果実の味
陽光が波を散らし、甲板にきらめきを落とす。
その光の中で、ダルカンの問いは低く、鋭く響いた。
「……お前は、奴ら、神のことをどれほど知っている?」
言葉が喉にかかり、答えはすぐには出なかった。
沈黙のあいだ、胸の奥で白銀の残光がゆらめく。
――選択を司る神、ティルザ。
視界の端に影のように立ち現れ、すぐに掻き消える。
「……せいぜい、神話や逸話の断片くらいです」
声にした途端、残像はかえって鮮やかに焼き付き、心を離さなかった。
ダルカンは目を細め、遠い水平線を見やる。
潮騒が耳を満たすなか、その声は静かに、しかし確信を孕んで落ちる。
「奴らは人に道を示す。
だが、その導きは決して無償ではない。
──それぞれの神が、贄を要求する」
沈黙が流れる。
帆がふっと鳴り、光が揺れる。
「お前も……奴に捧げたのだろう? 自分の一部を」
その言葉は風に乗り、耳の奥に突き刺さった。
廃村での光景が甦る。
過去の選択を差し出し、この世界を受けいれたあの瞬間。
僕はそれを得策だと判断した。
理性の天秤は迷いなく傾いた。
だが――危うさを感じなかったわけではない。
「……神と契約するのは、危険なことなのですか?」
問いは、自分でも驚くほど素朴に零れた。
理性だけでは測りきれない何かを、まだ心が求めていたのかもしれない。
ダルカンは海面を見下ろしたまま答えた。
「分からないが。
ただ一つ言えるのは──我々は何かを失ったということだ」
その声に小さな苦みが滲む。
帆の影が揺れ、太陽が波を跳ね返す。
「そして……奴らは、我々、残響者の前にはもう現れはしない」
その断言が胸に落ちた途端、ざらつく違和感が広がった。
――ティルザは、僕にまた現れることを仄めかしていたはずだ。
波音に溶けていく言葉の残響と、矛盾だけが胸に残る。
答えを測りかねながらも、唇が自然に動いた。
「もう、現れないのですか?」
問いは海風に流れ、短い沈黙が落ちる。
帆が軋み、陽光が甲板に斑を描いた。
やがて、ダルカンは静かに答える。
「奴らに、もう一度会いたい――そう願う者もいる。
自分の存在の意味を、問い直したいとな」
その言葉に、顔が険しくなっているのを自覚した。
『……まさか、そんなことのために僕らの命までも狙ったというのか』
胸の奥で、苛立ちと冷ややかな疑念がせり上がり、重く絡み合う。
僕の心情を察したかのように、ダルカンはぽつりと口を開いた。
「人間が神にできることなど、所詮その程度だ」
その一言が落ちた瞬間、胸の奥で何かが腑に落ちた。
張り詰めていた怒りも、ほんの少し和らいでいく。
――僕自身もまた、ずっと問い続けてきた。
自分の存在の意味を。
だからこそ、この人のことを、わずかに理解できた気がした。
波が船体を打ち、意識が現実へと引き戻される。
脇腹の痛みがじわりと蘇り、世界の重さを再び思い出す。
帆を握りながら、クリオが声を張り上げた。
「おーい、カナルスが見えてきたぞ!」
カナルス……?
その土地の名を聞き、思わず顔を上げる。
――僕は朝まで眠っていたつもりだった。
だが違う。
すでに一日以上、時は過ぎていたのだ。
脇腹に手を当てる。
布越しに走る鋭い痛みが、その事実を突きつけてくる。
視界の先には、陽光を浴びた赤瓦の屋根と石造りの堤防。
運河の水面に反射し、きらめくように街の輪郭が浮かび上がっていた。
――カナルス。
西の隣国リヴァルナに築かれた交易都市。
セレストリアの商人も行き交う、国境の玄関口。
ユーナが小声で口を開いた。
「……帰りたいよね。でも、その前に――その傷をちゃんと治さないと。
カナルスにお世話になってる魔導士がいるから、とりあえずそこへ行こう?」
柔らかな囁きに、胸の奥が少しだけほどける。
シアナの顔が浮かぶ。
ユレッタで待つはずのレオの姿も。
帰りたい思いは確かにある。
けれど同時に、彼らが語った“神”の話が、なお心に影を落としていた。
何かを知りたいわけではない。
ただ、理由もなく胸の奥に残る衝動のようなもの。
ティルザの残像が、視界の隅にちらついて離れなかった。
◇
やがて、船は石造りの堤にゆっくりと横付けされた。
縄が杭に結ばれ、船体が小さく揺れて止まる。
三人が先に降り、僕もそのあとに続いてタラップを渡った。
足裏に石畳の硬さを感じた瞬間、胸の奥がかすかに震える。
――ほんの数日前まで、故郷のファルナから出たことすらなかった。
それが今、異国の石畳の上に立っている。
桟橋では商人たちが声を張り上げ、荷を積み下ろす音が絶え間なく響いていた。
耳に飛び込んでくるのは、聞き慣れたセレストリア語に似ていた。
――けれど抑揚が微妙に違い、妙な訛りが混じっている。
理解できるはずなのに、そこに滲む違和感が胸に残る。
潮と香辛料の匂いが入り混じり、空気そのものがヴァルデンとは異なっていた。
――ここはリヴァルナの交易都市、カナルス。
僕にとって、生まれて初めての異国だった。
ダルカンが歩調をゆるめ、僕の脇に並んだ。
「痛むだろうが、すぐに着く」
その声は穏やかで、かつての鋭さはもう感じられなかった。
――この人たちに、僕も確かに敵意を抱いた。
そして彼らもまた、僕を殺そうとした。
けれど今、互いの間にその気配はない。
まるで最初から争いなどなかったかのように。
不思議な感覚だった。
心の奥に残る警戒と、歩みを共にしている現実が噛み合わず、奇妙な空白が広がっていく。
石畳の通りを進むと、両脇には倉庫や商家が立ち並び、異国のざわめきと香辛料の匂いが風に混じって押し寄せてきた。
痛む脇腹を抱えながら、僕は初めての街を歩き出していた。
市場の前で、クリオがふいに立ち止まり、屋台のひとつへ足を向けた。
色鮮やかな果物が山のように積まれている。
その中から、彼はひときわ目を引く青い実を手に取った。
戻ってきたクリオが、それを僕に差し出す。
「アーシェ、食えるか?」
丸みを帯びた果実は、りんごに似ているが、澄んだ青色をしていた。
僕は思わず受け取り、軽く会釈する。
「……はい。ありがとうございます」
齧った瞬間、清らかな酸味とほのかな甘みが口いっぱいに広がる。
前世でも、この世界でも味わったことのない風味。
けれど不思議と、胸の奥にじんわりと温かさが広がっていく。
「……美味しい」
そう口にした僕を見て、クリオは満足そうに口の端を上げた。
「これはアズリンって果実だ。この辺の名物なんだ」
港町の喧噪と果実の酸味が、異国に立っている実感を強くする。
そうして市場を抜け、薄暗い路地へと入った時だった。
大きな人影がそこにあった。
獣人――
そういった存在がこの世界にいると知識では聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。
狼のような面差しを持つ、大柄な男。
鋭い金色の瞳が一瞬こちらを射抜き、やがてダルカンへと向けられる。
「ダルカンさん! 無事だったか?
ヴァルデンの兵に追われてるって聞いて、心配してたぜ」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
――そうか。もう、あの話は広がっているのか。
ならば、僕の捜索もすでに始まっているのだろう。
ダルカンが肩をすくめて答える。
「なんとかな」
狼の獣人は白い歯を見せて笑った。
……ただ、その牙が大きすぎて、笑顔の説得力は半分ほど消えていた。
「そっちのガキは新顔か? まだ若ぇのに大変だな。
……困ったら、なんでも言えよ!」
「……はい」
僕は笑顔を作って返した。
――おそらく、いい人なのだろう。
けれど、九歳の僕の感受性には刺激が強すぎた。
ユーナが手を振りながら声を上げた。
「着いたよ! この建物。おばあちゃん、いるー?」
外観は特に特徴のない、ごく普通の一軒家。
それでもユーナは迷いなく叫んでいる。
返事はない。
静けさが、不自然に長く続いた。
クリオが眉をひそめ、無言で扉を押し開けて中へ入る。
「ばあさん、帰ってきたぞ」
声は空気に吸い込まれ、返ってくるものはない。
やがて中から低い声がもれた。
「……いねーのか?」
ユーナ、そしてダルカンも続いて扉をくぐる。
僕は小さく息を吐き、最後に足を踏み入れた。
中は外観からは想像できない光景だった。
棚や机には、魔法に使いそうな瓶や鉱石、奇妙な器具がずらりと並んでいた。
独特の匂いと重たい空気が漂い、自然と肩に力が入る。
その時、クリオが奥に向かって声を張った。
「ばあさん、帰ってきたぞ!」
一瞬の静寂。
そして――
「……あんたら、うるさいよ」
低い声が、家の奥から響いてきた。
間もなく、杖の先が石床を叩く音が闇の中から伝わってくる。
こん……こん……と乾いた音が、静まり返った空気にやけに大きく響いた。
やがて姿を現した老婆は、背を丸め、乱れた白髪を振り乱していた。
それでも射抜くような目だけは衰えておらず、一歩ごとに影が濃くなっていく。
ただ歩いてくるだけなのに、場の空気がぴんと張りつめた。
僕は気づけば、自然と背筋を伸ばしていた。




