帰る理由 と 進む理由
「イレナばぁさん! いるなら返事しろよ! おっちんじまったかと思うだろ!」
クリオが乱暴に声を張り上げた。
落ち着いた声が、間を置かず返ってくる。
「まったく、口の減らない子だね。あたしゃまだ八十だよ。あんたらに心配される歳じゃないさ」
イレナと呼ばれる老人は、僕に一瞬だけ視線を投げ、すぐにダルカンへと向き直った。
「ダルカン……あんた、何をやってんだい。殺人未遂に、誘拐だなんて――情けないにもほどがあるよ」
その声は静かだったが、一語一語が刃のように鋭く響いた。
ダルカンは気まずげに目を伏せ、わずかに肩を落とす。
――確かに、現地語ではある。
けれどその言葉の響きは、日常で耳にする柔らかな言い回しとは明らかに違っていた。
いくつかの語を無理に繋ぎ合わせて形にしたかのような、どこか造語めいた硬さ。
胸の奥にざらついた違和感が広がる。
まるで、前世の世界からこぼれ落ちた言葉が、不意にこの場へ滲み出したかのように。
イレナは無言で近づき、鋭い視線を僕に落とした。
「……あんた、傷を見せな」
戸惑う間もなく、彼女の手が伸び、ローブの裾をためらいなくめくられる。
切り裂かれた服の下から現れたのは、幾重にも巻かれた布切れ。
血の匂いは薄れていたが、荒く押さえつけただけの応急処置にすぎないことは一目で分かった。
イレナの目が細められる。
その一瞥だけで処置の拙さが暴かれたようで、僕は思わず息を呑む。
彼女の手から微かな魔力が滲み出す。
「……じっとしてな」
淡々とした声とともに、布切れが解かれていく。
痛みが走る――そう覚悟した。
……だが、来なかった。
代わりに、痺れるような感覚が皮膚の奥を覆い、現実が一歩遠のいていく。
(……麻酔のような……?)
イレナは布を外すと、食い入るように傷を見つめた。
「……これ、ユーナがやったのかい?」
ユーナは視線を逸らし、小さく答える。
「は、はい……」
「まったく……何度言ったら分かるんだい。
遺物を取り除き、消毒して、それから縫合――手順を飛ばせば、治るものも治らなくなる」
叱責を受け、ユーナの頬が赤く染まる。
――遺物除去、消毒、縫合。
胸の奥がざわついた。
やはり現地語ではある。
だが耳に残る響きは、いくつかの語を無理に繋ぎ合わせたような造語めいた硬さを帯びていた。
……先ほど「殺人未遂」や「誘拐」と口にしたときと同じだ。
確かに意味は通じるのに、どこか異質で
これらの言葉には、前世の医療現場に近い匂いがした。
イレナはさらに僕の傷口をじっと見つめていた。
すると、彼女の掌から微かな震えが広がり、空気に魔力がにじむ。
次の瞬間、傷口の周囲でマナがざわめき、熱を帯びていった。
裂けていた肉が寄り合い、痛みが音もなく消えていった。
「……まぁ、跡は少し残るかもしれないけどね」
イレナは事もなげに言い、クリオやダルカンを鋭く睨んだ。
「礼はいらないよ。どうせ、このバカどもがやらかしたんだろうからね」
吐き捨てるような声なのに、不思議と胸の奥に温かさが残った。
イレナはふっと目を細め、低く告げた。
「……あんた、神の使徒だね?」
胸の奥を直撃されたように、息が止まる。
「……白銀の存在を見たことは、あります」
背筋に冷たいものが走る。
(どうして、わかるんだ……?)
以前、ダルカンに言われた時と同じ疑問がまた鋭く突き刺さる。
抑えきれず、唇が動いた。
「……どうしてわかるんですか?」
イレナはわずかに口元をゆるめ、静かに答えた。
「神と契約してた者同士には、わかるんだよ。……この辺は理屈じゃないさ」
神と――契約していた者。
そうか。だから……。
イレナさんも、そしてダルカンさんも。
二人ともあの存在と契約を交わしていたのか。
だからこそ、僕のこともわかったのだ。
僕は思わず不安な顔をしていたのだろう。
イレナがそれを察したように、ふっと目を細める。
「……あたしゃね、もう何も覚えてないんだよ」
胸の奥が冷たくなる。
「自分が何かの延長みたいな感覚はずっとあるさ、
でもね、ある点より前が、どうにもぼやけちまっててね」
イレナは肩をすくめ、苦笑する。
「まぁ、ババァだからボケてるって言われりゃ、それまでかもしれないけどさ」
その軽口がかえって僕の不安を強める。
イレナはそんな心のざわめきを打ち消すように、再び口を開いた。
「でもね、少なくともあたしゃ後悔してないよ。
こうやって今も楽しくやってるし、まぁ……華々しい人生だったと思ってるからね」
僕は曖昧な表情のまま、言葉を失っていた。
イレナは口元をわずかにほころばせ、肩をすくめて言った。
「結局はね、何を選んで、その結果をどう受け入れるかさ。……まぁ、この感覚が、あの銀色の掌の上なのかもしれないけどね」
冗談めいた軽さを帯びた声音なのに、不思議と胸の奥にずしりと落ちていく。
――この人は、きっと素敵な人生を生きてきたんだ。
そう思うと、自然に言葉がこぼれた。
「……イレナさん。ありがとうございます」
イレナは目を細め、ふと僕を見据える。
「そういや、あんた名前は?」
「……アーシェ。アーシェ・アルヴァインです」
「へぇ、アーシェね」
短く相槌を打ち、ふっと笑う。
「まぁ、バァバァの戯言さ。若いもんは、そう簡単に割り切れやしないよ」
言葉とともに視線を巡らせる。
ダルカン、ユーナ、そしてクリオ。
一人ひとりを静かに確かめるように見やるその眼差しは、年老いた身を超えてなお強く、ただの老人ではない確かな力を感じさせた。
ユーナが口を開いた。
「じゃあ、アーシェをヴァルデンまで送らないとね?」
その声音に、胸が一瞬だけ温かくなる。
けれど同時に、重い現実が頭をよぎった。
(……この人たちがヴァルデン領に入ったら、ただではすまない)
迷いながらも、僕は口を開いた。
「ユーナさんたちがヴァルデン領に入るのは……危険です」
言葉に、場の空気がわずかに沈む。
だがすぐに、それを吹き飛ばすようにクリオが胸を張った。
「大丈夫だって! 俺たち、逃げ足には自信あるからな!」
あまりにも自信満々な言葉に、思わず目を瞬かせる。
呆れにも似た感情が胸をかすめながらも、ほんの少し緊張がほどけた。
そんな空気を切り替えるように、ダルカンが低い声で告げた。
「……俺たちは近々、西方へ旅に出る。アーシェ、君も一緒に来ないか? おまえはもっと、いろんなものを見て、知るべきだと思う」
その言葉に、胸の奥が大きくざわめいた。
――やはり、この人は神に出会ったのだ。
そして今も、その結果を背負い、後悔を抱えながら歩いている。
なぜ、僕を誘うのだろう。
もう一度、神に会いたいからか。
……いや、それだけではない。
命を狙ったばかりの僕に、なぜか「選んでほしい」という願いが込められているのを感じた。
彼の後悔の中身を僕は知らない。
けれど、その重さと、同じ後悔を僕に背負わせたくないという気持ちだけは、不思議と理解できた。
僕には、ヴァルデンに帰る理由がある。
シアナがいる。ユレッタで待つレオがいる。
家族のもとへ帰らなければならない。
――それでも。
前世の影と、ダルカンの後悔が胸の奥で重なり合う。
その重なりに引かれるように、僕の唇は自然に動いていた。
「……一緒に、世界を見てみたいです」




