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主者選択   作者: シロイペンギン
哀雨に濡れし者 ― 少年編 /ドロレアへの旅道
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潮風と蒼き影

潮の匂いが鼻をくすぐり、夕陽が波間を染めていた。

僕たちはその光に背を押されるようにして、漁村マルスへと足を踏み入れる。


「まずは宿の確保だ」

ダルカンが短く告げると、すぐ横でクリオが大声を上げた。


「よし、俺は早く飯にしたい! 魚料理だ、魚!」


その言葉に合わせるように――

ぐう、と腹の虫が鳴った。

ユーナが顔を赤らめて視線を逸らし、僕らは思わず笑いをこらえた。


潮風に混じる笑い声は、長い旅の疲れを少しだけ溶かしてくれる気がした。


ただ、小さな村に宿などあるのだろうか。

僕は少し疑問に思ったが、ダルカンたちの足取りは迷いがなかった。

どうやら、この村が初めてではないらしい。


やがて村の外れに建つ一軒の建物へとたどり着く。


「ここだ」

ダルカンが立ち止まり、短く告げる。


視線の先には、塩風に晒された木造の建物があった。

看板はすっかり色褪せているが、灯りの漏れる窓から人の気配が感じられる。


「……久しぶりですね」

ユーナが目を細めた。


「ユーナさん、ここは来たことが?」

僕は思わず、先ほどまでの推測を口にした。


ユーナは少しだけ目を細め、建物を見上げる。

「うん。五年ほど前に、一度だけ……あのときはおばあちゃんも一緒に」


潮風に揺れる彼女の横顔に、懐かしさが淡くにじんでいた。


ダルカンを先頭に、僕たちは建物の中へ足を踏み入れた。

鼻をつく酒の匂いに、焼かれた魚の香ばしさが混じって漂ってくる。

一階が酒場になっていて、笑い声や器のぶつかる音が響いていた。


小さな村のはずなのに、この空間だけは思いのほか賑やかだった。


ダルカンはまっすぐカウンターへ向かった。

木の板は潮で少し黒ずみ、空のジョッキが二つ放り出されたままになっている。

だが肝心の店主の姿は見えなかった。


「マスター、いないのか?」

ダルカンの低い声が、ざわめきの中で意外に大きく響いた。


僕たちもその後ろに並ぶ。

酒場の喧騒から切り離されたように、カウンターの前だけが妙に静かに感じられた。


すると――

「ダルカン! 来てくれたのか!」


豪快な声が背後から響いた。

振り返ると、逞しい体格の男が両腕を広げて立っていた。


「おお、ユーナにクリオか! 二人とも――いい女、いい男になったな!」


声と一緒に響いたのは、腹の底からの笑い声。

三人はそれぞれ、この男に軽く会釈を返す。


やがてその視線が、僕に移った。

「……おっ? 知らねえ顔だな?」


「アーシェ・アルセリアです。

 今は旅に同行させていただいてます」


僕が名乗ると、男は少しだけ目を見開いた。

「アルセリア……イレナさんの弟子か?」


そして次の瞬間、豪快に笑いながら胸を叩く。

「俺はボラン、この宿の店主だ! よろしくな!」


「よろしくお願いします」


ダルカンとボランが言葉を交わしているあいだに、

僕たちは酒場の一角へと腰を下ろした。


粗削りな木の机に手を置くと、潮気を吸った板がじっとりと指先に張りつく。

油灯の炎がゆらめき、漁師たちの笑い声とジョッキのぶつかる音を黄金色に染めていた。

ざわめきは絶え間なく波のように押し寄せ、この小さな酒場全体をひとつの船に変えてしまったかのようだ。


――その中に混じる七歳の僕は、やはり場違いだった。

潮風に焼けた肌、節くれだった腕。

男たちの豪快な笑い声の中で、僕だけがひときわ小さく、頼りなく感じられた。


たしか、ユーナは十八で、クリオは二十だったはずだ。

二人とも場に圧倒されることなく、静かに腰を落ち着けていた。

ユーナは隣の漁師に軽く会釈を返し、

クリオは静かに杯を手に取り、場のざわめきを受け止めている。


やがてダルカンが席にやって来て腰を下ろした。

そのすぐ後、ボランが両腕に大皿を抱えて現れる。


焼き魚の香ばしい匂いと、煮込みから立ちのぼる湯気が、

一瞬にして僕たちの席を満たした。


「ダルカン、くれぐれも頼んだぞ」

そう言い残し、ボランは豪快に肩を揺らして笑うと、

ざわめきの中へと戻っていった。


ボランの言葉が気にはなったが、

次の瞬間、目の前の料理にすべての思考をさらわれた。


大皿に盛られた焼き魚は皮がこんがりと割れ、油がきらりと光っている。

煮込みの鍋からは白い湯気が立ちのぼり、その香りが容赦なく腹を刺激した。


「よっしゃー!」

クリオが子どものように勢いよく手を伸ばし、

ユーナは隣で控えめに微笑んで「いただきます」と口にする。


二人の対照的な仕草に、思わず口元が緩んだ。

僕も小さく「いただきます」と呟き、少し照れながら手を伸ばした。


たわいのない話を交わしながら、

皿の上の魚もすっかり骨ばかりになっていた。


やがてダルカンが低く口を開く。

「……やはり、この村にも蒼聖騎士が捜索に来たらしい」


その名を聞いた途端、ユーナとクリオの表情がぴたりと引き締まった。

酒場のざわめきが、遠くへ退いていくように思える。


――蒼聖騎士。

たしか、ドロレア教団の直属の騎士団……。


「明日からは、まずカロニアを目指す。

 そこで――蒼哭の庵の協力者と接触する」


ダルカンの言葉に、僕は思わず息を呑んだ。

蒼哭の庵――かつて巫女が築いたという、

教団に追われる者たちの隠れ家。


その名を聞くだけで、胸の奥がざわめいた。

次に何が待つのか、想像もつかないまま。

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