泡響
雨が、さらに強くなっていた。
三人の蒼い騎士が、泥に沈むように倒れている。
その中央に――僕が“選ばなかった”結果があった。
“ピッ……ピッ……”
耳の奥で、オペ室の警告音が鳴った気がした。
前世のあの“選ばなかった夜”が、いまの光景に静かに重なる。
雨音に混じり――
ブク、ブク、と音が響く。
その音は、まるで“生”が“死”から逃れようともがく声のように感じた。
視界の先――
その音の主である、巨大な水球があった。
透明な球体の中で、ユーナが意識を失ったまま浮かんでいる。
その髪が、ゆっくりと水の中で揺れていた。
口もとから、小さな泡がのぼっていた。――まだ、生きている。
『ユーナを、助けなければ』
そう思った。
けれど――僕には、
その泡が、モニターに映る“命の線”のように見えた。
あの線を見た瞬間、全身から力が抜け落ちた。
「まさか……一人になってくれるとはね」
水球の背後から、低い声が響いた。
ザイアスだった。
「おかげで、逃げた巫女を生け捕りにできました。
――フォーネ様も、お喜びになるでしょう」
彼はゆっくりと笑いながら、隣に立つ二人の蒼聖騎士へ視線を向けた。
その笑みには、信仰の熱ではなく――支配の愉悦が滲んでいた。
僕は、ユーナの顔を見た。
……体が、動かない。
この感覚――あのときと同じだ。
あの少年の顔がよぎる。
もう、はっきりとは思い出せない。
僕には、雨音と泡声だけが聞こえていた。
「一応、ガキも殺しておきましょうか」
ザイアスの手に、冷たい水の魔力が収束していた。
――次の瞬間、水の刃が放たれる。
だが、その一撃は僕に届かなかった。
何かが、鋭い音と共にそれを弾いた。
目の前に、ひとりの影が立っていた。
「……アーシェ、大丈夫か?」
クリオだった。
彼は、水球の中のユーナへ視線を向ける。
「ユーナ、待ってろ。すぐに出してやる」
クリオの声は低く、確かな熱を帯びていた。
「残響者とは……やっかいですね」
ザイアスが薄く笑い、指先で水球の表面をなぞる。
「一体、今までどれだけの“意味”を奪ったのやら」
何を言っているのか、僕には理解できなかった。
いや――理解しようと、すらしていなかった。
次の瞬間――
何かが、光った気がした。
「……黙ってろ」
――いつの間にか、クリオはザイアスの背後にいた。
その剣先から、冷たい雫が滴る。
ザイアスは、すでに切り裂かれていた。
そして、ゆっくりと崩れ落ちた。
――しかし、違和感がある。
傷口から溢れたのは、赤ではなかった。
この雨と同じ、透き通るような蒼。
まるで、彼自身が“水”で形を成しているかのようだった。
そして――崩れ落ちたザイアスは、完全に“水”へと溶けていった。
その水の周りに、二人の騎士が倒れていた。
おそらく――クリオが、あの一瞬で斬っていたのだろう。
彼は、あまりにも強かった。
彼がいれば、それで充分だと感じた。
“クリオがなんとかしてくれる”
“彼が、ユーナを助けてくれる”
そう――信じていた。
けれど、その信頼の裏で、
自分がまた“逃げている”という自覚もあった。
さらに強まった雨の音が、泡響をかき消していく。
「アーシェ! クリオ、大丈夫か!」
ダルカンの声が響いた。
振り返ると、彼の背後にはいくつもの倒れた兵の影がある。
――おそらく、相当な数を斬り抜けてきたのだろう。
この二人がいれば、安心だ。
僕は、この“七歳”という存在の奥に隠れ、すべてから逃げた。
次の瞬間――
……なんだ?
強烈な魔力を感じる。
僕は呆然と、その魔力の出どころに目を向けた。
奥の建物の屋上に、ザイアスの姿が見えた。
「私の騎士は、全員――殺されてしまいましたね。……困りますね」
「この町が、こうなってしまうのは、あなたたちのせいですよ」
その声と同時に、凄まじい魔力が空気を震わせた。
マナが揺れていた。
「奴は、この一帯を、流し去るつもりだ」
ダルカンの声が低く響く。
クリオが、こちらを見据えた。
「――アーシェ。お前が、なんとかしろ。今、止められるのはお前だけだ」
僕は、全身が震えた。
「……どうやって?」
クリオは、何も答えなかった。
誰かが道を決めてくれたなら。
どうすればいいのかを教えてくれたら――
僕にも、何かできるかもしれない。
でも――
「……すみません」
水球の中のユーナを見る。
『ごめんなさい』
僕には、何もできない。
「まぁ、そうだな。仕方ねぇ」
クリオは、いつものように――僕に笑いかけた。
ダルカンが僕の肩を優しく叩き、前へ出る。
彼は僕とクリオの前に立ち、剣を抜いた。
次の瞬間――
ザイアスから、“水”が放たれた。
それは、まるで災害のようだった。
圧倒的な量の水が、僕らを――そしてこの一帯そのものを――呑み込もうと襲ってきた。
水が、すべてを飲み込みながら迫ってくる。
僕らの前に立ったダルカンは、引かなかった。
僕はもう、このまま――
この水に呑まれて死ぬことを、覚悟していた。
まさに、水が僕らを襲うその瞬間。
ダルカンが――水を斬った。
いや、何を斬ったのかは分からなかった。
ただ、彼の斬った“空間”は、確かに捻れていた。
その捻れの奥に、不干渉の領域が生まれ、
僕らはその中で守られている。
すべてを飲み込んでいた奔流が、
彼の斬った“空間”だけを避けて流れ続けていた。
周囲は、すべて水に包まれている。
まるで――海底のような世界。
そこに、ユーナの水球はまだあった。
流されず、静かに揺れている。
僕はそれを視界に捉え、ほんの一瞬だけ安堵した。
……その瞬間。
水の中を、竜のような存在が駆け抜けた。
その口が、水球をさらっていく。
僕は反射的に、ダルカンが作った安全域から飛び出そうとした。
――何も選ばなかったくせに。
今さら……。
だが――それも、
クリオに肩を掴まれ、動けなかった。
数十秒後。
水は、去った。
この一帯は――
僕らの周囲を除いて、何もかも流されていた。
そして、雨は上がっていた。




