強者の咆哮
カロニアを旅立ってから、五日ほどが過ぎていた。
扱いが難しいと言われる走竜での旅も――
ダルカンとクリオの慣れた手綱さばきのおかげで、驚くほど順調だった。
道は次第に、昇りと下りを繰り返す山岳地帯の様相を帯びていく。
乾いた岩肌が続き、草木はまばらだ。
谷底から吹き上がる風は冷たく、走竜の脚音が岩壁に反響していた。
これから進むのは――ヴェルダ山脈。
ダルカンの説明によれば、危険な山岳地帯を選んだのは、
蒼聖騎士との遭遇、そして検問の危険を、できる限り避けるためだった。
クリオの言っていた“脅し”は、どうやら冗談ではなかった。
この山には――本当に火竜が生息しているらしい。
『――魔術を磨け』
未来の僕が残した一文。
その言葉は、ずっと胸の奥で静かに息づいていた。
だからこの旅の最中も、僕は日々、魔術の研鑽を意識している。
この山でも同じだ。
見るもの、触れるもの――すべての中に、魔法の“構造”を探していた。
岩の形、風の流れ、光の屈折。
どれもが、“意味”を持つ可能性を秘めている。
竜には会わないに越したことはない。
けれど――その“存在”を知ることができるのなら。
それは、僕にとって何よりも貴重な“知識”になるはずだった。
僕は、その会話を聞きながら、ひとつの疑問が浮かんだ。
前に乗るダルカンの背中に声をかける。
「ダルカンさん。以前フェンさんから聞いたんですが……
“シグルド”って冒険者も、黒竜を斬ったって。
彼も、“勇者”なんですか?」
問いかけると、ダルカンは短く息を吐き、振り返らずに答えた。
「……シグルドは勇者じゃない。
黒竜は、“勇者”にしか斬れん」
その言葉が風に溶けていく。
フェンは――出鱈目を言っていたのだろうか。
「だが、黒竜を“撃退”したのは事実だと聞く」
ダルカンが、少し間を置いて続けた。
なるほど……噂が、どこかで“意味”を変えて伝わったのか。
真実と誇張――その境界は、この世界でも曖昧らしい。
そう考えているうちに、いつのまにか周囲の景色が変わっていた。
道の両側を、高くそびえる岩壁が囲んでいる。
風が通り抜けるたび、砂のような音が響いた。
――完全に、山岳地帯の中心に入っていた。
「この辺りで、夜を越す」
ダルカンが走竜の脚を止めて言った。
目の前には、風を避けられそうな岩場が広がっていた。
日中の熱がまだ石に残っており、そこだけわずかに温かい。
周囲には低木がまばらに生えていて、焚き火の材料にも困らなさそうだった。
僕たちは走竜を休ませ、荷を下ろした。
乾いた風の中に、夕暮れの冷たさが少しずつ混じっていく。
◇
僕らは焚き火を囲み、簡素な食事を取っていた。
焦げた肉の匂いと、薪の弾ける音だけが、夜気を満たしている。
ロルとベルも、どこか楽しそうだった。
わずかな笑い声が、岩肌に反響して消えていく。
食事が終わりかけた頃――ふと、風の流れが変わった。
岩の向こうから、微かな“気配”のようなものを感じる。
「気を抜くな。この辺りには――ヴァルギナが出る」
ダルカンが、低く鋭い声で言った。
「この辺りでは、奴らは火竜の次に危険だ。
小型の吸血竜で、群れを成して動く。
夜目が利くうえに、素早い」
その言葉は、明確に僕へ向けられていた。
焚き火の炎が彼の瞳に反射し、赤く瞬く。
炎の向こうで、ベルとロルが小さく身を寄せ合っている。
その姿を見つめながら、僕の胸の奥で――小さな熱が灯った。
ダルカンは、何も言わない。
けれど、その沈黙がすべてを語っていた。
――この二人を守るという“決意”を。
彼は否定せず、ただ、静かに背を押してくれていた。
焚き火の火が、ぱちりと弾けた。
その音が、夜の静寂に――小さな合図のように響いた。
「アーシェ、お前はロルとベル、そして騎獣を守れ!」
ダルカンの声が、鋭く夜気を切り裂いた。
僕は短く頷き、ベルとロルの肩を掴む。
二人を走竜のもとへ連れていき、その前に立つ。
不思議だった。
牙を剥いた魔物の群れが目の前に迫っているのに――
心のどこにも、“恐怖”がなかった。
あの日、旅立ちの空で見上げたワイバーン。
燃え落ちたラドゥスで見た、リザードマン。
大森林で遭遇した、“意味刻み”と呼ばれた異形。
あのときのような、息を詰まらせる恐怖はもうない。
魔物への恐怖は、確かに僕の中から消えていた。
代わりに、別の記憶が脳裏をよぎる。
カロニアで、無表情に剣を振るっていた蒼聖騎士たち。
あのとき感じた“人の形をした殺意”――
それだけが、今もなお、胸の奥に棘のように残っていた。
だが、僕はまだ知らなかった。
“恐怖”という言葉の――本当の意味を。
次の瞬間、大地が震えた。
岩壁の向こうから、鼓膜を突き破るような咆哮が響く。
空気そのものが震え、焚き火の炎が一瞬で掻き消えた。
「……竜、だ……!」
クリオの声が、轟音に呑まれて消える。
――音が、違った。
それはただの“音”ではなかった。
聴覚の領域を越え、視覚という感覚領域にまで侵入してくる“音”。
まるで、存在そのものが空間を震わせ、世界を塗り替えていくようだった。
空気が裂け、光がねじれ、視界が歪む。
世界の構造そのものが――一瞬、揺らいだ気がした。
闇の向こうで、何かが蠢いた。
次の瞬間、鋭い影が閃く。
一匹のヴァルギナが、まるで紙のように踏み潰された。
地面が爆ぜ、岩が砕け、砂塵が天へと舞い上がる。
そして――それは姿を現した。
暗闇の中――黒煙を纏い、
黄色い双眸をぎらりと光らせる巨大な影。
その体表を這う鱗が、炎を呑み込むたびに鈍く光を放つ。
岩壁を背に立つその姿は、言葉では表せない“支配”そのものだった。
火竜という種族――その存在自体に、“強者”という意味が刻まれている。
それを理解するよりも早く、本物の竜が僕らへ向けて動いた。
地面が鳴動し、空気が爆ぜる。
夜の山が――“捕食者の世界”に変わった。




