姉と弟
シアナにとって、僕は本当の弟だった。
前世の記憶を取り戻してから、父や母、エルミナ姉さんのことを、どこか遠くに感じてしまう瞬間があった。
けれど――シアナは違う。
彼女はいつだって、僕を弟として扱ってくれた。
誰よりも大切な弟として接してくれたから、自然と「姉」だった。
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アーシェの日記より
「姉は、僕にとっても本当に姉だった
フードの男が、一歩、また一歩と近づいてくる。
顔は深い影に沈み、その歩みには一片の迷いもなかった。
――まるで森そのものが彼を押し出しているかのように。
ヴァンとシアナが同時に気配を変える。
シアナは僕の前へ半歩進み、剣先のように鋭い視線を突きつける。
ヴァンは腰の剣に手をかけ、低く声を張った。
「……おい。ここから先は領兵が活動中だ。立ち入り禁止だぞ」
だが男は一瞥すらくれず、湿った空気を這うような声で言った。
「……ネフィルに贄を捧げたのは――誰だ?」
「……何言ってやがる」
ヴァンが眉をひそめ、吐き捨てる。
「こんな夜に一人で森へ入るなんざ自殺行為だろ。トカゲに食われてぇのか」
それでも男は歩みを止めない。
フードの奥から覗く視線は獣のように鋭く、僕を射抜いた。
――違う、とでも言うように、首をわずかに傾げる。
次にシアナを見て、また静かに首を振る。最後にヴァンへ視線を移すが、やはり顔を逸らした。
森を覆うのは、言葉より重い沈黙だった。
ネフィル――この国で「責と罪の神」と呼ばれてきた存在。
確かに、僕は神と会った。
それは確信していた。
けれど僕があの廃村で出会ったのは、ティルザ、“選択の神”だった。
この世界に神はいる。
その確信が僕にあった。
だからだろう。ネフィルという神の名。
その響きが、胸の奥へ深く沈んでいく。
男が僕を見据え、口を開いた。
「……貴様は、神の存在を感じられるか?」
その圧力は否応なく答えを強いる。
答える必要はないと分かっているのに、言葉が喉の奥まで押し寄せる。
衝動で口を開くな。理性で絞り出せ。適切な言葉を。
模範解答を。
僕は静かに答えた。
「……神はこの世界を創り、そして“意味”と“マナ”を授けてくださった存在だ」
短い沈黙のあと、男の口元がゆっくり歪む。
「……そうだな」
「……坊ちゃん、あいつはたぶん新律派だ。相当ヤベェ連中だって聞いてる」
ヴァンの言葉に息が詰まる。
男は再び口を開いた。
「……やはり、この地のマナは乱れているな。
もう一度だけ問おう!
神に贄を捧げた者は――いないのだな?」
その言葉で、僕は朧げながら理解した。
この男は僕を探しているのかもしれない。
僕がティルザに過去の選択を渡したことを――それを指しているように感じた。
『だが、答えてはならない。
開くメリットを感じない。』
次の瞬間、男の瞳がぎらりと光った。
黒い影が地を蹴り、稲妻のような速さで迫る。
抜き放たれた剣閃が、真っ直ぐ僕の首を狙って振り下ろされた。
「――ッ!」
ヴァンが飛び出し、その一撃を受け止めた。
火花が散り、金属音が森を裂く。
「……おいおい。お前さ、誰に斬りかかってるつもりだ?」
ヴァンが唸るように漏らす。
男の口元が歪んだ。
「まさか……ネフィルかと思っていたが。
――その子供が、ティルザに“餌”をやっているとはな」
その言葉は僕に向けて吐き捨てられた。
胸がどくんと強く脈打つ。
男の言っていることが、ぼんやりと理解できた。
しかし、何故、ティルザとの出来事が、この男にわかるのか?
心を覗かれているのか。
それとも、僕の中の“何か”を感じ取ったのか。
理由はわからなかった。
けれど、確かに――狙われている。
標的は、僕だ。
魔物でもない、人間から向けられた殺意。
それは、これまでの人生で一度も感じたことのない圧力だった。
胸の奥を、冷たい手で掴まれるように。
震えが、止まらない。
シアナが一歩前に出て、僕を庇うように剣を構える。
「またわけのわからねぇことを……」
ヴァンが唸る。
「だがな、おめぇらがヤベェ連中だってことだけは、有名なんだぜ」
火花が散り、剣と剣が拮抗する。
男が低く笑い、口を開いた。
「……幻狼の剣か」
ヴァンが鼻で笑い返す。
「へぇ、物知りじゃねぇか。まぁすぐに方をつけてやるよ」
男は剣を押し込みながら、口元をわずかに歪めた。
「そうか。だが――残念だな。三対一では、分が悪いと思うが?」
「……なに?」
ヴァンが素早く周囲に視線を走らせる。
僕も後ろを振り返った。
闇の中に、黒いローブをまとった影が二つ、音もなく立っていた。
息が詰まる。あの男一人でさえヴァンと互角以上に渡り合っている。
背後の二人の力量は見当もつかない――僕とシアナでは到底太刀打ちできないだろう。
絶望的な状況なことは明らかだった。
シアナが静かに口を開いた。
「私が二人まとめて斬りかかる。
その間に、アーシェは全力で逃げなさい」
その瞳には、迷いのない光が宿っていた。
――この決断を受け入れたら、シアナと二度と会えない気がした。
「一緒に逃げよう」
思わず出た言葉に、自分でさえ震えを覚える。
シアナは首を横に振った。
「お姉ちゃんの言うことを聞いて!」
声は震えているが、剣を握る手は揺るがない。
そして、ふっと寂しげに笑った。
「……ごめんね。
私がエルミナ姉さんみたいに強かったら……アーシェに、あんな悲しい顔をさせずにすんだのに」
胸が締めつけられる。
返す言葉を探す間もなく――
シアナが小さく詠唱を紡いだ。
風が弾け、見えない力が僕を後方へと押し飛ばす。
「シアナ……!?」
驚きの声を上げるより早く、彼女は地を蹴り新手の二人へ斬りかかった。
子どもだと侮っていたのか、ローブの一人が大きく弾き飛ばされ、もう一人は必死に剣を受け止める。
しかし、その刹那だった。
受け止められた剣が不穏に光り、稲妻のような電撃が走る。
「……!」
シアナの身体が痙攣し、弾かれるように地に崩れ落ちた。
「シアナ!!」
喉の奥から叫びが飛ぶ。
彼女は微かに震え、もう立ち上がれない。
首元に、冷たく容赦のない刃が突きつけられている。
フードの奥から、若い女の声が震えて漏れた。
「……この子、強すぎ。
クリオは吹き飛ばされてるし、私も……もう少しで斬られるところでした」
吐息交じりの嗤いが森に響く。
女は視線を逸らさずに、ヴァンと斬り合う男へ問いかけた。
「ダルカンさん……子供ですよ。
でも、目を覚ましたら次は危険です」
男は刃を受け止めたまま、わずかに目を細める。
「……本来なら、無駄な殺しは避けたいが」
その刹那、ヴァンが怒涛のごとく踏み込み、火花を散らす剣戟を浴びせかけた。
鋭い連撃が容赦なく襲いかかる。
だが男は動じない。
足を半歩引き、刃を正確に合わせ、淡々と受け流していく。
表情も息遣いも乱さず、ただ冷ややかに状況を秤にかけているようだった。
「……仕方ない。殺せ」
その声音には怒りも激情もなかった。
合理の果てに導かれた、氷のような結論。
森の空気が一瞬にして凍りつき、息をすることさえ重く感じられた。
ヴァンが歯を食いしばり、刃を押し返しながら吠える。
「……クソッ! 嬢ちゃん、動け――!!」
火花が弾け、夜を裂く金属音が響く。
けれど僕の胸には、その音も、その声も届かなかった。
頭の中で反響するのは、ただ一つ。
――殺せ。
その響きが、喉を塞ぎ、肺を締めつける。
視界の隅で、シアナが刃の影に沈んでいく。
震える手を見つめても、力はどこにも宿らない。
声を出そうとしても、音は零れない。
一歩踏み出そうとしても、足は地に縫い付けられたように動かない。
胸を満たすのは――抗えない動揺と、底の見えない絶望。




