表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
主者選択   作者: シロイペンギン
哀雨に濡れし者 ― 少年編 /交易都市カナルス
31/87

川沿いの宿

アルヴェイン家では、武術に学問、礼儀作法から詩歌まで――子供に与えられる教育は幅広かった。

だが、その豊かな学びの中で、僕だけに欠けているものが一つあった。魔法だ。


母はかつて「天才」と呼ばれた魔導士だったという。姉のエルミナも、周囲を驚かせるほどの才を持っている。シアナは剣の才が目立つが、魔法もいくらか教えられていた。

それなのに、なぜか僕には魔法の手ほどきがまったく与えられなかった。


幼い頃は、それを父の方針だと思っていた。父は厳格だが、公平な男だ。

だが年を重ねるにつれ、胸の奥に違和感が膨らんでいった――言葉にできない何かが、母自身が僕と魔法との距離を意図的に保たせているのではないか、という疑念だ。理由は分からない。けれど、家の中で僕だけが、いつも一枚薄い扉の向こう側に置かれているような感覚があった。


そして――この異国の町で、突如として魔法が僕に寄り添ってきた。

予期せぬ出会いに、世界の匂いがほんの少し変わった気がした。


今、僕の目の前にいるのは、かつて王宮でもその名を轟かせた魔術師。

その人物が、自ら進んで僕に魔法を教えようと提案してきたのだ。


思えば、この世界に生まれて、最初に胸を躍らせた興味は他ならぬ魔法だった。


そして、

あの時、切迫していて、深く考える余裕などなかった。

けれど――今にして思えば。

“銀色の神”の提案を受け入れたのも、心の奥底で、魔法という甘美な誘惑に抗えなかったからなのかもしれない。


明日の朝、またここへ来るように――そうイレナに告げられ、僕は小さく頷いた。

胸の奥に熱を帯びている。ようやく魔法を学べる。

その期待が心を強く震わせていた。


その余韻を抱えたまま、僕はダルカンたちと並んで、宿を探しに町の通りへと歩き出した。


川沿いの町は、夕暮れに染まりつつあった。

川面を渡る風はどこか涼やかで、石畳には傾いた陽光が長い影を落としている。

大通りを外れた道は人通りもまばらで、代わりに水音と鳥の声が静かに響いていた。


ダルカンたちは慣れた足取りで迷いなく進んでいく。僕は景色に気を取られながら、その背を追いかけるしかなかった。

やがて、通りの先に一軒の宿が現れる。木造二階建てで、ところどころ古びてはいるが、窓辺の灯りや飾られた花がこぎれいな印象を与えていた。


「……あそこだ」

ダルカンが顎で示す。


若い従業員の女性が、鍵を手にして微笑んだ。

「こちらの二部屋をお使いください」


廊下を進む途中、ダルカンが振り返る。

「アーシェ、お前はユーナと同じ部屋を使え」


その瞬間、胸の奥がざわついた。

前世の三十路の男としての倫理観が、家族以外の女性と同室という事実に警鐘を鳴らす。

けれど、現世の七歳の体と感受性は、それを当然のこととして受け入れてしまう。


――大人の理性と子供の無邪気さ。

二つの意識が食い違い、説明のつかないちぐはぐさだけが残った。


すると、ユーナがふと僕の顔を見て、柔らかく微笑んだ。

「アーシェ、一ヶ月よろしくね」


その言葉に、胸のざわつきは不思議と静まっていく。

僕はやはり七歳の子供でしかなかった。

「……よろしくお願いします」


ユーナが扉を押し開け、軽やかに部屋へ入っていく。

その背を追うように、僕も後ろから足を踏み入れた。


部屋は質素だった。

白い漆喰の壁に木の梁が走り、窓から差し込む夕日が一面を黄金色に染めている。

並んだ二つのベッドは簡素だが清潔で、厚手の毛布がきちんと畳まれていた。


「明日から、おばあちゃんに魔法を見てもらうんだよね?」

ユーナがベッドに腰を下ろしながら、ふと口にする。


「おばあちゃん、私にも一緒に来いって言ってたんだ」


「……そうなんですか? すみません、巻き込んでしまって」


「全然! むしろ、私もおばあちゃんにまた見てもらいたいし。ラッキーだよ」

ユーナは肩をすくめ、楽しそうに笑った。


「そんなにすごい人なんですか?」


「すごいよ。おばあちゃんの魔法は、他の人とは違う。……なんか、使う言葉も難しいし」


彼女の言葉に、僕はイレナが口にしていた造語のような、不思議な響きを思い出した。


イレナの治癒魔法を受けたときのことを思い出すと、なぜか前世の世界の気配が胸の奥でざわめいた。

そして――ユーナたちと刃を交えたとき、自分が放ったあの魔法の感触がひとつにつながって蘇る。


その瞬間、ユーナがぽつりと口を開いた。

「アーシェの魔法、すごかったよね。あの、追いかけてくる火……」


自然と視線は、彼女のローブに残る焦げ跡へと落ちた。僕は咄嗟に口を開く。

「……すみません」


ユーナは慌てて首を振る。

「何言ってるの。悪いのは私たちだよ。だって、私たち人攫いだから」


そのやり取りに、胸の奥の記憶が重く疼いた。

あの夜、確かに彼女たちからは「殺す」という意思めいたものを感じた。肌を刺すような圧力、追い詰める声――あの空気は生と死の境を意識させるほど強烈だった。


だが、冷静に思い返すと、違う像が浮かぶ。ユーナは結局、シアナにとどめを刺してはいない。

ダルカンの一太刀も、前世の知識から見れば明らかに致命を外していた。踏み込みは浅く、斬撃の角度もわずかに逸らされ――むしろ「当てないように」調整されていたのだ。


あれは脅し。命を奪うための本気ではなく、相手を揺さぶり、恐怖で縛るための演技だったのだろう。

数日を共に過ごしただけだが、僕はそのことを確信していた。


すると、僕はふと、この人のことをもっと知りたくなった。

「……ユーナさんは、やっぱり僕が旅について行かない方がいいと思いますか?」


ユーナは一瞬考えるように目を細め、それから苦笑を浮かべた。

「そうだなぁ……目的地のカナリスは、私の故郷なんだ」


声の調子は軽いのに、その奥に沈む影を感じる。

「全然いい思い出なんてなくてさ。哀しい思い出ばっかり。だから……オススメはしないよ!」


ユーナは続けた。

「でもね、私たちのポリシーは自主性の尊重! ……おばあちゃんの受け売りだけどね」


そう言って、ユーナは笑った。


「……ありがとうございます」

僕も思わず、素直にそう口にしていた。


けれど、このときの僕はまだ知らなかった。

カナリスという地が抱える深い哀しみも、人の心に刻まれる痛みも――何ひとつ、理解してはいなかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ