蒼の日 ― 大人の背中 ―
フロアに溜まった雨水の水位が、じわじわと上がっているように感じた。
バルコニーで震える人々へ視線を向ける。
――残された時間は、長くない。
一方では、
クリオが蒼聖騎士たちの包囲を軽やかにすり抜け、
淡々と急所を貫いていく。
もう一方では、
ダルカンとザバの激突が続いていた。
火花と雨水が混じり合い、
二人の影が何度もぶつかっては散る。
その刹那――
ダルカンが押しているように見えた瞬間。
僕は“ありえないもの”を見た。
「……腕が……ある?」
さっき切り落とされたはずのザバの右腕が、
すでに再生していた。
蒼い血を滴らせながらも、
関節は完全に繋がり、
むしろ先ほどより太く、黒い血管が脈打っている。
そのとき――
「アーシェ、見て!」
アイラの声が雨音を裂いた。
振り返ると、アイラがザバの腕に刺さった吸魔石を指していた。
「あれが塔の――悲しみを帯びたマナ、
つまり“魔素”を吸っているの。」
アイラはかすかに息を吐き、続けた。
「この塔そのものが……悲しみの魔素で満ちているのよ。」
(……悲しみの魔素)
雨音の向こうで、ザバの脈打つ血管がぐじゅりと蠢く。
そのたびに空気がざらつき、フロア全体のマナが濁る気がした。
「悲しみには――
後悔や執着……“未練”が宿る。
死んでも消えない“意味”が残るの」
ザバの脈打つ黒い血管が、ぐじゅり、と蠢いた。
「その未練の力が――
あの“逆流の力”となって、生命を無理やり押し戻す。
あの再生の仕組みよ。」
アイラの声には、かすかな震えが混じっていた。
ザバは再び咆哮し、
ダルカンと激しく刃を散らす。
その中で――
ダルカンは正確に、何度も“吸魔石”を狙っていた。
剣速は見えないほど速い。
角度も完璧。
振るたびに蒼い火花が飛び散り、
吸魔石に向かって斬撃が叩き込まれる。
(……気づいてるんだ。
ダルカンも、あれを壊さないと終わらないって)
だが――
ガンッ!!
石に触れた瞬間、金属が弾かれたような音が響く。
また一撃。
ガンッ!!
まただ。
幾度と斬りつけても、
吸魔石には――
傷ひとつつかなかった。
むしろ周囲のマナを吸い込むたび、
石の濁った光はより深く、より重く、より禍々しく輝いていく。
「逆の……“意味”を吸わせることができれば、
吸魔石の硬度を落とせる……」
アイラは呟くように言った。
だがその表情は、戦場のただ中なのに――
どこか、どうしようもなく哀しげだった。
胸の奥がざわついた。
(逆の意味……? 硬度を落とす……?)
理解が追いつかない。
――そのとき、ふと思い出した。
◇
隠れ村で“吸魔石巡り”をしていたときのこと。
村中の吸魔石に魔力を注いでまわる。
あの村での僕の日課……のはずだった。
だが、あの日――
ベルが「やってみたい」と言って、
ひとつの石に魔力を流し込んだ。
その瞬間。
吸魔石は、強く、赤く、明滅を繰り返した。
照明用としては、どう見ても失敗。
魔力の“意味の偏り”が大きすぎたのだ。
僕は魔力を“整える”つもりで、石に手を添えた。
そして、自分の魔力をそっと注ぎなおした。
……ただ、それだけのはずだったのに。
パリン。
まるで冷えたガラスに熱湯をかけたかのように、
吸魔石は音を立てて砕け散った。
ベルが目を丸くし、
僕は意味もわからず呆然と立ち尽くした。
その理由を、誰にも説明できなかった。
◇
――だが今なら。
胸の奥で、今まで繋がらなかった点が、音を立てて結びついた気がした。
(……“逆の意味”を吸わせることができるなら――)
(……僕に、できるのか?)
蒼黒に脈打つ吸魔石が、ザバの腕で不気味に鼓動する。
そのたびに、フロア全体のマナがざわりと逆流し、
塔そのものが低く唸ったように感じた。
指先が――熱くなる。
アイラが見せた、あの哀しげな表情。
その意味が、わかった。
強い魔力を生み出そうとすると、
魔法には“使い手の本質的な感情”が乗ってしまう。
アイラの魔力は、おそらく――
《哀しみ》そのものだ。
(……元・哀しみの巫女)
だから――
この塔に満ちる“哀しみの魔素”と同質の魔力が生まれてしまう。
吸魔石を壊すどころか、逆に強めてしまう。
アイラには、破壊できない。
そして――
ダルカンも、クリオも魔導士ではない。
“意味を逆転させて魔力構築する”という分野は、彼らの領域ではない。
ならば。
(僕が――やるしかない)
短剣の重みが、腰で微かに揺れた。
その重みが、まるで僕の背中を押すようだった。
◇
哀しみの逆とは何なんだ?
単純に“喜び”なのか?
分からなかった。
でも――この世界に来て、僕は確かに楽しかった。
父や母、姉たちと過ごした日々。
フェン、イレナさんがいたカナルスでの時間。
ダルカン、クリオ、ユーナと旅した日々。
ベルとロルと笑い合ったあの期間も――全部。
それらは僕にとって確かに“意味”だった。
(……これを“逆の意味”にすればいいのか?)
僕は掌に魔力を集めた。
胸の奥で、過ごしてきた日々が光へ変わっていく。
確かな“温度”を持った魔力の球が生まれた。
「アーシェ、フォローするわ」
アイラが短く告げた。
「お願いします」
僕が答えた瞬間――
アイラの手が白く光る。
ザバとダルカンが一瞬だけ間合いをとった、その刹那。
「――水葬槍!」
四方から、水の槍が走り、
ザバの脚へ一本が鋭く突き刺さった。
ガギィンッ!!
ザバの動きが止まる。
巨大な身体がわずかに沈み、その視線がアイラに向く。
(……今だ)
僕は、掌の“逆の意味”を宿した魔力の球を――
吸魔石めがけて放った。
閃光が走り、
球がザバの腕へ吸い込まれていく。
(……いけ!)
そう祈った瞬間――
ズ……ッ。
魔力は、吸魔石に触れた途端、
まるで“底なしの穴”へ落ちるように――
ただ吸われて消えた。
吸魔石の光は弱まらない。
むしろ、くぐもった蒼黒の輝きがさらに強くなった。
「……え?」
僕の喉が、かすれた。
(違う……?
いや、“弱い”のか……?)
ザバはゆっくりと顔を上げ、
狂気に濁った瞳が、まっすぐ僕を見据えた。
次の瞬間――
キィンッ!
ダルカンが僕の前に飛び込み、鋭い剣撃が火花を散らす。
ザバとぶつかり合った刹那、
ダルカンの瞳が一瞬だけ、僕を見る。
その目に――迷いはなかった。
(……信じてくれてる)
その瞬間、不思議なほど冷静になった。
さっき放った“喜びの魔力”は確かに意味を持っていた。
でも……弱い。
石を砕くには届いていない。
(僕の本質じゃない……違う……)
胸の奥がざわついた。
なぜだろう。
脳裏に、白衣の男がよぎった。
鉄のレールの上を、ただ流されるように生きていた前世。
あの人生とは違う。
この世界に来て、僕は――選んだ。
エルミナ姉さんが魅せた白い炎。
シアナを救えた日。
ユレッタを守るため、“自分の意志”で決断した夜。
あれは全部、偶然でも義務でもない。
――僕が、選んだ未来だった。
道を選ぶ勇気。
誤りを選び直す意志。
未来そのものを変える“選択”という意味。
そのすべてが、胸の奥で光となって集まっていく。
血管が熱を帯びる。
リメアが震え、
魔力が胸のさらに深い層へ沈み込む。
この塔に満ちる“哀しみ”が、終わった出来事へ縛りつける《過去》だとしたら、
僕が選び続けてきたものは、まだ決まっていない《未来》だ。
過去に縛られた吸魔石とは絶対に相容れない、
“選択”の意味。
掌に集まる魔力の色が、
蒼光を押し返すように揺らめき、形を成す。
まるで空が割れたときに差す光のように――
銀の輝きが、僕の掌に生まれた。
その光は静かだが、揺るぎなく、
塔の悲しみとは決して混ざらない。
「アイラさん……お願いします」
僕の言葉に、アイラは強く頷いた。
「――水葬槍」
足元の水が震え、
ザザッと四方へ跳ね、鋭い槍へと変わる。
ザバとダルカンが一瞬だけ距離を取った、その刹那。
水槍が走る。
ガギィンッ!!
ザバの膝に突き刺さる。
巨体が揺れ、
動きが――止まった。
(今だ……!)
銀光が――閃いた。
僕の掌から放たれた光は、
悲しみのマナが満ちるこの塔の中で、明らかに異質だった。
蒼でも黒でもない。
ただ“選択”という未来の意味だけを帯びた、揺るぎない銀。
その光が、ザバの腕に刺さった吸魔石を正面から撃ち抜く。
パァン――!
空気が弾け、
吸魔石の表面が波のように揺れた。
そして――
ピキッ。
亀裂の音が、雨音を切り裂いた。
ザバの身体が硬直する。
吸魔石は濁った光を失い、まるで息を詰まらせたように震えていた。
(効いてる……!)
その“音”が鳴り止むより早く。
銀色の閃光が、横から駆け抜けた。
――ダルカンだ。
彼の剣が銀光を反射し、一本の線となって吸魔石へ走る。
ザシュッ!!
刃が触れた瞬間――
吸魔石は、砕けた。
音もなく、光だけを散らして崩れ落ちる。
ザバの巨体が揺れた。
支えを失ったように、
膨れ上がった筋肉と黒い血管がしぼみはじめる。
ガ……ア……ァ……
かすれた声が漏れた。
やがて――
ドサリ。
ザバは膝から崩れ落ち、
蒼い鎧ごと、ゆっくりと沈むように倒れた。
雨音だけがバルコニーに残り、
戦いは――静かに終わった。
◇
この階での戦いは――終わった。
雨の音だけが、静かに響いている。
バルコニーに晒されていた人々の治癒を終えた。
全員、生きている。
震えてはいるけれど、息がある。
それだけで胸が少し軽くなった。
次に、僕は急いで倒れた村の戦士たちへ駆け寄り、
ひとり、またひとりと治癒魔法を施して回った。
淡い光がこぼれ、傷口が閉じていく。
だが、
息のある者は、十人も残っていなかった。
魔響区の乱れの中での戦闘。
蒼聖騎士との交戦。
そして、ザバの狂気。
……この人数で生き残れたほうが、奇跡だったのかもしれない。
治療の合間、ふと視線の端にザバの倒れた姿が映った。
彼はもう異形ではなかった。
吸魔石が砕け、力を失った身体は、
まるで抜け殻のように横たわっている。
(……これで、本当に良かったのか?)
胸がじわりとざわつく。
ザバが“魔物になったから”――
僕は戦えた。
けれど事実として、僕は人に向けて魔法を放った。
リメアが“意味を結ばなかった”はずの行為を――。
良かったのか。
間違っていたのか。
答えはどこにもなかった。
胸の奥に、冷たい痛みだけが残る。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
ザバに“とどめ”を刺したのは――ダルカンだった。
僕に絶対、踏ませない。
その一線だけは。
人を殺せない僕のために。
それが自然であるかのように、当たり前のように。
前世まで含めれば、彼は僕とそう歳が離れているわけではないはずなのに――
(……本当に、大人だ)
背中で語るように静かで、
責任を怯まず引き受け、
でも僕には背負わせない。
その在り方が、胸の奥に深く刻まれた。
ダルカンの剣は、まだ雨を滴らせている。
上層へ向かう戦いはこれからだというのに――
彼の眼差しは、もう前だけを見ていた。
(……僕も、進まないと)
ユーナを助けるために。
ここで終わるわけにはいかない。
迷いと痛みと恐怖を抱えたままでも――
選ぶしかない。
胸の奥で、何かが小さく震えた。
◇
計画どおり、この先へ進むのは――
ダルカン、クリオ、そして僕。
儀式を止める。
巫女を保護する。
ユーナを助ける。
それが、僕たちに与えられた使命。
アイラと二人の戦士はこの四十四階に残り、
僕らの帰還を待ちながら脱出口を確保する。
残りの戦士は、救助した人々を連れ、
塔の西の入り口へと向かう。
それぞれが、自分に刻まれた役割を確認した。
アイラの視線がダルカン、クリオ、そして僕へ移り――
静かに頷いた。
(……行け、ということだ)
血の匂いが残る蒼い空気の中で、
その頷きだけが、未来への許しのように見えた。
僕たちは、再び螺旋階段の方へ向き直る。
足元には雨で濡れた石。
頭上には霞む蒼光。
この先が魔響区――本当の“中層”だ。
一歩踏み出すたび、空気がざらつく。
(……行こう)
僕は、ダルカンとクリオの背を追って――
再び、螺旋階段を登り始め




