夢の扉
イレナは深く息を吐き、ダルカンを鋭く睨んだ。
「……あんた、何を考えてんだい」
声は低く、静かなのに重かった。
「誘拐してきた子供を、そのまま旅に連れ回すつもりかい? そんな無茶が通るもんか」
彼女はちらりと僕に目をやり、すぐにユーナとダルカンへ視線を戻す。
「それに、ドロレアがどれほど危ない国か、あんたらだってよくわかってるだろ?」
一言ごとに空気が沈む。
イレナの声音には、長い年月で培われた現実の重みが宿っていた。
その言葉に場は張り詰め、しばし沈黙が続く。
やがて、その静けさを破るようにユーナが口を開いた。
「……私も、アーシェを旅に連れて行くのは反対です」
落ち着いた声だったが、わずかに揺らぎを帯びていた。
「アーシェは――家に帰すべきだと思います」
その横顔は硬く、言葉の裏に影が滲んでいた。
一方で、クリオは大きく肩をすくめ、気楽そうに口を挟む。
「まぁ、俺はどっちでもいいけどさ」
その軽い言葉が、張りつめた空気を少しだけ緩めた。
イレナは再び息を吐き、鋭い眼差しを僕へと向ける。
「アーシェ、あんた……なんでこんな誘拐犯どもについて行きたいんだい?」
その声には、叱責でも諭しでもない、不思議な重みがあった。
「……あんた、ヴァルデンの大事な跡取りだろ?」
視線は僕の腰に下げた短剣へと落ちる。
鞘に刻まれた紋章を、イレナはじっと見据えていた。
――ヴァルデンの血を継ぐ者の証。
胸の奥がひりつく。
(……なぜ、僕は……?)
理由を問われても、答えはすぐには浮かばなかった。
ただ、心のどこかで――前へ進みたいという思いだけが脈打っていた。
僕は視線を落とした。
この世界で、いくつかの選択をしてきた。
人の命を左右するような、重大な決断だってあった。
それでも――。
胸の奥には、いつも前世の影が揺れている。
そして今、目の前にいるダルカンの姿と重なって見えた。
後悔を抱えながらも歩き続ける、その背中が。
まだ言葉にはできない。
理由も、理屈も見つからない。
――けれど、それでも。
「……ダルカンさん達と、一緒に行きたいです」
気づけば、唇から零れていた。
説明のつかない衝動だった。
イレナは小さく鼻を鳴らし、あっさりと言った。
「……そうかい。なら仕方ないね」
声音は意外なほど軽やかだった。
「アタシはね、自主性ってやつを尊重してるんだよ。選ぶなら、まずは自分で歩いてみな」
柔らかな笑みが一瞬浮かぶ。だがすぐに、鋭い視線がダルカンへ突き刺さった。
「……もっとも、その考え方のせいで、このバカが好き放題やってるんだけどね」
「……っ」
ダルカンは気まずそうに目を逸らし、肩をすくめる。
イレナは杖をこん……と床に鳴らす。
その響きは妙に深く、空気をひと呼吸ごとに張り詰めさせた。
「ヴァルデンの方は、アタシがなんとかしといてやるよ」
(……どういうことだ?)
僕は思わず目を瞬かせた。
その顔を見て取ったのか、クリオが声を落として囁いた。
「……あのバァさんな。
ああ見えて、東の大陸で“万象の魔号”を得た魔導士だ。昔は、セレストリアの王宮でも名の知れた人だったらしい」
クリオは、口の端を吊り上げて、にやりと笑った。
「――“万象のアルセリア”。
その名を耳にしただけで、帝国の連中が尻尾巻いて逃げ帰った、って話だ」
言葉には畏れと敬意が入り混じっていた。
「だから、セレストリアじゃ、今でも顔が利くらしいぜ」
――たしかに、屋敷の本か何かでその名を見たことがある気がする。
クリオは苦笑し、肩をすくめてイレナを横目に見た。
「ま……ばぁさんなら、ギリなんとかしてくれるはず、、、」
ユーナが、不安を隠しきれない表情でじっと僕を見ていた。
その視線を受け止めるように、ダルカンが彼女へと目を向ける。
しばしの沈黙ののち、彼はゆっくりと僕へ顔を戻し、口を開いた。
「……アーシェ。目的地は西の国――ドロレアだ」
声は低く、だが揺るぎなかった。
「危険な旅になるのは確かだ。よろしく頼む」
胸の奥が大きく鳴る。
それでも――僕は迷わなかった。
「……よろしくお願いします」
その一言を口にした瞬間、場の空気がわずかに揺れた。
ユーナの瞳に走る影。
イレナの鋭い眼差しが、何かを測るように僕を射抜いていた。
◇
その後、ダルカンたちは計画を詰めていた。
ラクリモーラまでには、まだ猶予がある。
二週間、この町を拠点に準備を整えるという。
ドロレアへ辿り着くには、小国を二つ越え、およそ一ヶ月の旅路になるらしい。
耳を澄ませても、聞き慣れない言葉ばかり。
――蒼哭の庵。残響者狩り。巫女の解放。
その中で、ただ一つだけ胸に深く刺さる名があった。
フォーネ。哀しみを司る神。
雨と涙の国を象徴するその響きは、重く沈み、心の奥へ落ちていった。
やがて話し合いが終わると、イレナの声が静寂を断ち切った。
「……あんたら、二週間後に出発するらしいね」
杖に体を預けながら、鋭い眼差しを僕へと向ける。
「アーシェ、あんた――明日からアタシが魔法を見てやるよ」
その視線は厳しくもあり、同時に不思議な温かさを帯びていた。
屋敷では剣も学問も、さまざまなことを学んできた。
けれど――魔法だけは、そこになかった。
遠ざけられているようで、触れてはいけないもののようで。
それでも幼い頃から惹かれていたのは、他でもない魔法だった。
だからこそ、イレナの言葉は胸の奥を震わせる。
長く閉ざされていた扉が、ようやく軋んで開きはじめる。
その音が、確かに心の中に響いていた。




