蒼の日 ― 雨哭の中層 ―
混戦が――始まっていた。
剣がぶつかる音、鎧が軋む音、
雨が吹き込み蒼光と混ざり、戦場の輪郭さえ曖昧になる。
僕はバルコニー近くの後方から、ただ状況を見つめるしかできなかった。
(……遅い?)
違和感に気づいた。
この世界の人間は、前世の“人間”とは明らかに違う。
強く、速く、鋭い。
――にもかかわらず。
目の前の蒼聖騎士たちの動きが、妙に鈍い。
重い。
遅い。
ぎこちない。
理由はすぐに理解できた。
マナの乱れだ。
上階の“魔響区”の影響が、この階層にまで滲み出している。
そういえば――
ラドゥスの森でリザードマンと戦ったときも、
空気がざらつき、マナが乱れていた。
あのとき、ロイスたちも
マナの乱れた環境下での戦闘は危険だ
と言っていた。
この世界の人間は、
リメアが生み出す“意味”でマナに干渉し、身体を強化している。
だから、マナが乱れれば――
当然、力の発揮に“ズレ”が生まれる。
――しかし。
ダルカンは常軌を逸した速度で蒼聖騎士を切り伏せ、
アイラは乱れの中でも軌跡を寸分違わず操り、
クリオはまるで影のように敵の背後へ回り込んでいた。
三人だけ、乱れに影響を受けていない。
(……残響者、あるいは神に触れた者は、影響を受けにくいのか?)
そして――
僕自身も、思ったほど“乱れ”の影響を感じていなかった。
おそらく、僕がティルザの使徒だからだろう。
これが“魔響区”なら、僕も戦える――
ダルカンが言っていたのは、その意味なのか?
だが、
胸の奥がざわついた。
“戦える”と“人を殺せる”は、まったく別の話だ。
魔力の乱れに耐えられても、
リメアが正しく動いても――
僕は、人に向けて魔法を放てるのか?
喉の奥で、言葉が固まった。
答えは出ないまま、戦いの叫びだけが近づいてくる。
◇
先ほど、真ん中に立っていた騎士。
彼だけ――鎧の形状が他と違う。
肩当ては分厚く、胸甲には蒼い紋章の刻印。
まるで階級そのものが一段違うかのように、輪郭が重い。
乱れの影響を受けているはずだ。
蒼鎧の動きも若干鈍い。
それでも――
同じく乱れの影響を受けている村の戦士たちが、
ひとり、またひとりと容易く蹂躙されていく。
踏み込みの深さが違う。
剣速が違う。
“迷い”が一切ない。
混戦の中心で、その男だけがまるで
乱れそのものを押し返すかのように動いていた。
「あれは……副団長ザバ……!」
誰かが叫んだが、声は雨音に飲まれた。
「任せなさい!」
アイラが、蹂躙の中心にいるその騎士へ向かって
迷いなく踏み込んだ。
彼女の蒼髪が跳ねる。
一瞬で距離を詰め、剣を構える。
二人――激突。
塔の中に、金属が悲鳴のように響き渡った。
「――アイラ様。お久しぶりですね。」
濁りひとつない声音だった。
まるで挨拶のように自然で、
それでいて刃のように冷たい。
蒼い鎧の副団長ザバが、一歩だけ前へ出る。
塔の蒼光が、彼の鎧の紋章をぎらりと照らした。
「元巫女であろうと関係ありません。」
「いまの貴方は残響者。」
「涙王の命により既に“死罪”が確定している身です。」
ザバの剣先がわずかに上がる。
ゆっくりと――
刃の先端が、正確にアイラへ向けられる。
「ですので、どうか……覚悟を。」
その声には怒りも憎しみも一切なかった。
ただ、
“任務を遂行する者” の冷徹があった。
霧のような蒼い雨がバルコニーに吹き込み、
二人の間に落ちて、音もなく消えていく。
アイラが剣を構えた。
「ザバ、いくらあなたでも――
このマナの乱れの中で、私に勝てるつもり?」
アイラの声は、雨音より冷たかった。
ザバの眉がわずかに動く。
反応したのは、その一瞬だけ。
次の瞬間――
カシン。
アイラは、ゆっくりと剣を鞘へ納めた。
ザバは剣先をわずかに下げ、
静かに息を吸う。
「……貴方の護衛隊長だったのは、私ですよ。」
「なら話が早いわ。」
アイラの右手が胸元へと滑るように上がる。
祈りに似た所作――しかし、実際は“術の始動”だった。
ザバは小さく首を振った。
「貴方は……まるで分かっていない。」
その瞬間――
フロアに溜まった雨水が、
ザザッ……! と四方から逆流し、
空を刺すように立ち上がった。
槍の形をとり、蒼光を反射しながらザバを包囲する。
僕は息を飲む。
アイラが静かに名を告げた。
「――水葬槍」
ドンッ!!
四方の槍が同時に走る。
確実にザバの身体を──
貫いたように見えた。
アイラの表情が、ほんのわずか陰った。
(決着……?)
そう思った刹那。
ザバの声が響いた。
「だから、分かっていないのです。」
霧のように揺らぐ蒼光の中から、ザバが歩み出る。
水の槍に貫かれたザバは、もはや戦闘不能に見えた。
膝が沈み、蒼鎧が軋む。
水槍が消えた場所から血が漏れ、床に落ちて広がっていく。
アイラは再び剣を構えなおし、静かに睨む。
この戦いは終わった。
そう思った。
だが。
ザバはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、痛みも苦しみも、怒りすらなかった。
「……理想。現実。義務。」
声は濁りなく、ただ淡々としていた。
「貴方が――子供じみた理想を貫こうと……」
ザバはアイラを真っ直ぐ見据える。
「我々には、フォーネへの“責務”があるのです。」
僕はその声音に狂気を感じた。
次の瞬間――
ザバは懐から蒼白く光る石を取り出した。
(……吸魔石?)
だが違う。
これまで照明として見てきた吸魔石とは、別物だった。
刃物のように鋭利に尖り、
“どんよりと濁った光”を放つ吸魔石。
空気がざわりと逆立つ。
「まずいぞ」
少し離れた場所からダルカンの声が響いた。
アイラはとどめをさそうと踏み出すが――遅かった。
ザバは石を持つ手を、振りかぶった。
そのまま、
鎧の隙間から自らの腕へ────深く突き刺した。
ズブッ……!
石が肉を割る生々しい音とともに、
――空気が震えた。
ザバの腕から溢れていた血が、逆流するように吸い込まれ……
まるで傷そのものが“喰われるように”塞がっていく。
いや、それだけじゃない。
ザバの体表が、膨らむ。
筋肉が裂け、また盛り上がり、
鎧の継ぎ目が悲鳴を上げて歪む。
ガキ……ンッ!
肩当てが外れ、蒼い金属片が床へ弾け飛んだ。
背骨が波打つように盛り上がり、
鎧の下で骨格が変形していく。
指の関節が反転し、
手の甲の皮膚が裂け、黒い血管が浮き上がる。
噛み締める歯は獣の牙のように伸び、
眼窩が沈み、光を失った瞳の奥に蒼黒い光が灯る。
その姿は、前世のファンタジーで読んだ
“バーサーカー”そのものだった。
ザバの全身が膨れ上がり、
蒼い光と黒い血管が脈打つ異形へと変わりきった瞬間――
その“獣”は、ゆっくりとアイラを見た。
だが、次の瞬間にはもう――消えていた。
「っ――はやい!」
アイラの瞳に、かろうじて蒼い残像が映る。
バシュッ!!
巨躯とは思えぬ速度で踏み込み、
ザバの巨大な拳が、空気を裂いて迫る。
アイラは剣を反射的に構えた。
ガァァンッ!!
金属が悲鳴を上げた。
爆ぜる衝撃――。
アイラの身体が、吹き飛んだ。
水の滴る石床に叩きつけられ、
地面には深く、鋭い溝が刻まれる。
「……くっ!」
ザバはゆっくりと振り向いた。
破れかけた鎧の下で、膨張した筋肉が脈打つ。
一歩踏み出すたびに、
石床が――沈む。
(……マナの乱れの影響を、受けてない)
もはや、人ではない。
魔物だ。
「アイラさん!」
その瞬間、三人の村の戦士が前へ飛び出した。
「させるかッ――!」
獣に迫る。
だが。
ザバの腕が、ただ――横に払われただけだった。
ズバッ……!!
爪が閃き、
三人が、同時に弾け飛んだ。
声すら出せず、兵士たちは石床へ崩れ落ちる。
血が雨水に溶け、静かに流れていく。
ザバは立ち止まらない。
アイラへ向け、再び歩き出す。
獣の影が、倒れ伏すアイラを覆い――
その巨大な足が、一歩、前に踏み込んだ。
(……まずい)
ザバがアイラへトドメを刺そうと、両腕の筋肉を盛り上げる。
雨水がはじけ、蒼光が収束する。
次の瞬間――
キィンッ!!
銀の閃光が、雨幕を切り裂いた。
ザシュッ!!
その瞬間、ザバの右腕が宙を舞った。
雨音すら一拍、止まったように感じた。
蒼い血が床に散り、じわりと広がる。
その背後に――
ダルカンが立っていた。
振り抜いた剣をまだ戻しきらぬまま、
雨に濡れた刀身から、一滴だけ蒼い血が落ちる。
ザバの巨体がわずかに揺れた。
痛みの声はない。
悲鳴もない。
ただ、落ちた腕を見下ろし――
ザバはゆっくりと、音もなくダルカンへ顔を向けた。
その瞳には、怒りも痛みもなかった。
ただ、“獲物を見つけた”獣の光だけが宿っていた。
次の瞬間――
ガァンッ!!!
ダルカンとザバの剣撃が衝突した。
蒼い火花と雨水が同時に散り、
二人の影がバルコニーいっぱいにぶつかり合う。
(……アイラさん!)
僕はその隙に駆け出し、倒れているアイラのもとへ膝をついた。
肩から胸にかけて深く抉られている。
息も荒い。
(治さないと――)
僕は迷わず手をかざした。
指先に魔力が集まり、
胸の奥で“意味”が形をとる。
――治癒。
本来なら、乱れたマナの中で魔法は不安定になるはずだ。
けれど僕の魔力は、むしろ澄んでいくように感じた。
淡い光がアイラを包む。
裂けた肉が閉じ、
血が止まり、
肌が再び滑らかに戻っていく。
まるで時間を巻き戻しているかのように。
「……っ!」
アイラが息をのみ、目を開けた。
驚愕のあと、ゆっくりと微笑む。
「アーシェ……ありがとう」
その声は、雨音の中ではっきりと聞こえた。
僕は頷いた。
「アイラさん、あれは一体……?」
僕の声は震えていた。
あの異形を見れば、誰でもそうなる。
アイラはゆっくり息を整え、
ザバを睨みつけたまま答えた。
「……あれは 吸魔化。
本来、禁じられた術よ」
胸の奥が冷える。
アイラは続けた。
「特定の“意味”を刻んだ魔力を、吸魔石に溜め込む。
それを術者のリメアに直接流し込む」
……リメアに、流し込む?
「そうして得られるのは、強大な力。
けれど――」
アイラの横顔が、雨の光を受けて鋭く影をつくる。
「代償として、術者は“魔物”へ堕ちる。
自分という意味を、少しずつ失いながらね」
ザバは吼えた。
ガアアアアアアッ!!
アイラが僕へ言う。
「アーシェ、あの石を見て」
指さす先――
ダルカンに切り落とされた右腕とは反対側の腕に、
黒く濁った吸魔石が深々と突き刺さっていた。
アイラは短く息を吸い、
「あの石さえ壊せれば――止まる」
その言葉が、胸の奥に重く沈んだ。
ザバは狂ったように咆哮し、
ダルカンと刃を交えるたびに床が割れ、蒼い火花が散る。
ここから先へ進むには、
――あの狂戦士を止めなければならない。
逃げられない。
ユーナを助けるためにも、
この塔で生き残るためにも。
喉がひりつくほど乾いた。
なのに、不思議と足は震えなかった。
(……やるしか、ない)
指先に――熱が宿りはじめた。




