奇跡に魅せられて
三歳を過ぎた頃に、世界が“名前”とともに立ち上がってくる感覚があった。
「これが手」「あれが母」「彼女が姉」
言葉と視覚が結びつき、存在に輪郭が与えられていく。
感情だけで満ちていた景色に、少しずつ“意味”が灯りはじめた。
名を知ることで、世界が形を取り戻していく――そんな感覚。
けれどその形は、僕の中にある“何か”と、どこかで噛み合わなかった。
この世界では、剣が日常にあり、言葉にならない詠唱が力を生み、“マナ”という目に見えないものが空気のように使われ、魔物の話は、物語ではなく現実として語られている。
そんな景色のひとつひとつが、自分の奥底にある“何か”と、かすかにぶつかるような違和感を残した。
思い出したわけじゃない。
けれど、見たことがないはずなのに、「これは違う」と、心の奥が反応してしまう。
その感覚は、まるで――
知らないはずの絵に、置いてはいけない色が混じっているような。
聞いたことのない歌に、馴染みすぎる一音だけが響くような。
そんな“ずれ”だった。
何かが残っている。
でも、それが何なのかは、わからない。
ただ、それは確かに、僕の中にあった。
どこか遠くから続いてきた“何か”が、理由もなく、深く、静かに、息をしていた。
◇
平和な日常だった。
僕の部屋は、いつも綺麗に掃除されていた。
壁には――銀色の飾り石が備え付けられていた。
僕が物心ついたときには、もうそこにあった。
ただ静かに、不思議な光を放っていた。
この家は広い。
石造りの床に、高い天井。
陽を受けて淡くきらめく大きな窓と、風の抜ける中庭。
空気は静かで、それでいて冷たくはない。
“人の温度”が、ちゃんとそこにあった。
屋敷には、家族のほかにも人がいた。
出入りを見守る白髪の執事。
給仕や掃除を担う数人のメイドたち。
僕が廊下で顔を合わせると、みんな穏やかに微笑んで、ことばなく頭を下げる。
父のガイルは、寡黙な人だった。
銀色の短髪に、微かに灰を帯びた黒い瞳。
常に鋭い目つきで、背が高く、無駄な動きが一切ない。
時折、屋敷の裏手で、黙々と剣を振っている姿を見かけた。
けれど、それも稀だった。
父は、家を空けていることのほうが、ずっと多かった。
母のリアナは、優しい人だった。
いつも僕の目を見て、静かに話しかけてくれる。
有名な魔導の一族の出だと聞いている。
金色の髪と青い瞳が、その血筋を物語っていた。
母自身も、かなりの魔導士だったらしい。
けれど――
僕の知るこの人は、ただ、
あたたかい光のような存在だった。
長女のエルミナは、僕より六つ歳上だった。
母と同じ、金色の髪と青い瞳。
言葉はいつも直線的で、回りくどさがない人だった。
魔導の師とともに修行をしていることが多く、その師は、有名な魔導士だと聞いている。
次女のシアナは、僕より三つ歳上だ。
父や僕と同じ、銀色の髪。
毛先には柔らかなウェーブがかかっている。
灰を帯びた黒い瞳も、どこか僕と似ていた。
左目の下には、泣きぼくろがある。
僕にとって、言葉がなくても通じ合える人だった。
いつも、そばにいた。
手をつないでくれたり、絵本を広げて、隣で読んでくれたり。
貴族の娘にしては活発なのかもしれない。
それでも――
僕には、ただ優しい姉だった。
◇
屋敷の奥には、訓練のために整えられた一角があり、夕方になると、母からはそこに近づかないように言われていた。
「危ないから、あの時間は出ちゃだめよ」
エルミナの魔法修行がある時間帯だということは、なんとなく知ってしていたら。
ある日、何気なくシアナに手を引かれ、気づけばその場所の近くまで来てしまっていた。
言いつけを破っている――
そう思ったはずなのに、なぜか足は止まらなかった。
少しだけ、胸の奥がざわついていた。
怖いというより、むしろくすぐったいような感覚。
いけないことをしているのに、どこかうれしかった。
それがなぜかは、わからなかった。
そのとき――僕は、“奇跡”を目にした。
先生の前に立ち、詠唱の言葉を口にするエルミナ。
意味はわからない。
ただ、音のつながりにしか聞こえなかった。
詠唱の声の直後に、空気が震えた。
炎が生まれた。
それは閃きのように立ち上がり、標的に触れた瞬間、木は光の粒となって空へほどけていった。
炎は、どこか白く見えた。赤でも青でもない、やわらかな光をまとう白。
熱さよりも、美しさが先にくるような火だった。
何が起きたのかは、やはり分からなかった。
けれど僕は、息をするのも忘れて、ただ見つめていた。
心の奥が、何かにそっと触れられたような気がした。
「……すごいね」
隣で、シアナがぽつりとつぶやいた。
僕は、うん、とだけ返した。
そのとき、そっと手を引かれる。
言葉はなかったけれど――それが「帰ろう」という合図だと、自然とわかった。
◇
空はもう、オレンジよりも紫に近づいていた。
西の空の端に、細い光がかすかに残っている。
屋敷の裏手では、木々が長く影を伸ばし、その隙間を、夕風が静かに吹き抜けていく。
足が自然と前へと進んでいた。
考えるよりも先に、体が動いていた。
さっきの炎の白さが、まだ頭の奥に残っていた。
炎なのに、怖くなかった。
むしろ――きれいだった。
あれは、なんだったんだろう。
どうして、あんなふうに光っていたんだろう。
答えは出ないまま、胸の奥がざわついていた。
でも、そのざわめきは、なぜか心地よくて。
僕は、ただただ、あの奇跡に魅せられていた。
それが、この先の僕を動かしていく“始まり”になると――まだ知らないままに。
昔々、人は知らぬものを恐れ、避けようとした。
見たことのない炎、聞いたことのない雷、
触れれば傷つくものを“禍”と呼んで遠ざけた。
けれど、ある女は言った。
「これは恐怖ではなく、奇跡かもしれない」
人は震える心を畏れと呼び、
同じ震えを憧れと呼んだ。
未知に心を奪われるとき――
人は初めて、奇跡に手を伸ばす。
──「奇跡に魅せられた者」
(真理を抱く魔女ミレイナの『知恵の書』より)




