因果の溝
僕とクリオは、大森林の一帯に築かれた“氷の帝国”を彷徨っていた。
大蛇を撒けたのはいいが――どうやら、今度は僕たちが迷っているらしい。
それでもクリオは、いつものようにヘラヘラと笑っている。
僕らは直感で西へ向かっていたが、その判断は、どうやら正解だったようだ。
氷の地面に、一本だけ色の違う線が走っていた。
「おっ、ユーナ様。流石、気がきくな」
僕もすぐに理解した。
おそらくユーナは、僕らが合流できるよう、あらかじめ魔法に“道標”を組み込んでいたのだ。
大蛇に刻まれた“意味”を想定し、
それを“剥がす”ための魔法。
さらに、僕たちが大蛇の攻撃で分断された場合に備え、
目的地の方角を見失わないようにするための対策まで――。
あの一瞬でそこまで考え、選び、そして実行していたのだと思うと、息を呑んだ。
道標に従ってしばらく進むと、
白一色だった氷の世界を抜け、見慣れた森の緑が視界に戻ってきた。
そして――木の影で、二人は僕らを待っていた。
「アーシェ、無事で良かった……!」
ユーナは泣きそうな顔で、僕に抱きついてきた。
「魔法の意図、理解してくれたみたいだね?」
「はい。クリオさんのおかげです」
ユーナはほっとしたように微笑み、
ダルカンも僕らの無事を確かめて、わずかに口元をゆるめていた。
「おいおい、ユーナ。俺の心配もしろよ」
ふざけた調子のクリオに、
ユーナは少しだけ冷たい笑みを返した。
「クリオは大丈夫でしょ。――逃げるの、得意だし」
みんな笑っていた。
死線を越えたばかりなのに、どうしてか笑えていた。
胸の奥に、確かな“生”の感触があった。
前世から続く人生の中で――いまがいちばん、強く生きていると感じた。
◇
そこからは、森を抜けるだけだった。
マナの乱れも解け、方角もすぐにわかった。
おそらく、あの大蛇の接近によって一時的に乱れていたのだろう。
追跡者は舌を切られたことで感知能力を失い、
いまもなお、氷の帝国を彷徨っているに違いない。
確かに危険な森ではある。
けれど、この仲間たちにとっては――
もはや“安全な森”の部類に入るのだろう。
◇
夕光が差し込む頃、森の木々が徐々にまばらになってきた。
「予定通りだな。――そろそろ森を抜けられそうだ」
ダルカンの低い声が、静かな風の中に小さく響いた。
その横で、クリオの鼻をすする音が聞こえる。
「やべぇ……なんか、鼻がやべぇーわ。変な森入ったから、無響病とかだったらどうしよ」
たしかに、さっきからずっと鼻をすすっている。
冗談めかしてはいるが、声にわずかに不安が混じっていた。
「おばあちゃん、いつも“無響病は迷信だ”って言ってるよ」
ユーナは呆れたような顔でそう言った。
僕は、クリオを見ながら考えた。
……おそらく、寒冷刺激で粘膜が反射的に反応しているだけだろう。
もう、氷の世界を出てから二時間以上は歩いている。
それでも症状が続くのは、少し気になる。
だが――問題はないはずだ。
僕にできるのは、推察で状況を判断し、対応することくらいだ。
なぜなら、この世界そのものに、
原因と結果のあいだの“観察”という段階が欠けているからだ。
ミクロの世界を覗く顕微鏡も、
体の奥を透かして見るレントゲンもない。
もっと単純な、温度や速度を正確に測る手段すら乏しい。
もし、そうした構造や測定の仕組みを僕がもっと理解していれば、
魔法で再現できる可能性もあるのかもしれない。
……とはいえ、僕が詳しいのは医学だけだ。
それ以外は、せいぜい受験勉強でかじった程度。
いや、そもそも全てを魔法で解決しようとするのが安易なのかもしれない。
温度計のような最低限の道具なら、自作できるかもしれない。
……また、やってみよう。
◇
そうこうしているうちに、木々はさらに減っていった。
そして――僕たちは、森を抜けた。
空はすでに、薄暗く染まりはじめていた。
クリオの鼻水も、もう収まったようだ。
何事もなかったかのように、ユーナに冗談を飛ばしている。
おそらく、推察どおり寒冷刺激に対する一時的な反応だったのだろう。
……良かった。
◇
その後の僕たちは順調で、夜には街道までたどり着いた。
そして翌日の夜には――
小国カロニアの城と、その城下町が見えてきた。
屋敷を出た日の空を、ふと思い出す。
あのときと同じ種族なのだろうか――
ワイバーンが、雲の切れ間をゆっくりと飛んでいた。
その後も、何度か見かけた。
あの魔物は、人を滅多に襲わない。
あの姿を見上げるたび、
僕は――ほんの少しだけ“変われた気がする”自分を感じていた。
自分は選択をしている。
そして意味を持って生きている。
そう思っていた。
微かに、雨粒を感じる。
けれど、まだわかっていなかったのだろう。
アーシェとしての“七年”を積み重ねた僕と、
白井悠真として“三十年”を生きた僕。
その四倍以上の時間の“差”が――
この、残酷な現実を前にして、どれほど重い意味を持つのかを。
この地で、僕たちを待つもの――。
――蒼哭の庵。
そして、静かに――悲しみの影が迫っていた。




