蒼の日 ―夜明けの出陣―
ドレイナ近郊に築かれたこの拠点から見上げる雲の塔は――
もはや“存在感”という言葉では追いつかなかった。
雨に霞む世界を、ただ一つまっすぐ貫く黒い巨影。
塔そのものが空を支えているようで、
見れば見るほど距離感が狂う。
まるで、あれだけが異なる理で造られた“世界の柱”だった。
その圧に胸を掴まれたまま、
僕たちはひとまず拠点のテントへと身を落ち着けた。
冷えた身体を乾かし、
各々が静かに息を整える。
そこで、ダルカンがテントの入口に立ち、低く告げた。
「……しっかり休んでおけ。
明日の――日の出前には、塔に向かう」
雨音すら一瞬小さくなるほどの静寂が落ちた。
その一言が、ここまで積み重ねてきた“準備期間”の終わりと、
“本番”の始まりを告げていた。
僕たちは、庵の人たちが用意してくれた温かい食事をとり、
冷え切った身体をようやく落ち着かせたあと――
それぞれのテントで、しばらく仮眠を取ることにした。
腹の底に広がる温もりと、
外から聞こえる絶え間ない雨音。
そのどちらもが、少しだけ緊張を溶かしてくれる。
明日の夜明け前に塔へ向かう。
それまでに、少しでも体力を戻さなければ。
湿気を含んだ寝具に横になり、
深く息を吐く。
睡眠なんて取れるだろうか――
そんな不安はあったはずなのに、
まぶたは重く、静かに閉じていった。
雨の音が、遠ざかっていく。
そして僕は、浅い眠りへと沈んでいった。
◇
目が覚めた。
湿った空気と、絶え間ない雨の音が耳に落ちてくる。
テントの布を叩く雨粒は、
まるで何かの合図のように一定のリズムを刻んでいた。
ぼんやりと体を起こしたとき――
「アーシェ、そろそろ皆集まってる。
俺たちも向かおう」
低く抑えたクリオの声が、
頭にすっと入り込んできた。
声の調子でわかる。
冗談も、いつもの軽さもなかった。
僕はダルカン、クリオと共に拠点の中心へ向かった。
ベルとロルは――ここに残していくことになった。
そもそも本来なら、二人は隠れ村に置いてくるという案が出ていた。
戦力にもならず、危険すぎるからだ。
だが――それを押し返したのは、意外にもダルカンだった。
なぜ、ここまで同行させたのか。
その理由は、最後まで語られなかった。
ただ――テントを出る直前。
ダルカンは、ベルとロルの肩にそっと手を置いた。
それだけの、短い仕草。
でも、その背中にはどこか“別れ”に似た影があった。
その瞬間の二人の表情は、忘れられない。
ベルは強がりの笑顔を作りながらも、
その目は潤んでいて。
ロルは唇を噛み締め、震えを押し殺すように頷いていた。
語られた言葉はひとつもないのに、
そこには確かに“約束”があった。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――だから、絶対に帰らなければならない。
あの二人の待つ場所へ。
そう思いながら、僕たちは拠点の中心へ歩みを進めた。
◇
夜明け前の暗さは深く――すでに“蒼の日”を迎えていた。
雨が――より強くなっているように感じた。
今日の夕刻、この国の雨は一年で最も強くなる。
そして――その時間に、儀式は行われる。
そう聞いていた。
空気は湿り気を越えて重たく、
肺に入る息ですら、ひやりと冷たい。
まるで世界そのものが
これから起きる“何か”に向けて呼吸を潜めているようだった。
◇
拠点の中心には――すでに五十名ほどが集まっていた。
雨の帳の下、皆が静かに、しかし確かな覚悟を抱いて立っている。
残りの百五十名は、すでに各々の配置についたらしい。
塔周辺の偵察。
生贄運搬ルートの見張り。
潜伏して合図を待つ者もいれば、外部で陽動を仕掛ける者もいるという。
ここに集まった五十名――
この場にいる者だけが、“塔へ突入する部隊”だった。
僕は、集まった人々を改めて見渡した。
蒼哭の庵――
権威に抗う“レジスタンス”。
武器の柄を強く握りしめて佇む者。
静かに目を閉じ、ただ雨音だけに意識を集中させている者。
誰一人、軽い覚悟の者はいなかった。
それぞれが胸の奥に、確かな――そして重い“理由”を抱えているのだろう。
大切な誰かを失った者。
奪われた日常を取り戻したい者。
この国の歪みを、どうしても正したい者。
そして、僕は――
ただ一人を救いたいという想いだけを抱えて、ここに立っていた。
雨脚が強くなった。
そのとき――
「……皆、集まったか」
アイラの声が、鋭く湿った空気を切り裂いた。
五十人の視線が、一斉に彼女へ向く。
青い髪が雨に濡れ、吸魔石の淡い光を反射して揺れる。
「これより――作戦を改めて説明する」
その言葉と同時に、
雨音が遠くなったように感じた。
誰もが息を呑み、
誰もが自分の“理由”を胸に押し込んだように
ただ次の言葉を待っていた。
雨音が遠ざかったように感じたのは――
たぶん、皆が“覚悟”を固めたからだ。
空気そのものが張りつめ、
肌に触れる雨さえ硬く感じる。
アイラは周囲を一度だけ静かに見渡し、
そして言葉を落とした。
「――まず、全員に伝えておく。
今日、ここにいる誰もが“命を落とす覚悟”を持ってほしい」
ざわめきは一つもなかった。
それは恐れではなく、
否応なく全員が“分かっていた”からだ。
アイラは続けた。
「蒼の儀式は、雲の塔の最上階で行われる。
問題は――塔の入り口は四方向。
どの入口から“生贄”と“巫女”が連れ込まれるかは毎回違う」
彼女の声は雨の打音に負けないほどまっすぐだった。
「だから、外で抑えるのは我々の人数では不可能。
私たちが動けるのは――“塔の内部”だけ」
その瞬間、空気が一段――重く沈んだ。
「塔の内部には蒼聖騎士の精鋭部隊、そして蒼の魔導士――
ザイアス・ロウヴェルも入るはず」
あの夜、僕達を追い詰めた蒼い影――蒼聖騎士たち。そして……ザイアス。
名を聞いた刹那、胸の奥で何かが凍りついた。
あの夜の恐怖が、濡れた土の匂いと共に鮮明に蘇る。
アイラは短く息を吸い、雨音へ負けぬ強さで続けた。
「“蒼の日”――国は本気で儀式の遂行を行う。
私たちは、その中心へ――踏み込むことになる」
その言葉に合わせるかのように、
雨脚がさらに強く地面を叩きつけた。
冷たい水滴が肩を打ち続ける中、アイラは淡々と続ける。
「塔の内部を把握しているのは、私とダルカンの二人だけ。
だから、この二人を中心に、二部隊に分ける」
ざり、と足場を踏む音が広がる。
五十名の視線が、一斉にアイラとダルカンへ集まった。
アイラは手を軽く掲げ、区分を示す。
「――ダルカン班、二十名。
上階へ向かい、“生贄にされる人々”の救出、そしてユーナの救出を担当する。
可能ならば――巫女の確保もお願いしたい。」
ダルカンは深く頷いた。
その背中に宿る覚悟が、雨の闇の中でもはっきり見える。
「私の班も二十名。
突入後は下層の制圧と脱出経路の確保を担当する。」
雨音が、まるで地面を叩く“鼓動”のように激しさを増した。
その中で語られる作戦は、どの言葉も重かった。
「ダルカン、あれはいけるのね?」
アイラが唐突に口にした一言。
何を指しているのか僕には分からなかったが――
ダルカンは、雨に濡れた髪を払うように、静かに頷いた。
アイラは続ける。
「残りの十名はここで待機し、状況に応じて救援・回収にあたる。
外の混乱に備えるための――最後の砦よ」
雨脚が地面を叩くたびに、
まるで作戦の重さがさらに積み重なっていくようだった。
空気が張り詰めていく中、アイラはほんの少し声を落として続けた。
「――もう一つ、重要なことを伝えておくわ」
吸魔石の淡い光が揺れ、
その影が彼女の表情を一瞬だけ鋭く切り取った。
「中層以降の階層は“魔響区”に変質している。
魔力耐性の低い者は、まともに動けなくなる」
周囲がわずかにざわつく。
しかし誰一人声を上げない。
それが“覚悟のある集団”の静けさだった。
「だから――
必ず中層までに生贄と巫女を確保してほしい。
中層を越えたら、彼らはもう……生身では帰ってこれない」
淡々と告げているのに、その言葉の重さは雨より重かった。
雨に紛れた誰かの喉の鳴る音さえ聞こえる。
アイラは深く息を吸い、全員へ向けて最後の視線を送った。
その瞳は揺らがず、ただ静かに――しかし強く、皆の覚悟を確認していた。
「――以上が作戦内容。
必ず、成功させましょう」
雨音が一瞬だけ弱まったように感じる。
そして、彼女は静かに言葉を落とした。
「我々に……蒼の導きがあらんことを」
その一言は、胸の中心に冷たい針を刺すように――鋭く残った。
“蒼の導き”――
蒼の神フォーネへの祈りの言葉だ。
――この人たちは、神を拒絶しているんじゃないのか?
僕はそう思っていた。
けれど、アイラの言葉には敬意も憎悪も感じられず、
ただ“事実”として神を口にしているようだった。
庵の思想は単純な反神ではない。
ドレイナという国そのものの宗教観も、
僕が思っていたより、ずっと複雑なのかもしれない。
その理解の届かない深さが、
いまはただ――胸の奥に冷たく沈んでいった。
湿った呼吸をひとつ整え、
僕はダルカンが操る走竜へ跨った。
鞍に触れた瞬間、竜の鼓動がじん、と掌に伝わる。
恐怖も覚悟も、丸ごと飲み込んでしまうような震えだった。
テントの影から、
数十匹の走竜が次々と姿を現す。
青布の装備が雨に濡れ、
そのひとつひとつの影が静かに揺れた。
「――行くぞ」
ダルカンの短い声が、
濃い雨の世界を切り裂いた。
手綱が引かれる。
その一瞬の後――
ざぁあああッ!!
数十の蹄がぬかるんだ地面を一斉に蹴り上げ、
暗い夜明け前の世界へと駆け出した。
雨に沈む森を抜け、
遠く聳える“雲の塔”へ。
蒼い雨の帷の中――
僕たちは、巨塔へ向かって走り始めた。
まるで、巨大な怪物の喉奥へ突っ込んでいくように。




