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主者選択   作者: シロイペンギン
小さな選択者 ― 幼少編/ヴァルデン領屋敷
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奇跡に魅せられて

 三歳を過ぎた頃に、世界が“名前”とともに立ち上がってくる感覚があった。

「これが手」「あれが母」「彼女が姉」

 言葉と視覚が結びつき、存在に輪郭が与えられていく。

 感情だけで満ちていた景色に、少しずつ“意味”が灯りはじめた。

 名を知ることで、世界が形を取り戻していく――そんな感覚。

 けれどその形は、僕の中にある“何か”と、どこかで噛み合わなかった。


 この世界では、剣が日常にあり、言葉にならない詠唱が力を生み、“マナ”という目に見えないものが空気のように使われ、魔物の話は、物語ではなく現実として語られている。

 そんな景色のひとつひとつが、自分の奥底にある“何か”と、かすかにぶつかるような違和感を残した。

 思い出したわけじゃない。

 けれど、見たことがないはずなのに、「これは違う」と、心の奥が反応してしまう。

 その感覚は、まるで――

 知らないはずの絵に、置いてはいけない色が混じっているような。

 聞いたことのない歌に、馴染みすぎる一音だけが響くような。

 そんな“ずれ”だった。

 何かが残っている。

 でも、それが何なのかは、わからない。

 ただ、それは確かに、僕の中にあった。

 どこか遠くから続いてきた“何か”が、理由もなく、深く、静かに、息をしていた。



 平和な日常だった。


 僕の部屋は、いつも綺麗に掃除されていた。

 壁には――銀色の飾り石が備え付けられていた。

 僕が物心ついたときには、もうそこにあった。

 ただ静かに、不思議な光を放っていた。

 この家は広い。

 石造りの床に、高い天井。

 陽を受けて淡くきらめく大きな窓と、風の抜ける中庭。

 空気は静かで、それでいて冷たくはない。

 “人の温度”が、ちゃんとそこにあった。

 屋敷には、家族のほかにも人がいた。

 出入りを見守る白髪の執事。

 給仕や掃除を担う数人のメイドたち。

 僕が廊下で顔を合わせると、みんな穏やかに微笑んで、ことばなく頭を下げる。


  父のガイルは、寡黙な人だった。

 銀色の短髪に、微かに灰を帯びた黒い瞳。

 常に鋭い目つきで、背が高く、無駄な動きが一切ない。

 時折、屋敷の裏手で、黙々と剣を振っている姿を見かけた。

 けれど、それも稀だった。

 父は、家を空けていることのほうが、ずっと多かった。


 母のリアナは、優しい人だった。

 いつも僕の目を見て、静かに話しかけてくれる。

 有名な魔導の一族の出だと聞いている。

 金色の髪と青い瞳が、その血筋を物語っていた。

 母自身も、かなりの魔導士だったらしい。

 けれど――

 僕の知るこの人は、ただ、

 あたたかい光のような存在だった。


 長女のエルミナは、僕より六つ歳上だった。

 母と同じ、金色の髪と青い瞳。

 言葉はいつも直線的で、回りくどさがない人だった。

 魔導の師とともに修行をしていることが多く、その師は、有名な魔導士だと聞いている。


 次女のシアナは、僕より三つ歳上だ。

 父や僕と同じ、銀色の髪。

 毛先には柔らかなウェーブがかかっている。

 灰を帯びた黒い瞳も、どこか僕と似ていた。

 左目の下には、泣きぼくろがある。

 僕にとって、言葉がなくても通じ合える人だった。

 いつも、そばにいた。

 手をつないでくれたり、絵本を広げて、隣で読んでくれたり。

 貴族の娘にしては活発なのかもしれない。

 それでも――

 僕には、ただ優しい姉だった。



 屋敷の奥には、訓練のために整えられた一角があり、夕方になると、母からはそこに近づかないように言われていた。


「危ないから、あの時間は出ちゃだめよ」


 エルミナの魔法修行がある時間帯だということは、なんとなく知ってしていたら。


 ある日、何気なくシアナに手を引かれ、気づけばその場所の近くまで来てしまっていた。

 言いつけを破っている――

そう思ったはずなのに、なぜか足は止まらなかった。

 少しだけ、胸の奥がざわついていた。

 怖いというより、むしろくすぐったいような感覚。

 いけないことをしているのに、どこかうれしかった。

 それがなぜかは、わからなかった。


 そのとき――僕は、“奇跡”を目にした。


 先生の前に立ち、詠唱の言葉を口にするエルミナ。

 意味はわからない。

 ただ、音のつながりにしか聞こえなかった。

 詠唱の声の直後に、空気が震えた。


 炎が生まれた。


 それは閃きのように立ち上がり、標的に触れた瞬間、木は光の粒となって空へほどけていった。

 炎は、どこか白く見えた。赤でも青でもない、やわらかな光をまとう白。

 熱さよりも、美しさが先にくるような火だった。

 何が起きたのかは、やはり分からなかった。

 けれど僕は、息をするのも忘れて、ただ見つめていた。

 心の奥が、何かにそっと触れられたような気がした。

「……すごいね」

 隣で、シアナがぽつりとつぶやいた。

 僕は、うん、とだけ返した。

 そのとき、そっと手を引かれる。

 言葉はなかったけれど――それが「帰ろう」という合図だと、自然とわかった。



 空はもう、オレンジよりも紫に近づいていた。

 西の空の端に、細い光がかすかに残っている。

 屋敷の裏手では、木々が長く影を伸ばし、その隙間を、夕風が静かに吹き抜けていく。

 足が自然と前へと進んでいた。

 考えるよりも先に、体が動いていた。


 さっきの炎の白さが、まだ頭の奥に残っていた。

 炎なのに、怖くなかった。

 むしろ――きれいだった。

 あれは、なんだったんだろう。

 どうして、あんなふうに光っていたんだろう。

 答えは出ないまま、胸の奥がざわついていた。

 でも、そのざわめきは、なぜか心地よくて。

 僕は、ただただ、あの奇跡に魅せられていた。

 それが、この先の僕を動かしていく“始まり”になると――まだ知らないままに。

昔々、人は知らぬものを恐れ、避けようとした。

見たことのない炎、聞いたことのない雷、

触れれば傷つくものを“禍”と呼んで遠ざけた。


けれど、ある女は言った。

「これは恐怖ではなく、奇跡かもしれない」


人は震える心を畏れと呼び、

同じ震えを憧れと呼んだ。

未知に心を奪われるとき――

人は初めて、奇跡に手を伸ばす。


──「奇跡に魅せられた者」

(真理を抱く魔女ミレイナの『知恵の書』より)

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