白の残響
四歳になっていた。
言葉を交わし、物に触れ、選ぶたびに、自分という形が強くなっていく。
小さな選択をするとき、ふと怖くなることがあった。
その選びが、何かの延長になる気がしていた。
まだ先が見えないまま、それでも選んでしまうことが。
世界のどこかに、僕を運ぶ流れがあって。
僕はその上に乗って、揺られながら進んでいる――そんな感覚がある。
ときどき、不思議な既視感にとらわれる。
見たことのない景色のはずなのに、まるで知っているような。
人の表情や出来事の意味を、どこかで知っていたような。
何かを割り切るように、心が先回りして動いてしまうときがある。
そのたびに、心の奥に淡い影が揺らいだ。
名もなく、顔もなく、ただ“背中の気配”だけが残っている。
触れれば消えてしまいそうなほど曖昧なのに、どうしてか、その存在だけは確かだった。
その影が何を意味するのかは、まだわからない。
けれど、胸の奥に残った感覚は、少しずつ“変化”の兆しとなっていた。
⸻
父・ガイルが北方遠征に出ると告げられたのは、冬の入り口を感じる寒い朝のことだった。
滅多に屋敷にいない父ではあったが、今回は更に一年から二年に及ぶ長期の遠征になるらしい。
それは、家族にとっても、屋敷にとっても、大きな節目のように思えた。
出発の日、屋敷の正門前には、三十名ほどの騎士たちが整列していた。
皆、父と同じ紋章を身にまとい、鎧に身を包んで馬を操っていた。
無駄な私語はなく、空気には張り詰めたような静けさがあった。
それでも、どこか誇らしげな雰囲気があったのは、彼らが「ガイルの部下」であることに、確かな誇りを抱いているからだろう。
門の前に立つ父の背は、やはり大きかった。
寒風の中でも微動だにせず、背筋は凛としていた。
その姿はまるで、動かぬ岩のようで──僕にとっては、どこか物語の中にしかいない存在のようにも思えた。
列の端にいた若い騎士が、ふとこちらに気づいて笑いかけてきた。
肩の力が抜けたような、けれど無礼にはならない、独特の話しぶりだった。
「お、坊ちゃん。見送りっすか?」
馬をこちらへ寄せながら、軽い調子で言う。
敬語ともため口ともつかないその話し方には、妙な親しみやすさがあった。
「領主様の長男だよな?……あー、目が似てるな。
あの人が真剣な時の目に似てる、ちょっとゾクってする感じの」
それは、若干の照れ混じりの尊敬にも思えた。
「ま、いつか後を継ぐんすよね?
ガイル様は、言葉少なめなんで苦労しそうっすけど。
でもまあ……将来楽しみにしてまっせ、坊ちゃん」
彼はそう言ってひらりと手を振り、列へと戻っていった。
その背中はどこか軽やかで、それでいて頼もしさがあった。
まるで──この人たちなら、父の背中についていける。
そんなふうに、思えてしまった。
『後を継ぐ』──
その言葉だけが、胸の奥に静かに沈んでいた。
どこかで聞いたことがあるような、知っていたような響きだった。
意味も、重さも、まだよくわからない。
けれどその響きには、あらかじめ敷かれた道をなぞるような感触があって、なぜか少しだけ、心がざわついた。
ほんの少しだけ――懐かしいような、けれど同時に、
胸の奥が締めつけられるような息苦しさもあった。
『そうか、僕も……ああして生きていくのかもしれない』
そんな思いが、静かに浮かびかけた――
……そのときだった。
言葉にはならない。
黒い影のような気配が、水底からにじむように胸をかすめた。
音ではない。けれど、どこか問いかけのように感じられる響きが、確かにそこにあった。
『――また、同じ道を歩くのか?』
何処から聞こえているのかも、誰のものかもわからない。
無機質な、声。
ただ、その囁きが触れた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹いた気がした。
僕は、ただ受け流した。
◇
近頃、僕は、庭の奥――石垣の影にある、小さな隠れ場所に通っている。
誰にも言っていない場所。
そこにしゃがんで、魔法の練習のようなことをしている。
魔法は使えない。
教わってもいない。
けれど、手をかざすたびに胸の奥で、あの日の光がふっとよみがえる。
あの白炎。
今も消えずに残っている。
ただの記憶ではなく、心のどこかで淡く灯り続けている。
枯れ葉の軌跡、風の渦、指先の残像。
ふいに白く霞んで見えるその瞬間ごとに、胸の奥がかすかに震えた。
けれど――指を伸ばしても、何も起きない。
それでも、やってみたくなる。
もう一度、あの光を――今度は自分の手で。
◇
ある日。
秘密の時間を終えて屋敷へ戻る途中、廊下の角で執事とメイドの話し声が聞こえた。
「……無響病、また近隣で出てるそうです」
「治癒魔法が効かないって……何が原因なんでしょうね」
「最近、マナの流れも乱れてるとか。魔物も増えてるって話ですし……」
「こんなときに旦那様が遠征中なんて、まったく」
声はすぐに遠ざかっていったが、耳に残った単語が胸の奥でざわめいていた。
“無響病”。
“マナの乱れ”。
“治癒魔法が効かない”。
何かを考えかけたけれど、そのまま思考を閉じてしまった。
◇
ふと、気づくと――僕の中にあった“常識”と、この世界の“常識”とのずれは、ずいぶん小さくなっていた。
以前は、違和感ばかりだった。
言葉、文化、行動、価値観――
そのすべてが、自分の知っていたものとは少しずつ違っていた。
でも今は、その違いに気づかなくなってきている。
僕は、この世界に馴染みはじめていた。
“この世界の住人”として、少しずつ、歩き出している。
◇
翌朝、廊下で出会ったシアナに、僕はふと尋ねてみた。
「ねえ、魔法って……詠唱がなくても、出せるの?」
シアナはきょとんとして、それからいつものように笑った。
「うん、小さい火なら出せるよ。
詠唱はあんまり覚えてないけど、なんとなくで」
そう言って、彼女は手のひらに小さな火花をちらっと灯してみせた。
わずか一瞬。けれど、確かにそこに“光”があった。
「すごい……じゃあ、僕にもできるのかな」
「うーん……アーシェはまだ勉強してないもんね。
でも、やりたいなら、試してみたら?」
僕は深く息を吸って、両手をそっと前に出す。
指先に集中を込めて、思いのすべてをそこに注ぎ込んだ。
「……ふっ」
……何も、起きなかった。
「……あれ?」
力が抜けていく僕の肩を見て、シアナは笑った。
「大丈夫、アーシェはこれからだもん。
やりたいって思ってるなら、きっとできるよ」
「……本当に?」
「うん。アーシェなら、絶対できるよ」
その言葉に、不思議と胸が温かくなった。
「できる」と信じてくれる誰かがいること。
それは僕の中で灯った──小さな光だったかもしれない。
ある村に、「前を語る子ども」がいた。
子どもは言った。
「私は前の世でも生きていた」と。
人々は笑った。
「また嘘をついている」と。
それでも子どもは語り続けた。
見たことのない景色を語り、
誰も知らない薬草の名を告げた。
やがて、その薬草が病を癒やしたとき、
人々は驚いた。
それでも子どもは言った。
「前の世かどうかはわからない。
ただ――心に残る“何か”が、今の私を動かしている」
教訓:
真実を決めるのは言葉ではなく、
それがもたらす結果である。
──「前を語る子ども」
(『森の寓話』より)




