川沿いの宿
アルヴェイン家では、武術に学問、礼儀作法から詩歌まで――子供に与えられる教育は幅広かった。
だが、その豊かな学びの中で、僕だけに欠けているものが一つあった。魔法だ。
母はかつて「天才」と呼ばれた魔導士だったという。姉のエルミナも、周囲を驚かせるほどの才を持っている。シアナは剣の才が目立つが、魔法もいくらか教えられていた。
それなのに、なぜか僕には魔法の手ほどきがまったく与えられなかった。
幼い頃は、それを父の方針だと思っていた。父は厳格だが、公平な男だ。
だが年を重ねるにつれ、胸の奥に違和感が膨らんでいった――言葉にできない何かが、母自身が僕と魔法との距離を意図的に保たせているのではないか、という疑念だ。理由は分からない。けれど、家の中で僕だけが、いつも一枚薄い扉の向こう側に置かれているような感覚があった。
そして――この異国の町で、突如として魔法が僕に寄り添ってきた。
予期せぬ出会いに、世界の匂いがほんの少し変わった気がした。
今、僕の目の前にいるのは、かつて王宮でもその名を轟かせた魔術師。
その人物が、自ら進んで僕に魔法を教えようと提案してきたのだ。
思えば、この世界に生まれて、最初に胸を躍らせた興味は他ならぬ魔法だった。
そして、
あの時、切迫していて、深く考える余裕などなかった。
けれど――今にして思えば。
“銀色の神”の提案を受け入れたのも、心の奥底で、魔法という甘美な誘惑に抗えなかったからなのかもしれない。
明日の朝、またここへ来るように――そうイレナに告げられ、僕は小さく頷いた。
胸の奥に熱を帯びている。ようやく魔法を学べる。
その期待が心を強く震わせていた。
その余韻を抱えたまま、僕はダルカンたちと並んで、宿を探しに町の通りへと歩き出した。
川沿いの町は、夕暮れに染まりつつあった。
川面を渡る風はどこか涼やかで、石畳には傾いた陽光が長い影を落としている。
大通りを外れた道は人通りもまばらで、代わりに水音と鳥の声が静かに響いていた。
ダルカンたちは慣れた足取りで迷いなく進んでいく。僕は景色に気を取られながら、その背を追いかけるしかなかった。
やがて、通りの先に一軒の宿が現れる。木造二階建てで、ところどころ古びてはいるが、窓辺の灯りや飾られた花がこぎれいな印象を与えていた。
「……あそこだ」
ダルカンが顎で示す。
若い従業員の女性が、鍵を手にして微笑んだ。
「こちらの二部屋をお使いください」
廊下を進む途中、ダルカンが振り返る。
「アーシェ、お前はユーナと同じ部屋を使え」
その瞬間、胸の奥がざわついた。
前世の三十路の男としての倫理観が、家族以外の女性と同室という事実に警鐘を鳴らす。
けれど、現世の七歳の体と感受性は、それを当然のこととして受け入れてしまう。
――大人の理性と子供の無邪気さ。
二つの意識が食い違い、説明のつかないちぐはぐさだけが残った。
すると、ユーナがふと僕の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
「アーシェ、一ヶ月よろしくね」
その言葉に、胸のざわつきは不思議と静まっていく。
僕はやはり七歳の子供でしかなかった。
「……よろしくお願いします」
ユーナが扉を押し開け、軽やかに部屋へ入っていく。
その背を追うように、僕も後ろから足を踏み入れた。
部屋は質素だった。
白い漆喰の壁に木の梁が走り、窓から差し込む夕日が一面を黄金色に染めている。
並んだ二つのベッドは簡素だが清潔で、厚手の毛布がきちんと畳まれていた。
「明日から、おばあちゃんに魔法を見てもらうんだよね?」
ユーナがベッドに腰を下ろしながら、ふと口にする。
「おばあちゃん、私にも一緒に来いって言ってたんだ」
「……そうなんですか? すみません、巻き込んでしまって」
「全然! むしろ、私もおばあちゃんにまた見てもらいたいし。ラッキーだよ」
ユーナは肩をすくめ、楽しそうに笑った。
「そんなにすごい人なんですか?」
「すごいよ。おばあちゃんの魔法は、他の人とは違う。……なんか、使う言葉も難しいし」
彼女の言葉に、僕はイレナが口にしていた造語のような、不思議な響きを思い出した。
イレナの治癒魔法を受けたときのことを思い出すと、なぜか前世の世界の気配が胸の奥でざわめいた。
そして――ユーナたちと刃を交えたとき、自分が放ったあの魔法の感触がひとつにつながって蘇る。
その瞬間、ユーナがぽつりと口を開いた。
「アーシェの魔法、すごかったよね。あの、追いかけてくる火……」
自然と視線は、彼女のローブに残る焦げ跡へと落ちた。僕は咄嗟に口を開く。
「……すみません」
ユーナは慌てて首を振る。
「何言ってるの。悪いのは私たちだよ。だって、私たち人攫いだから」
そのやり取りに、胸の奥の記憶が重く疼いた。
あの夜、確かに彼女たちからは「殺す」という意思めいたものを感じた。肌を刺すような圧力、追い詰める声――あの空気は生と死の境を意識させるほど強烈だった。
だが、冷静に思い返すと、違う像が浮かぶ。ユーナは結局、シアナにとどめを刺してはいない。
ダルカンの一太刀も、前世の知識から見れば明らかに致命を外していた。踏み込みは浅く、斬撃の角度もわずかに逸らされ――むしろ「当てないように」調整されていたのだ。
あれは脅し。命を奪うための本気ではなく、相手を揺さぶり、恐怖で縛るための演技だったのだろう。
数日を共に過ごしただけだが、僕はそのことを確信していた。
すると、僕はふと、この人のことをもっと知りたくなった。
「……ユーナさんは、やっぱり僕が旅について行かない方がいいと思いますか?」
ユーナは一瞬考えるように目を細め、それから苦笑を浮かべた。
「そうだなぁ……目的地のカナリスは、私の故郷なんだ」
声の調子は軽いのに、その奥に沈む影を感じる。
「全然いい思い出なんてなくてさ。哀しい思い出ばっかり。だから……オススメはしないよ!」
ユーナは続けた。
「でもね、私たちのポリシーは自主性の尊重! ……おばあちゃんの受け売りだけどね」
そう言って、ユーナは笑った。
「……ありがとうございます」
僕も思わず、素直にそう口にしていた。
けれど、このときの僕はまだ知らなかった。
カナリスという地が抱える深い哀しみも、人の心に刻まれる痛みも――何ひとつ、理解してはいなかったのだ。




