蒼の日 ―火葬―
塔の中――。
外壁も白みを帯びた蒼だった。
だが、内壁はそれよりもさらに白く、淡く、透けるような蒼をしていた。
淡い光を放つ吸魔石が、空間をぼんやりと照らしている。
――ここが“哀しみの魔力”で満ちた空間なのだと、色が語っていた。
僕たちが通った南の入り口。
そのはるか逆側の闇の果てに、ぽつりと灯る小さな明かりが見える。
あれが――北の入口。
ユーナたちが運ばれていった場所だ。
距離は信じがたいほど離れているのに、
その光だけは闇に呑まれず、確かに揺れていた。
おそらく千メートルを超える巨塔。
その底部となる一階は、前世で見た野球球場を
そのまま石造りに変えて閉じ込めたような広さだった。
湿った石床が果てなく続き、
視界の奥には、人の背丈の何十倍もある“柱の森”が沈黙して立ち並んでいた。
その広大な空間の中央。
天へ向かって影が昇るように、
巨大な螺旋階段がうねり上がっている。
階段というより、
塔の中心に突き立てられた“竜骨”。
上へ、さらに上へ。
霧の天井へ飲み込まれるように続いていく。
――終わりが見えなかった。
僕たちは、ただ黙って、
その螺旋階段へ向かって走り出した。
◇
外で雨が降っているのがわかった。
入口の方から、その音がかすかに流れ込んでくる。
……誰かが、泣いている?
そう感じて、思わず足を止めた。
耳を澄ます。
それは人の声じゃなかった。
激しい雨が塔の外壁を叩きつけ、
その振動が内部で幾重にも反響し――
すすり泣きとも、嗚咽ともつかない“鳴き声”に変わって響いている。
塔そのものが、泣いているみたいに。
雲の塔と呼ばれているけれど、
この瞬間の僕には――
まるで「哀しみの塔」と呼ぶ方がふさわしく思えた。
魔力の乱れを――感じた。
空気がざらりと逆立つような、皮膚を撫でつける嫌な気配。
塔へ踏み込んだ瞬間から微かに漂っていたが、
一歩進むたびに、まるで濃霧のように“濃く”“重く”なっていく。
(……中層以降が無響区だと聞いている。これが、その“前兆”か)
呼吸するだけで、喉の奥にざらつく違和感が残る。
空気そのものが、どこか“捻れて”いる。
けれど――それだけじゃない。
隠れ村での吸魔石との格闘。
あの一カ月、リメアと魔力に向き合い続けた日々。
その経験が、今の僕に“別の感覚”を生んだとすぐに分かった。
以前より――
魔力というものが、空気の温度変化のように自然に感じ取れる。
だからこそ、理解できてしまう。
――この場所は、明らかに“普通ではない”。
ただの塔じゃない。
外の世界とは異なる理で満たされた、“異質な領域”。
一歩、また一歩と進むたびに、
胸の奥がきゅ、と縮むような緊張が走った。
◇
僕らは上層へと続くという階段を目指して、
湿った石床をひたすら駆けていた。
しばらく進んだその時――
「アイラ、頂上へは――俺とクリオ、そしてアーシェの三人で向かう。
お前は残りを連れて、脱出経路の確保に回れ」
ダルカンの声が塔の内部で鋭く反響した。
空気がぴたりと止まる。
入口で戦っている二十名の仲間のおかげで、僕たちは塔に入れた。
だが、その代償として――
突入部隊はすでに“二十名ほど”にまで減っていた。
ダルカンは、いま最も合理的な判断を口にしたのだろう。
アイラは足を止め、短く息を吸ってから、
ゆっくりと僕の方に視線を向けた。
「アーシェは子どもよ。
村で見た限り、魔法の素質はありそうだけど……本当に戦えるの?」
胸の奥を刺されたような痛みが走った。
――僕は、人とは戦えない。
ヒトを前にした瞬間、
リメアが“意味”を紡がなくなる。
魔力と向き合った日々の中で、
理由ははっきりしていた。
僕の中には――
白井悠真として生きた三十年が造り上げた“意味”が刻まれている。
「人を、傷つけてはいけない。
人を殺してはいけない。」
医師として、日常として、当然のように染みついた価値観。
それは白井悠真の“禁忌”だった。
だから――
人に魔法を放とうとした瞬間、
リメアは“殺意という形”を絶対に結ばない。
まるで僕自身が、その行為を拒んでいるみたいに。
胸の奥に、冷たい痛みが広がる。
「問題ない。中層以降は無響区だ」
ダルカンが淡々と言った。
(……どういう意味だ?)
僕には理解できなかった。
今の僕の問題に対して、何一つ答えになっていない。
「……私は、七歳の子供が戦力になるのか、と聞いているのよ」
アイラの声は鋭いが、怒気ではなかった。
“命”を預かる者の真剣さだった。
アイラは僕の“対人戦の可否”ではなく――
七歳の子供を、この先にある“本当の死地”へ連れていけるのか。
その一点だけを案じている。
一方で、ダルカンは――
僕が“ヒトと戦えない”ことを知っている。
そして魔響区なら、その問題が解決できると思っている。
二人の認識は噛み合っていない。
僕の不安とも噛み合っていない。
(……魔響区なら、僕でも戦える?
どういう意味なんだ?)
疑問は霧のように胸に溜まり、
答えは誰からも与えられないまま――
僕たちは、塔の奥へと進んでいった。
◇
螺旋階段へ近づいた、そのとき――。
階段の根元に、蒼聖騎士たちがずらりと並んでいた。
しかし、違和感はすぐに走った。
動かない。
呼吸の音もしない。
ただ、塔に反響する雨音だけが、空っぽの鎧の中を通り抜けている。
「――殉死者だ。皆、警戒しろ!」
アイラの声が鋭く響いた。
胸の奥がひやりと震える。
殉死者――。
以前、屋敷で学匠から習ったことがある。
死者の肉体に“魔力の残滓”がまとわりつき、
意思を奪われたまま動かされる存在。
この世界でいう“アンデッド”。
だが目の前の蒼聖騎士は、その知識よりさらに異様だった。
外で見た蒼聖騎士たちは、どれも整備され、澄んだ蒼を放っていた。
対して、ここにいる騎士たちは――
鎧が黒ずみ、錆びつき、
肩の装具も、古い様式のまま硬直している。
“現役”の騎士ではない。
生きている人間が着ている動きではない。
さらに近づくと――
鎧の隙間から覗く部分が、人の形を保っていないのが見えた。
干からびた皮膚が石のように硬化し、
骨のような影が、鎧の継ぎ目で不自然に浮き上がっている。
(……儀式に同行させられ、そのまま死んだ者たち……?)
この塔の底に、放置されていた“成れの果て”。
ただそこに立っていただけの殉死者たちが、
僕たちの足音を察知した瞬間――
ギ…ギギ……。
鈍い音を立てて、動き出した。
二十はいる。
その動きは遅い。
しかし、一体一体が“死を引きずったままの重さ”を帯びていた。
階段の根元で、
死者たちが僕らの行く手を塞いだ。
◇
戦いは――避けられなかった。
螺旋階段の根元で立ち塞がる殉死者たちへ、
村の戦士たちが次々と飛び込んでいく。
剣戟が鳴り響く。
僕は少し距離をとり観察していた。
殉死者の動きは鈍い。
だが、遅いのに……読めない。
踏み込みに癖がない。
腕の振りに迷いも、意図もない。
生者が必ず持っている“律動”というものが消えている。
だからこそ、動きに型や法則性がなく、
目の前で繰り出される斬撃は、逆に恐ろしく感じた。
素早くはないのに――避けづらい。
生き物が自然に持っている「間」がない。
戦士たちが捌くたび、
殉死者の鎧がきしり、
中で干からびた肉が砕けるような音が響く。
雨の反響音の奥で、
どこか遠くから聞こえるような呻き声が混じった。
◇
戦いは続いていた。
何人かの戦士は傷ついていた。
ここで、ここ以上戦力を減らすわけにはいかない。
殉死者――人ではない。
(……なら、僕でもできる)
「……できます!」
自分でも驚くほど強い声が、塔の空洞に響いた。
隣でダルカンとクリオが、迷いなく頷く。
「任せた」
「行け、アーシェ」
その一言で、胸の奥の恐怖が静かに引いた。
アイラの視線が、肌に刺さるほど強く向けられているのを感じた。
――まるで、僕という存在そのものを“量っている”かのように。
炎の構造に、“蜥蜴という意味”を重ねる。
リメアの底で紡がれる因果が、魔力へと変換されていく。
(……この“ズレ”なら、“マナ”は反応する)
確信とともに、僕は手を突き出した。
指先に――熱が集まる。
魔力が、確かな“形”を得ようとしている。
吸魔石へ魔力を注ぎ続けたあの日々が、
今、この瞬間に“底の広がり”として、はっきり息づいていた。
火の“意味”が、形になろうとしている。
「――火蜥蜴」
パッ。
青い火花が弾け、
炎の蜥蜴が一匹、二匹……と次々に形を成す。
蒼白い炎――
そしてその姿は、以前より“獣めいて”いた。
四肢の形状や爪のラインが、どこかリザードマンの影を思わせる。
一体、二体、五体、十体。
(十……!)
かつて三体を作るだけで必死だったのに、
今は、まだ魔力に“余裕”さえある。
確実に――
リメアが、僕自身が、成長している。
十体の火蜥蜴が一斉に駆け出した。
カッ……!
蒼い尾を引きながら、殉死者たちへ飛びかかる。
炎が鎧に噛みつき、
水蒸気のような白い靄が上がる。
殉死者の動きが止まり、膝が折れ――
崩れ落ちる。
死者には痛覚がない。
ただ、命の残滓が焼け落ちるだけだ。
火蜥蜴たちは次々と跳び移り、
階段前の殉死者を一掃していった。
蒼い炎が塔の内壁を照らし、
反響する雨音さえ――まるで塔そのものが泣き叫ぶ声のように震わせていた。
塔の空気が、ひと呼吸だけ静かになった。
ぱち、ぱち、と。
炎が殉死者の鎧を舐める音が、静かに空洞へ広がっていく。
そして――
燃え残った殉死者の鎧が、
ぱき……と乾いた音を立てながら崩れ落ちた。
僕は、小さく息を吐いた。
炎に包まれ崩れていく影を見ていると、
なぜか“白い部屋”と、あの最後の面談室が脳裏をよぎった。
死者は炎で送り出された。
悲しみと、祈りと、静けさの中で。
目の前で燃える蒼い鎧。
こんな姿になってまで、
いったい何を全うしようとしているのだろう。
僕には分からなかった。
それなのに――
胸の奥のどこかが、静かに疼いた。
悲しみでも恐怖でもない。
ただ、**“死者へ向く不可思議な感応”**のような。
そう思った瞬間だけ――
僕は他のすべてを忘れていた。
塔の泣き声も、雨の轟音も、戦いの息遣いも。
ただ、燃え落ちていく蒼い鎧を見つめていた。
その蒼が揺らぎ、炎が消えていく頃になって――
ようやく、僕は現実へ引き戻された。




