森の野外学習
漁村の朝。
夜とは違う、澄んだ塩の匂いがする。
波音にまぎれて、誰かの笑い声が遠くで響いた。
僕たちはこれから、西の国――カロニアを目指す。
ダルカンの話では、大森林を越えてカロニアへ着くまで、十日ほどの旅になるらしい。
安全な街道沿いの道もあるが、この時期は国境の通過に時間がかかる。
少し危険ではあるが、彼の選んだのは――森を抜けるこのルートだった。
「ほら、見ろよアーシェ。あの陽の光、縁起がいい」
クリオが笑いながら肩を叩く。
その隣で、ユーナは小さく息を吸い込み、潮風を胸いっぱいに受け止めていた。
「……海の匂い、もう少しだけ覚えておきたいな」
その声に、僕はうなずく。
東の空には、まだ淡い朝焼けが残っている。
その光の下で、ボランが見送ってくれた。
振り返ると、彼の笑顔が朝の光に溶けていく。
僕は、またこの村に来たいと思いながら――静かに街道へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
僕たちがマリスを発って、すでに三日が過ぎていた。
朝の光の中、街道から外れた道を進むにつれ、木々の密度が増していくのがわかる。
湿った風が頬をかすめ、森の匂いが少しずつ強くなっていった。
「そろそろカロニア大森林だ。この辺りからは魔物も多くなる。気をつけろ」
先頭を歩くダルカンが、短くそう告げる。
その声に、僕たちは自然と歩調を合わせた。
周囲の音が静まり、鳥のさえずりさえ遠くなる。
森が――僕らを試すように、口を閉ざしていく。
「この森にはさ、オルバス・ネイラって、三十メートルぐらいの蛇がいるらしいぜ」
クリオが僕を脅すように言ってくる。
「でも、以前の依頼でユーナさんが、そのオルバスを簡単に凍らせてましたよ」
「お前なぁ……ちゃんと話、聞けよ? 三十メートルだぜ?」
呆れたようにクリオが肩をすくめる。
そのやり取りに、ユーナが苦笑いを浮かべた。
「……あれは普通の個体。ネイラなんて出てきたら、さすがに無傷では済まないよ」
「僕、まだクリオさんが戦ってるところ見たことないんですけど。
シアナにも、ぶっ飛ばされてましたし」
「おっ……お前、ちょっと言うようになってきたな! いい傾向だ!」
クリオがわざとらしく胸を張ると、ユーナが小さく吹き出した。
その少し後ろで、ダルカンも静かに笑っていた。
森の奥から吹いた風が、僕らの笑い声をさらっていく。
◇
すごい森だ。
けれど、マナの流れ自体は安定している。
短い間だったけれど――イレナとユーナさんに魔法を見てもらったおかげで、
自分の中の何かが確かに変わっているのを感じる。
以前より、この世界の“住人”になっている。
そんな実感があった。
そして、それが僕には――素直に、嬉しかった。
「これ、火薬草だ!」
ユーナが草を見つけて、ぱっと声を上げる。
「アーシェ、これちょっと燃やしてみて。
でも気をつけて――すごく燃えるから」
僕は言われた通りに、小さな炎で火をつけてみた。
次の瞬間、
草がぱっと光を放ち、驚くほどの勢いで燃え上がった。
「うわっ!」
思わず後ずさる僕の前で、ユーナがすぐに水魔法を放つ。
炎は蒸気とともにしゅうっと消えた。
「すごいですね……」
「でしょ?」
ユーナが満足そうに笑う。
「こういう素材を覚えて、魔法のイメージにはめるのが大切だよ」
僕は頷きながら考えた。
確かに、僕の中で“可燃物”といえば石炭や石油だ。
けれど、実際にそれが燃えるところを見たことはない。
――因果の再現度には、知識だけでなく実体験も重要だ。
おそらく、魔法の精度には、こうした具体的な実感こそが何より関わってくるのだろう。
◇
炎の残り香がまだわずかに漂っていた。
歩きながらふと見上げると、木漏れ日の色が少し柔らかく変わっている。
「なんか他にも、アーシェの勉強になるいいものないかなー?」
ユーナはきょろきょろと周囲を見回していた。
「ユーナ、楽しそうだな」
クリオが嬉しそうに言う。
「だって、森って教科書みたいなもんだよ。
見たことのない魔物、薬草、鉱石――何だって勉強になる」
「教科書、ですか」
僕はつぶやいた。
確かに、この世界の理を学ぶなら、
紙の上よりも、こうして歩く一歩一歩のほうがずっと多くを教えてくれる。
木の葉の匂い、光の揺れ、風に混ざるマナの気配――
それら全部が、この世界の“言葉”のように思えた。
「――あっ!!」
ユーナがしゃがみ込み、目を輝かせた。
「エリンシア苔だ! これ、すっごい珍しいやつだよ!
高級回復薬とかに使う素材! ちょっと拾っていこ!」
僕も覗き込む。
苔は淡い銀緑色に光っていて、触れるとひんやりとした感触が指先に伝わった。
「仕組みがね、私にはちょっと難しすぎて……魔法への応用は、おばあちゃんくらいしか無理かな」
ユーナが笑いながら言う。
「おばあちゃんは“細胞の分裂のリズムがどうのこうの”って言ってたけど、
正直、私にはさっぱりでね」
僕はその言葉を聞きながら、ふと考えた。
――細胞の分裂のリズム。
もし、それをマナの流れとして再現できるなら……
治癒魔法の構造に組み込めるかもしれない。
僕はそっと、その苔を少しだけ採取した。
落ち着いたら、調べてみようと思った。
なぜだろう。
前世では、ただ“レールを進むため”に蓄えてきた知識が、
今は、好奇心や楽しさに結びついているように感じる。
この人たちと旅をしていると、
世界を知ることそのものが――少しだけ、愛おしく思える。
◇ ◇ ◇ ◇
僕たちがカロニア大森林を進み始めて、四日目の朝を迎えていた。
比較的安全とされる外縁部を抜けているらしく、
予定通りにいけば――今日の夜には森を出られるはずだった。
ここまでに小型の魔物に襲われることは何度かあったが、
行程そのものは順調だった。
◇
僕たちは、黙々と歩き続けていた。
森の中では光の加減で時間がわかりにくい。
腹の虫の鳴き具合からして、おそらく昼頃だろう。
穏やかな風が吹いていた。
――はずなのに、ふと、空気が変わる。
森の奥から、重く湿った風が流れ込んできた。
まるで誰かが森の奥で、息を吸い込んだかのように。
「クリオ。お前が初日に言った余計な一言が――現実になりそうだな」
ダルカンが、真剣な目で口を開いた。
「えっ……まじで?」
クリオが顔を引きつらせる。
「クリオのせいね……」
ユーナが小さく呟く。
僕にもすぐにわかった。
――何のことを言っているのか。
目の前に、森の地面をえぐるような跡があった。
幅は人の背丈をゆうに超え、草木がなぎ倒されている。
土の切り口はまだ湿っており、ついさっきまで何かが通ったばかりのようだ。
そこに刻まれたうねりは、まるで巨大な蛇が這った道そのものだった。
……本当に、三十メートルはありそうだ。
森の奥で、何かが――ゆっくりと動く音がした。




