願いの引力
あれから一週間ほどが過ぎた。
その間に、ユーナとフェンと共にいくつかの低級依頼をこなし、合間にはイレナから魔法の座学を受けていた。
イレナが実際に魔法を披露することはなかったが、この世界には奇妙な現象が数多く存在すると教えられた。
――決して解けない氷。
――地面に落ちることのない葉。
――永遠に燃え続ける黒竜の炎。
イレナはそうした自然の在り様を観察し、分析し、その仕組みを魔法の構造に組み込んでいるらしい。
幼い肉体の感受性ゆえなのか、それとももともと僕自身の気質なのかは分からない。
けれど、その話を聞くたびに胸が熱を帯び、どうしようもなく心が躍ってしまう。
その熱に押されるように、レオの声がよみがえった。
――「……僕は、この国の外に出てみたい」
――「まだ見ぬ世界を歩き、その冒険を記録に残したいんだ」
あのときの横顔は、言葉以上の熱を宿していた。
けれど、その夢はもう叶わない。
……僕のせいで、レオは脚を失った。
世界を歩くことを望んだ彼が、もう自分の足で自由に旅立つことはできない。
だからこそ――。
胸の奥で、彼の夢は今も強くこだましていた。
僕は、あの人にどう償えばいいのだろう。
⸻
この町で過ごして十日目の夕方、イレナの家に僕宛ての手紙が二通届いた。
折り畳まれた羊皮紙の綴じ目には、赤い蝋が垂らされ、その上にアルヴェイン家の印章が深く刻まれている。
差出人は母のリアナと、姉のシアナ。
封に刻まれたシアナの名を目にした瞬間、胸の奥にふっと安堵が広がった。
無事であることはユーナから聞いていた。けれど、こうして彼女自身の文字で確かめられることが、何より確かな証だった。
母の手紙には、王宮からの伝令で僕がアルセリアに救われ、いま魔法を学んでいることを確認したとあった。
父もきっと納得するだろう、と。
そして最後には、僕の無事を喜ぶ言葉と――鍛錬を怠るな、という母らしい一文が添えられていた。
読み終えたとき、胸の奥からふっと息がこぼれる。
イレナが王宮を通じて話をつけていたことを思えば、やはりこの人はただ者ではないのだと改めて痛感した。
それでも、手紙を閉じた指先には小さなざらつきが残っていた。
母は本当に、僕が魔法を学んでいることを――心から受け入れてくれているのだろうか。
シアナの手紙には、自分がすでにファルナの屋敷へ戻っていること、そしてロイスもレオも無事にユレッタへ帰還し、マナ異常の調査も滞りなく終わったと綴られていた。
街の人々も落ち着きを取り戻し、ようやく安心できるようになった、と。
そして何より――僕の無事を心から喜んでくれていた。
さらに、僕が魔法を学んでいることについては「あなたの願いが叶って本当によかった」と書き添えられていた。
信じてはいた。
けれど、こうして、レオや皆の無事を文字で確かめられたことが、胸の奥に大きな安堵をもたらした。
そして――「あなたの願いが叶って本当によかった」と記された姉の文字。
魔法を学ぶことが、自分の願い。
そんなふうに考えたことはなかった。けれど、この文字を目にしたとき、初めて少し理解できた気がした。
魔法に触れるたびに胸が熱を帯び、どうしようもなく心が引き寄せられていく。
――人が願いや夢と呼ぶものを、僕は今、この熱と引力の中に確かに実感していた。
僕は、この引力に導かれて進むと――いったいどこへたどり着くのだろうか。
⸻
翌晩、ダルカンとクリオが宿の僕とユーナの部屋を訪ねてきた。
この町に来た初日以来の再会だった。
二人がこの町でどんな動きをしていたのか、僕には分からない。
けれど今は――真剣な表情でユーナと向き合い、言葉を交わしていた。
やがて、ダルカンの鋭い視線が僕へと向けられる。
「予定より数日早いが……明日、ここカナルスを発つ。行き先はドロレアだ。――アーシェ、決断に変わりはないか?」
思っていたより早い別れに、胸がわずかにざわめいた。
だが、その奥に迷いはなかった。
「はい。僕も――旅に同行します」
ダルカンはユーナとクリオに一瞥を送り、それから僕を見据えて口を開いた。
「ひとつだけ――おまえに伝えておくべきことがある」
僕は無言で頷いた。
「以前にも言ったが、我々は《残響者》だ」
その言葉は確かに耳にしていた。
だが、それ以上を尋ねることはなかった。
ダルカンの声は、低く重く続いた。
「《残響者》とは……かつて“使徒”と呼ばれた存在の、成れの果てだ」
そして、間を置いて僕を見据える。
「おまえは――おそらくティルザの使徒だろう。
覚えておけ。使徒はいずれ、残響者へと堕ちる」
僕は静かに頷いた。
ダルカンはさらに言葉を重ねる。
「使徒として生き続ける限り――いずれ、他の使徒と必ず相まみえる。
それが、“神の意思”だからだ。
……使徒になったというのは、そういうことだ。
忘れるな、アーシェ」
その声が、胸の奥深くに響いた。
――まただ。
この繰り返しだ。
僕は――銀色の神と契約したことに、それほどの不安を抱いてはいなかった。
それが、合理的な選択だと信じていたからだ。
けれど今、ダルカンの言葉は鉛のように心へ沈み込む。
「いずれ堕ちる」「必ず相まみえる」――その響きは棘となって胸を突き刺した。
……そうだ。
前世からずっと、僕は「合理的だ」と信じた道を進んできた。
だが、その果てに残ったのは――後悔だった。
――僕は、本当にまた軽率な選択をしてしまったのだろうか。
芽生えた不安は静かに広がり、胸の内をじわじわと侵食していった。
ユーナが、僕の不安を感じ取ったのか、口を開きかけた。
しかし、その前にクリオが鋭く声を上げた。
「ダルカンさん、子どもを脅かしすぎですよ!」
彼の声音は、普段の軽さを失って真剣そのものだった。
「確かに俺たちの人生はクソみたいなもんかもしれねえ。
けどな、イレナのばあちゃんを見ろよ。――使徒だった人間が、全員後悔してるわけじゃない!」
その言葉に、イレナの横顔が脳裏に浮かぶ。
あの人はたしかに、自らの選んだ道を悔やんではいない、と言っていた。
……けれど、それでも。
今はダルカンの言葉の方が、胸の奥に重く沈み、抜けない棘のように響いていた。
そのとき――ユーナが口を開いた。
「魔法の練習、楽しかったね」
不意の言葉に顔を向けると、彼女はにこりと笑いかけてきた。
「おばあちゃんは、もう旅についてこれないからね。
だから――姉弟子として、私が厳しく指導するから。覚悟しといて」
からかうような調子なのに、その瞳は真っ直ぐで、温かかった。
その笑みを見ていると、胸を締めつけていた不安が、少しずつほどけていくのを感じた。
ダルカンの言葉の重みさえ、遠くへ薄れていくようだった。
――シアナの手紙を思い出す。
「あなたの願いが叶って本当によかった」
あの文字を見たとき初めて、魔法を学ぶことが自分の“願い”だと気づいた。
僕は銀色の神の言葉を、合理的に選んだのではない。
ただ、この“願い”の引力に導かれるように歩き出していたのだ。
それが正しいのか、間違っているのか――まだ僕には分からない。
けれど、一つだけ確信していることがある。
白衣に身を包んでいた頃の僕とは、真逆の生き方を――今、僕は選んでいる。
あのとき、シアナの手に導かれて見た景色が胸の奥で静かに光を放つ。
そして、レオの声がよみがえった。
――「願いや夢には、意味がある」
たとえそれが儚くても。
たとえ報われなくても。
だから僕は――いや、選ぶのだ。
この引力の先にあるものを、どうしても見届けたい。
それこそが、白井悠真という人間が残した“残響”であり、
そして「なぜ人は選ぶのか」――その答えのひとつなのだろう。
「ユーナさん!……ありがとう!」
思わず声にすると、ユーナは一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……うん」
その短い返事には、不思議と大きな力が宿っていた。
「おいおい? 俺には?」
横でクリオがわざとらしく眉を上げる。
「もちろん、クリオさんもありがとうございます!」
僕が慌てて頭を下げると、クリオは堪えきれずに吹き出し、にやりと笑った。
その様子に、ダルカンもわずかに口元を緩める。
「……では、明日発つ。まずは南の漁村――マリスを目指す」
静かな宣告が部屋に落ちた。
胸の奥で、小さな鼓動がひとつ――確かに大きく鳴った。




