潮光を目指して
旅立ちの日の朝、僕たちはイレナの家に集まっていた。
この町に来たばかりの頃に感じていた疎外感は、もうなかった。
わずか二週間足らずの滞在だったのに――気づけば、胸の奥に小さな愛着が芽生えていた。
次の目的地は、宗教国家ドロレア。
青の神フォーネを信仰する国で、二ヶ月後には「フォーネの巫女」を決める祭典が開かれるという。
フォーネは哀しみを司る神。
だが、その教会は儀式のたびに反対派を容赦なく弾圧してきた。
僕たちは、その反対派の活動を支援するために向かうことになっていた。
ダルカンは、子供の僕には詳しい事情を話そうとはしなかった。
けれど、クリオがこっそりと内容を教えてくれた。
僕の中では、それは前世の世界でいう“デモ活動”のようなものだと思っていた。
もちろん、それなりの危険も覚悟はしていた。
本当の目的は、まだ見えない。
それでも、僕は――彼らを信じていた。
⸻
イレナが僕に向かって口を開いた。
「アーシェ。あんたにね、基礎はひと通り教えたつもりだよ。
……自分では気づいてないかもしれないけど、その歳で――もう、その辺の上級魔導士より上だよ」
思わず息を呑んだ。
けれど、実感はなかった。
自分の実力なんて、まるで理解できていない。
そもそも“普通の魔導士”がどれほどのものなのかすら知らないのだ。
僕がこの世界で出会ってきたのは、皆――規格外の人たちばかりだったから。
イレナは、言葉を重ねる。
「あたしゃね、魔導士の実力は“経験”で決まると思ってる。
あんたはまだガキだけど――妙に知識はある。
だからこそ、慢心するんじゃないよ。
……しっかり、この世界と向き合いな」
胸の奥が熱くなる。
気づけば、自然と声が出ていた。
「先生……ありがとうございました」
イレナは珍しく、柔らかな声で返してくれる。
「また、戻ってきな」
⸻
皆がイレナと順に挨拶を交わし、僕たちは家をあとにした。
そのとき、ユーナの顔が印象的だった。
まるで、二度とここへ戻って来られないとでもいうように。
⸻
路地を抜けようとしたとき――やはり来た。
よく知った獣人の声が、背中に響いた。
「おまえら! 気をつけろよ!」
振り返れば、そこにフェンが立ち、僕らを見送っていた。
なぜだろう。
僕はてっきり、彼も一緒に来るものだと思い込んでいた。
仲間たちが順にフェンと短く言葉を交わし、最後に――その視線がまっすぐ僕へと注がれる。
「アーシェ。絶対に無事に帰ってこいよ!
ここは、もうお前の故郷でもあるんだ!
――じゃあな!」
その言葉は、不思議なほど胸に深く刻み込まれた。
僕は全身の力を込めて、声を張り上げる。
「いってきます!!」
フェンは満足そうに牙を見せ、豪快に笑った。
――この人だけは、きっとまた会える。そう確信できた。
◇
町の大通りを、僕たち四人は並んで歩いていた。
僕は皆と同じ黒のローブを身にまとっていた。
そのせいで、いつもよりほんの少し視線が気になった。
けれど、このローブには理由がある。
――魔力を込めれば、低級の魔物に狙われにくくなる。
イレナのお手製だった。
そういえば、ローブを羽織るとき、
イレナは僕の腰に下げられた短剣へちらりと視線を落とし、
「本当に困ったときにだけ使いな。
……それは“特別なもの”だよ」
と、静かに言った。
僕にとってこの短剣は、
ただ母が護身用に持たせてくれた“大切なもの”でしかなかった。
けれど――
その言葉の意味が、
この旅の先で“どう変わるのか”を、
このときの僕はまだ何も知らなかった。
◇
僕たちは大通りの店を巡りながら、旅に必要な物を買い揃えていく。
干し肉や硬いパン、乾いたチーズ、火打ち石に替えの水袋。
どれも長い道のりには欠かせない。
そのついでに、僕はアズリンを少し多めに買っておいた。
青い果実を鞄にしまう僕を見て、クリオが肩を軽く叩き、にっと笑う。
「贅沢するなぁ……でも、正解だ」
その声に、僕も自然と笑みを返した。
ギルドの依頼をいくつかこなしてきたおかげで、今の僕は少しだけ懐が温かい。
ほんのわずかだが、自分が冒険者に近づいた気がして――それが少し誇らしかった。
◇
準備を終え、僕たちは南門から町を出た。
城壁の向こうに広がるのは、見慣れぬ草原と遠い森の稜線。
振り返れば、石造りの門が少しずつ小さくなっていく。
二週間を過ごした町が、もう背後にある。
最初の目的地はマリス。
街道を南へ進めば、徒歩でも夜までには着けるという。
マリスは海沿いの村だと聞く。
漁が盛んで――そういえば、この世界に来てからほとんど魚を食べていなかった。
やはり物流の問題があるのだろう。
けれど氷の魔法で凍らせて運べば……なんて、少し能天気なことを考えてしまった。
◇
昼食をとったり、クリオやユーナとたわいもない話を交わしたりしながら歩き続けた。
草の匂いと風の音が、妙に心地よかった。
やがて、夕日の色が世界を染めはじめた頃――
潮のにおいとともに、視界の先にきらめく海が広がった。
視界の先に、きらめく海が広がった。
ユーナが弾む声を上げた。
「海だ! あっ……ほら、村も見えてきた!」
その隣で、クリオが拳を突き上げる。
「よっしゃー! 今夜はごちそうだ!」
二人の明るさとは対照的に、ダルカンは鋭い目で街道の脇をにらんでいた。
その視線を追った僕の目に、土に刻まれた無数の跡が飛び込んでくる。
――比較的新しい、馬の蹄跡だった。
視界いっぱいに、夕陽を映した海がきらめいていた。
その岸辺に寄り添うように、漁村の家々が並んでいる。
けれど、ただ景色に見とれてはいられなかった。
横を歩くダルカンの鋭い視線が、どうしても気にかかる。
胸の奥に小さなざわめきを抱えながら――僕は夕映えの漁村へと足を踏み入れていった。




