ざらざらな世界
二歳になる頃には、小さな心の変化を自分でも感じていた。
泣きたい、嬉しい――そんな感情は、幼い肉体に強く依存して押し寄せてくる。
一方で、理屈を組み立てようとする思考は、まだ形を持てず、すぐにほどけてしまう。
脳が育たなければ、記憶も理屈も思うようには使えないのだと、ぼんやりとした感覚が教えていた。
そして胸の奥には、もうひとつ別の違和感が残っていた。
記憶の底に眠るはずの言葉と、この世界で耳にする言葉が噛み合わない。
どちらも確かに意味をもっているのに、重ね合わせることができず、理解の輪郭を揺らしてしまう。
その小さな“ずれ”が、世界そのものをつかみ損ねる原因になっていた。
――そんな中で。
ひとつの“音”だけは、鮮明に心に沈んでいった。
「アーシェ」
母の声。姉の声。父の声。
繰り返されるその響きが、確かに僕を呼んでいる。
胸の奥がじんわりと反応するのは、そのせいだろうか。
完全に理解できたわけではない。
けれど、呼ばれるたびに――その音が“自分”と結びついていくのを感じていた。
アーシェ。
それが、自らを指し示す音。
まだ輪郭はぼやけていたけれど、確かに、その音から“僕”という存在が形を持ちはじめていた。
◇
成長とともに、“音”が意味を持ちはじめた。
そして、家族もまた、少しずつ“構成”として見えてきていた。
父は滅多に屋敷にいない。
姿を見かけるときは、いつも剣の鍛錬をしている。
その背は、大きくて、なぜか少しだけ胸がざわついた。
母は穏やかで、やわらかな声で僕を包んでくれる。
けれど、その人には――どこか不思議な雰囲気があった。
それでも、母のそばにいるときの安心感だけは、説明のつかないほど確かだった。
姉が二人いる。
上の姉は、僕よりずっと年上で、大人びて見えた。
金の髪が陽に透けて揺れ、何か不思議な力を扱っている姿を、僕は覚えている。
涼やかな眼差しは冷たそうに映ることもあったけれど手を差し伸べるときは不思議とやわらかい。
下の姉は、僕に少しだけ近い年頃。
銀の髪は先でやわらかく波打ち、笑えばくるくると跳ねる。
好奇心に満ちた瞳で、僕を見つけるとすぐに駆け寄ってくる。
「アーシェ!」
僕を呼ぶのは、いつも下の姉の方だ。
その横で、もう一人の姉は静かに僕の歩みを待っている。
二人の仕草は、まるで対照的だった。
◇
最近、僕は前より遠くまで歩けるようになった。
揺籠の外の世界は、ひろくて、まぶしくて、知らないものばかりでできていた。
そんな日々に、ときどき――胸の奥が、ざらざらと波立つような感覚があった。
シアナ。
その音が、この小さな姉を示すものなのだと、僕は少しずつ理解し始めていた。
庭では、毎日のように、剣を振るシアナと、それを受ける執事の姿があった。
奪うための技術を研ぎ澄ますこと――その行為そのものが、自分の中にある“何か”と、どこか噛み合っていない。
そう感じていた。
けれど、その違和感はあまりに曖昧で、掴もうとすると、思考の輪郭が霧に包まれるように曇っていった。
それでも――僕は、この光景が嫌いではなかった。
だから、毎日のように、庭に出ては、その様子を眺めていた。
執事の剣は軽やかで、シアナの剣は、まだどこか重たい。
何度も同じ型をなぞるように振り返し、それを見守る執事の表情は、いつもより少しだけ厳しかった気がする。
その日も、僕は庭の端の石に腰を下ろし、しばらく、その光景を見つめていた。
「……アーシェ」
声に振り向くと、木剣を抱えた姉が、そこに立っていた。
「もうちょっと大きくなったら、一緒にやろうね。私が教えてあげる」
うれしそうに笑うその頬に、汗が光っていた。
僕は、ただうなずいた。
その言葉の意味は、まだはっきりとは分からなかった。
それでも――僕は真似るように、手にした枝を振っていた。
◇
日が傾き、屋敷の中に戻ると、あたりには夕餉の香りが漂っていた。
食堂には長いテーブルがあり、家族それぞれの席に器と食器が整えられている。
僕の前には、小さな器と銀色のスプーン。
けれど、まだうまく使えない。
スープをすくおうとして、何度もこぼしてしまった。
それをそっと拭ってくれるのは、僕のそばに立つ若いメイド。
彼女は何も言わず、でも決して不機嫌な顔もしなかった。
母は静かに微笑んでいて、父は淡々と食事を進めている。
そんな中で、父と執事が低い声で言葉を交わしていた。
「……本家は、レアノール第四王女を推すようです」
「……そうか」
「王女が十二となられるのは十年後。
その年には“ネフィレス遠征”がございます」
「……」
「その折には──ガイル様にもお声がかかるかと」
「…………」
言葉の意味は、僕にはわからなかった。
けれど、そのとき父の手がわずかに止まり、次の瞬間 ――なぜか、ほんの一瞬だけ、僕の方を見た。
表情は変わらなかった。
何も言わなかった。
理由はわからなかった。
ただ、言葉にならない“既知の感覚”がざわめくのを、はっきりと感じていた。
― 幼い頭では形にできなかった。
けれど、確かに胸の奥にざわめきが残っていた。
――目に映る世界が、どこか“噛み合っていない”。
そんな感覚だけが、静かに揺らめいていた。
昔々、まだ人に名がなかったころ。
人々は互いを呼ぶこともできず、声は風に消えていった。
すると意味の神アレインは、一つの贈り物を与えた。
「お前たちに“名”を授けよう。
呼ばれるたび、その音はお前自身の形となるだろう」
こうして人は名を持ち、声に応じ、互いを知るようになった。
だが幼子にとって、その音はまだただの響きにすぎず、
心に沈んで“自分”と結びつくには、しばしの時を要した。
──「名のはじまり」
(アリシェナ伝承より)




