……時間が、迫っている)
階を上がるごとに、空気のざらつきも増していく。
まるで塔全体が、胸の奥でうずくるような
**“焦燥の鼓動”**を刻んでいるみたいだった。
◇
44階と似た、小さな部屋に辿り着いた。
だが――
そこに満ちる雨音の“圧”が違った。
壁を震わせ、床を打ち抜き、
まるでこの部屋ごと押し流そうとするような轟音。
(……頂上だ)
ダルカンが前に立ち、柄に手を添える。
そして、ゆっくりと――
その小部屋の扉へ手を伸ばした。
ギ……ィ……
扉がわずかに開いた瞬間、
爆風のような雨が吹き込み、僕の体を押し戻した。
「っ……!」
視界が、一気に白く染まる。
いや、白ではない。
雨だ。
想像を絶する密度の雨。
まっすぐ降っていない。
横殴りですらない。
“渦”になって落ちてくる。
空も地面も境界がなく、
世界そのものが暴風雨の塊みたいだった。
風の唸りと雨の轟音が絡まり、
耳が痛いほどだった。
(こんな……ものが外で?)
外気が肌を刺す。
魔力の泡立つ感覚が、喉の奥まで入り込んでくる。
視界にはまだ何も見えない。
儀式場も、敵も、ユーナの姿も。
ただ――
“雨の壁”だけが、世界を塗りつぶしていた。
ダルカンは一歩、外へ踏み出す。
「気を抜くな。ここからが本番だ」
クリオが短く頷き、後に続く。
僕も、その背中を追い――
暴風雨の渦の中へ足を踏み入れた。
◇
僕らは――方角こそ分からなかったが、
どうやら屋上の“端”に出たようだった。
暴風雨が横殴りに吹き付け、
視界は霧のような白い雨粒でほとんど覆われている。
ただ、足場だけは石造りで、
確かに“屋上”だと分かった。
ダルカンが前に立ち、
僕とクリオはその背を追う。
中央へ向かって歩くにつれ、
雨の幕の奥に、何かが“形”として浮かび上がっていく。
そのとき――
「……ありえない」
いつも決して揺るがないダルカンの声に、
“戸惑い”が混じっていた。
あのダルカンが、だ。
思わず息を呑む。
僕はダルカンの視線の先へ目を向けた。
暴風雨のただ中――
そこだけ雨が避けられたように、空白の“円”があった。
その中心に――
蒼い衣をまとい、
胸元には“ブーケ”にも似た飾りをつけた女性が立っていた。
あの石像と同じ……
女神像と同じ意匠のブーケ。
だけど。
(――違う)
女神ではない。
僕は、知っている。
あの肩のラインも、細い腕も、
風に揺れるたびにわずかに内向きになる立ち方も。
そして何より――
雨に濡れないその髪が、
僕の知っている“あの色”をしていた。
ユーナだった。
暴風雨のただ中にあるはずなのに、
彼女の周囲だけは静まり返り、
まるで儀式の中心へと導くために縫い取られた“空白の円”のようだった。
まるで儀式の中心を担う――
“巫女”のような姿で、
ユーナが、そこにいた。
「この世界に――ありえないことなんてありませんよ、ダルカンさん」
雨音を裂いて、その声が響いた。
聞き覚えのある声。
背筋が一瞬で凍りつく。
ゆっくりと祭壇の前の影が形を取る。
ザイアス・ロウヴェル。
祭壇へと続く石段の下――
まるで“舞台の幕が開いた”かのように、彼が立っていた。
その左右には六人の蒼聖騎士。
激しい雨を真正面から浴びているのに、
彼だけは濡れているのかどうか判別できないほど、
異様なほど静かで、冷たい存在感を放っていた。
僕たちが祭壇へ向けて、ほんの数歩だけ距離を詰めた、そのとき――
ザイアスが、まるで旧友にでも話しかけるように、不気味な笑みを浮かべた。
「私はね……おしゃべりが好きでして。
少しばかり、お話をさせてくださいよ」
その声音は礼儀正しい。
けれど、言葉の奥に潜む“ねっとりとした狂気”が、背筋を冷やした。
ダルカンとクリオが同時にわずかに体勢を低くする。
警戒しているのが、空気越しに伝わる。
ザイアスは続けた。
「ユーナさんはね……フォーネ様も、涙王も、大層お気に入りでして」
僕の喉が、ひゅ、と細く鳴った。
「お連れしたら、それはもうお喜びになりましてね。
“もう一度、巫女をやってもらおう”と」
雨が激しさを増す。
「運よく、まだ十八でしたし……
巫女としての“意味”が、十分残っていたのですよ」
ザイアスの視線が、雨の幕越しにユーナへ向く。
そこにあるのは慈しみではない。
所有物を見る目だった。
「ですからね、ダルカンさん」
ザイアスはゆっくりとこちらへ向き直り――微笑む。
「“ありえない”なんてことは、何ひとつないのですよ」
その笑みは、暴風雨より冷たかった。
「それに……巫女の役割って知ってますか?」
ザイアスは雨に濡れた髪を払うように、楽しげに首を傾げた。
「ただ、“哀しみ”をその目に映せばいいんですよ」
空気が、一瞬だけ止まった気がした。
その言葉を聞いた瞬間、僕は――反射的にユーナへ視線を向けた。
雨に濡れない位置に立たされたユーナ。
ブーケで顔は隠れている。
だけど、肩がわずかに震えているのが分かった。
(――ユーナ)
よく見ると、手足には細い金具のようなものがつけられていた。
装飾ではない。
拘束具だ。
手首と足首につけられた金属の輪には、
蒼い鎖のような魔力の線が繋がっていて、
その鎖は――
後方の柱にまっすぐ伸びていた。
逃れられないように。
哀しみだけを映し続けるように。
「では――ここで、質問です。」
ザイアスが、まるで授業でも始めるかのように
両手を広げて僕へ向き直った。
「この塔が、神によって何のために作られたか……知っていますか?」
雨音が一瞬、遠ざかった気がした。
視線が、僕に向けられている。
答えろ、と言わんばかりに。
横を見ると、
クリオがほんのわずかに首を振り、
鋭い視線で “答えるな” と合図していた。
ザイアスはその様子を、愉快そうに目を細めて見ていた。
「答えなくていいんですよ。
どうせ知らないでしょうし。」
そして――語り始めた。
「昔、この地には……とてつもない洪水があったんですよ」
その声は、雨に混じって静かに響いた。
「村も町も、人も家畜も、大地も……
全部流されて、すべてが同じ“色”になった。」
ザイアスは手を空へ向ける。
雨粒がその掌で砕けた。
「その哀しい世界を……
一望するために――」
ザイアスの口元が、ゆっくりと、不気味に歪む。
「――フォーネ様が、この塔をお造りになったんです。」
ぞくり、と背骨を撫でられたような感覚が走った。
目の前の男は喜んでいた。
本気で、嬉しそうに語っていた。
クリオが、さらに強く合図する。
“会話に乗るな。言葉を与えるな。”
クリオの沈んだ声が、雨より冷たく背筋を刺す。
しかし――ザイアスは、こちらが沈黙していることすら楽しんでいるかのようだった。
「哀しみを天から見るための塔――
なんて優雅で、なんて美しい御心だと思いませんか?」
胸が、ぎゅっと冷たく縮む。
ザイアスは、まるで優しい先生のような声で続けた。
「貴方たちはユーナさんを助けに来たと思っているでしょう?」
ゆっくりと首を傾け、雨を避けるように目元の影が揺れる。
「違いますよ。
今のユーナさんが“最も失いたくない人たち”――
それが、貴方たち三人なんです。」
僕の心臓が、ひとつ跳ねた。
ザイアスの声は低く、濁りなく、狂気だけが整然と並んでいた。
「つまりですね。
貴方たちは“巫女の哀しみを完成させるための贄”として、ここへ導かれた。」
雨脚が強まる。
まるで塔が応えるように、空が鳴った。
「さぁ――」
ザイアスは両手を広げた。
儀式を歓迎するように。
「この哀しみの聖地で。
神話の再現を、始めましょう。」
その瞬間――
六人の蒼聖騎士が、まるで合図されたかのように同時に動いた。
全員が、懐から“濁った吸魔石”を取り出す。
そして――迷いなく。
自らの身体へ、吸魔石を突き刺した。
ズブッ……!
肉が割れる湿った音が、豪雨の唸りよりも大きく響いた。
次の瞬間――
空気が、歪んだ。
蒼光が黒く濁り、
鎧が軋み、
骨格がみしりと変形し、
人の形はゆっくりと失われていく。
ひとり、またひとり。
六つの影が膨張し、裂け、脈打ち、
やがてどれも“人”ではなくなった。
――六体の狂戦士。
そして、その中央。
祭壇の前に立つ男――
蒼哀の魔導士。
雨がさらに強まった。
塔が、低くきしむ。
六体の狂戦士が散開する。
逃げ場はない。
時間もない。
ユーナは目前だ。
そのすべてを遮るように、
ザイアスが一歩、前へ出た。
クリオとダルカンが、同時に動く。
僕は――ただユーナを見ていた。
迷う理由も、立ち止まる理由も、もうない。
――天に最も近いこの塔の頂で。
決戦が、始まった。




