咲くべき場所
僕たちは、すでに山岳地帯を抜けていた。
ここはもう、ドロレアの領土らしい。
街道を避け、鬱蒼とした森林地帯を進む。
空気はひんやりと冷たく、細かな雨が絶え間なく降り続いていた。
この国では、一年の半分ほどが雨季にあたる。
とくにこの寒い季節は、ほとんどの日が雨になる――
そう、クリオが教えてくれた。
◇
ユーナを救出するには、
“蒼の日”――巫女の選定の日を狙うのが最も確実だった。
そもそも、僕たちがこの国へ来た目的も、
その日の儀式を妨害することにあった。
そのため、まずはこの国で“蒼哭の庵”と合流しなければならない。
今度こそ――。
旅立ったときの僕は、何も分かっていなかった。
けれど、ここまで来て――ようやく理解した。
白井として生きた世界では、
人と人の争いは、言葉であり、金であり、権力だった。
だから、この旅のことも、せいぜい“命から遠いデモに参加する”程度のものだと思っていた。
だが、この世界で見た争いには、言葉がなかった。
そこにあったのは、ただ――
“力”そのものの意味だった。
そして、それは、僕の知る“意味”とはまるで違っていた。
小さな頃から、屋敷ではシアナが剣を磨き、エルミナが魔法を研鑽していた。
父もまた、部隊を率いる武人だった。
これほどまでに“武”という力に囲まれていたにもかかわらず、
僕は、その本当の重さを理解していなかった。
この世界での――“力”の意味を。
相手が国家であるなら、僕がこれから成すことは――テロに参加するに等しい。
ただ、怖かった。
ユーナを助けたいという強い意志とは別の場所から、
白井として培った価値観が、重くのしかかってきた。
小さな火を、手の中に灯す。
エルミナの白い炎――あれは、僕には確かに“奇跡”に見えた。
たぶん、あの光に惹かれて、ここまで来たのだと思う。
母から渡された短剣を、そっと握った。
シアナの剣。
何度も僕の前に立ち、僕を守ってくれた。
あの剣があったから、僕は今も生きている。
“力”をどう使うのか――それは、もしかすると免罪符なのかもしれない。
けれど、あの前世で形成された――
命の“意味”を乗り越えなければ、
この世界で、僕は何もできずに死ぬ。
そう確信していた。
「お前は、お前のできることをやれ」
ダルカンの声が響いた。
――なぜだろう。
僕はダルカンの走竜の後ろに乗っていて、顔すら見えないはずなのに。
そのとき、自分の手が震えていることに気づいた。
そうか。
この震えを、ダルカンは感じ取っていたのかもしれない。
「はい……でも、僕に何ができるでしょうか?」
「選べ。そして、やりきれ。
この戦いが終われば、お前をヴァルデンに帰す。
お前はいずれ、いい領主になるだろう。
そうすれば、この世界も少しはマシになるはずだ。」
普段は要点だけを端的に述べるダルカンにしては、
その言葉には、わずかに感情の温度が残っていた。
言葉から感じた。
この人は――強い。
だから、あまり気づかなかったが、
本来は争いが好きな人ではないのかもしれない。
初めて会ったときも、結局、敵対していた僕を殺そうとはしなかった。
そう。
あの瞬間だけ、僕の中で明確な殺意を伴った魔法が、人に向けて発動したのを覚えている。
相手の存在の意味や、恐怖よりも――姉シアナの命の“意味”の方が、ずっと強かった。
ただ、それだけのことだった。
そうだ。
「僕、今度こそ――選びます。
何があっても、選びます。
ユーナさんを」
「ああ」
ダルカンは、短く相槌を打った。
雨音が、二人のあいだを静かに埋めていた。
◇
ドロレアに入って、数日が経っていた。
今日も僕たちは、走竜を駆って西へ進んでいた。
――そのとき、
森林地帯の中に、村のような場所を見つけた。
いや、正確には“かつて村であった場所”だ。
家屋は崩れ、人の気配はない。
魔力の乱れすら感じられない。
草木がすでに建物を飲み込み、
おそらく滅んでから十年近くが経っているのだろう。
ダルカンが、走竜の脚を止めた。
その表情には――どこか、この村を知っているような気配があった。
廃村の外れに辿り着いたとき、
彼は小さく呟いた。
「少し寄っていく」
そう言うと、ダルカンに続いて僕たちは走竜から降りた。
「ダルカンさん、この場所……知ってるんですか?」
ロルが問いかける。
彼は、ダルカンによく懐いていた。
「ああ。――ユーナの故郷だ」
ダルカンの低い声が、雨音の中に静かに響いた。
「誰も……いないよ」
ベルが、不安そうに呟いた。
それから少し歩くと、簡易的な墓が見えた。
不思議な場所だった。
木で作られた小さな墓がいくつも並び、
その周りには――雨の中でも凍りついた花が添えられていた。
「この魔法……ばあちゃんか? ユーナか?」
クリオが小さく呟く。
「ユーナの魔法だ。
イレナさんが、初めてここでユーナに魔法を教えた。
数十年は解けない氷だ」
ダルカンが答えた。
僕は、その花を見ていた。
……ただ、綺麗だった。
「この村は、野盗に滅ぼされたことになっている」
ダルカンの声が落ち着いて響く。
――なっている?
「おそらく、“蒼の教団”がどこかの冒険者でも雇ってやらせたのだろう」
ダルカンは淡々と続けた。
「教団は、野盗や冒険者を雇い、背神的な村を滅ぼす。
そして、村の若い女を――一人だけ生かしておく。
“悲しみを背負う者”として、な」
ダルカンの言葉に、ベルとロルは息を呑んだ。
その顔には、はっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
「ユーナは、この村でただ一人生き残った。
巫女になる者として――“生かされた”んだ。
当時、俺はイレナさんたちと旅をしていて、
“庵”と協力し、教団から何人かの子どもたちを逃がした。
その一人が――ユーナだ」
ダルカンの低い声が、雨の中に静かに響いた。
その声に、誰も言葉を返せなかった。
「だが、我々と出会ったとき
ユーナは――すでに巫女になっていた。
フォーネに“悲しみ”を捧げる日々の中で、
きっと、この村での悲しみを捧げたのだろう。
この国から逃げる際、ユーナも一度ここに戻った。
この村の記憶は、鮮明に残っていると言っていた。
だが、自分の育った村の惨状を目にしても、
“悲しみはない”と、そう言った」
雨の音が、まるで祈りのように墓標を叩いていた。
胸の奥に、痛みが伝わってきた。
僕は――その“気持ち”があるはずの場所に、
その“気持ち”がないという痛みを、少しだけ理解できる気がした。
あの、レールの上を歩くように決められた人生と、
どこか似ているような気がした。
優しかったあの人は、
たくさんの悲しみを抱き、
そして――それを、あるべき場所から失っていた。
廃村を吹き抜ける冷たい風の音が、
不自然なほどに響いた。
雨の音だけが、空虚にこだましていた。




