血と灯のあいだで
星々には薄い雲がかかり、
気づけば、頬を濡らすほどではない雨が静かに降っていた。
カロニアの城下町は、もう目の前だった。
「……静かだな」
クリオがぽつりと口にする。
たしかに――
人が眠りにつくには、まだ早い時間だ。
それなのに、妙に静かすぎた。
城下町の門は開いていた。
けれど、そこに見張りの姿はなかった。
僕らはそのまま、静かに門をくぐる。
石畳には雨が薄く滲み、
まるで町全体が――息をひそめているようだった。
「……なんか、おかしくない?」
ユーナが小さく呟いた。
町のあちこちに灯りは見える。
けれど――その光は、どこか“静かすぎる”ように感じた。
僕たちはダルカンを先頭に、蒼哭の庵の隠れ家へ向かっていた。
この街での目的は、そこで協力者と接触することだ。
けれど――僕自身の目的は、まだはっきりしていない。
ただ、「世界を見たい」という衝動に突き動かされて、
この人たちと共に行くことを選んだ。
僕たちは大通りを進んでいた。
「……止まれ」
ダルカンの低い声が、静かな雨音の中に響いた。
彼の視線の先――
蒼い鎧をまとった兵士が、数名、建物の中から出てくるのが見えた。
その頼りない灯りの下でも、はっきりとわかる。
鎧の蒼に、ところどころ赤い飛沫が散っていた。
……血だ。
おそらく、返り血。
胸の奥が、かすかにざわつく。
乾いた鉄の匂いが、雨に混じっていた。
「……蒼聖騎士」
ユーナが息を呑むように呟く。
“蒼聖騎士”――ドロレア教団直属の騎士団
なぜ、この国に……。
ダルカンは脇道へとそれた。
僕たちは、その背中を追うように歩く。
「あの……蒼聖騎士って、何をしに来てるんでしょうか?
わざわざ、他国に出向いてまで」
となりを歩くユーナに、小声で問いかけた。
教えてもらえないかと思ったが、
ユーナは静かに口を開いた。
「ドロレアは――哀しみの神フォーネを信仰する教団が支配する国。
教団は、数年に一度、雨の季節に“巫女”を選ぶの」
彼女の表情には、何かを秘めた影が差していた。
「その儀式で、あの国は神へ――哀しみを捧げる」
その言葉は、なぜか遠すぎて。
僕の中で“意味”にまで届かなかった。
「哀しみを捧げるって、どういうことですか?」
僕の問いに、ユーナは一瞬、言葉を飲み込んだ。
すると、後ろからクリオが代わりに答えた。
「そのままの意味だ。
やつらの信仰に反対した者は――片っ端から殺していく」
その言葉も、まだ僕には遠かった。
だが、そのとき――頭をよぎった。
『――“選択”を、ほんのすこーしだけ僕にくれたらね』
あの、ティルザとの契約の言葉が。
その記憶が、“哀しみを捧げる”という言葉の意味を、
急に現実のものとして感じさせた。
「でも、そんなことのために――人の命を」
その言葉は、自然に口をついて出た。
前世の僕が医師だったからだろうか。
いや、この世界における“命の価値”が――
魔法や魔物の存在よりも、ずっと“僕の知るそれ”とは
……違って感じられたからだろう。
先ほど見た、蒼に滲む赤が――鮮明に脳裏に浮かぶ。
胸の奥が、ざわめいた。
そして――そのときだった。
僕たちが路地を抜けようとした瞬間。
「おい、お前たち! 冒険者か?
こんな時間に何をしている!」
脇道の陰から、蒼聖騎士が姿を現した。
「この国じゃ、今は十八時以降は外出禁止なんだ。
ルールは守ってもらわないとな。……宿はあっちだ、早く寝ろ」
そう言いながら――その視線は、フードの下から覗くユーナの蒼い髪に向けられていた。
騎士はすぐに去っていったが、僕は気になった。
「さっきの騎士……妙に、ユーナさんを見てませんでしたか?」
ユーナは黙ったままだった。
その沈黙の奥に、何かを隠しているような気がした。
すると――
ダルカンの低い声が、夜気を震わせるように響いた。
「ユーナの髪は、フォーネに“選ばれし者”の色だ。
奴ら……恐らく、我々を包囲してくる。
アーシェ、お前も覚悟をしておけ」
その言葉のすべてを理解できたわけではない。
けれど――狙われている、ということだけははっきりとわかった。
そして――僕たちが大通りに出た瞬間。
「……いや、もう包囲されてるぜ」
クリオの声が低く響いた。
「蒼令長、あのローブの女です。
間違いありません。蒼が刻まれた髪でした」
さっきの騎士だ。
奥に立つ蒼いローブの男へ、報告している。
年の頃は四十前後だろうか――
冷えた雨の中、その瞳だけが異様に静かだった。
「……ザイアス・ロウヴェル」
ユーナが、かすかにその名を呟いた。
「ユーナさん。お久しぶりですね」
蒼いローブの男が、ゆっくりと歩み出る。
「俗世の空気は――いかがです?
貴方が家でをしてしまって、フォーネ様もさぞ哀しまれたことでしょう。
……それで、何故また、のこのことこんな場所へ?」
その声音は、丁寧でありながらどこか冷たく、
礼の裏に刃を隠しているようだった。
「フォーネに奪われたものを、取り戻しに来ただけ」
ユーナの声が、静かに響いた。
「……そうですか」
ザイアスはわずかに微笑む。
「神が、贄を返したなど――聞いたこともありませんが。
まあ、どちらにせよ同じこと。
“残響者”は死罪です。
ここで――哀しみへと還っていただきましょう」
僕は周囲を見渡した。
蒼の騎士が――ざっと十人はいる。
完全に包囲されている。
逃げられない。
こんな街中で、ダルカンはどう判断する――。
ダルカンとクリオが前に出た。
正面突破するのか。
“人”と戦うのか。
胸の奥が"ざわつく"。
クリオが剣を抜き、さらに一歩、前へ出た。
「お前らさ……やっぱりやべぇよな。
しかも、よそ様の国だろ、ここ?」
クリオの前に立った兵が、低く笑う。
「こんな小国の異端者どもが――
神に哀しみを捧げられるなら、本望だろう?」
ひときわ冷たい風が吹いた。
何かが――黄金に、閃いた気がした。
気づけば、その兵は静かに崩れ落ちていた。
クリオの剣は、風すら置き去りにするほど速い。
倒れた兵の姿が、僕の目に映る。
その瞬間――胸の奥で“ざわつき”が“ざらつき”に変わった。
僕の身体も――勝手に震えていた。
ユーナの視線を感じる。
その横で、ダルカンが動いた。
無駄のない一閃――
一人、また一人と蒼の騎士が斬り伏せられていく。
胸の“ざらつき”が、さらに強くなった。
これは、魔物への恐怖とは違う。
もっと――生々しく、逃げ場のない恐怖だ。
僕はその感情に、完全に支配されていた。
少しずつ、意識がぼやけていく。
『お前は三十年も、正しいレールを歩き続けたのだろう?』
前世の自分の声が、頭の奥で、微かに響いた気がした。
そう、これは正当防衛だ。
やらなければ、やられる。
きっと――“正しい道”のはずだ。
……それでも。
どこか、酒の匂いや灯り――
そんな日常の色が、まだ残るこの町で。
血の匂いと剣戟の音という“非日常”だけが、
不気味なほど、くっきりと浮かび上がっていた。
その瞬間、恐怖の正体を理解した。
僕の中で“人と殺し合う”ということは、
“魔物と戦う”ことよりも――ずっと遠くにあったのだ。
その距離の先は、あまりにも遠く、何も見えない。
ただ、世界の音が――少しずつ、遠のいていくのを感じた。
僕の意識は――曖昧になっていった。




