紅蓮の遊戯
結界の砕け散る音が、なお耳の奥に焼き付いていた。
世界そのものが軋み続ける中――僕はようやく、自分が現実に戻ったのだと確信する。
すぐそばに、シアナの気配。背後には、レオが覆うように構えている。
奥では、ロイスが群れの王へと槍を突き立てていた。
鈍い衝撃が大地を伝い、巨体が大きく揺らぐ。
王は呻き声をあげ、膝を折る。
そのまま崩れ落ち、二度と立ち上がることはなかった。
――群れの王は討ち取られる。
しかし、終わりではなかった。
結界の破れ目から黒い影が雪崩れ込む。五体の魔物。
血に濡れたロイスへと、一斉に飛びかかる。
ロイスは即座に槍を振り抜き、迫る爪牙を弾き返した。
突き、払い、畳みかけ――どうにか群れを捌き、わずかに距離を取る。
深手はない。
だが、全身に蓄積した疲労が彼を鈍らせていた。
乱れ切ったマナが渦を巻き、戦場の輪郭を歪めていく。
僕の足元には、ミリアの盾が光を失い、地に転がっていた。
ヴァンとリィナが相対していた魔物は、すでにたおされている。
二人は動けぬミリアのもとへ駆け寄り、その前に立ちはだかった。
ノルドは傍らに膝をつき、必死に応急処置を施している。
戦場の入口近く。
僕のすぐ横にはシアナが剣を抜いたまま立ち、その背をレオが覆うように構えていた。
三人の立ち位置は自然と、僕を中心に重なり合う――守るための楔のように。
奥では、群れの王を討ち取ったばかりのロイスが、黒い影に囲まれていた。
五体の魔物が牙を剥き、彼を喰らおうと迫る。
疲労を隠しながらも、ロイスは槍を逆手に構え、一歩も退かずに立ち向かっていた。
『――怖い』
この状況に恐怖を感じないはずがなかった。
だが、あの時のように呼吸を奪われ、足が凍りつくほどではなかった。
鼓動は速いが、リズムは保たれている。呼吸も乱れていなかった。
……身体はまだ動く。理性も働いていた。
『これが――ティルザの言った“この世界を受け入れる”ということなのか?
もしそうなら、さっきの現象は幻覚ではない。
あの神は――本当に約束を守ったのか?』
建物の外で、更に十体ほどの影がうごめいていた。
屋根や割れ目の向こうに潜み、牙を剥きながらも、すぐには飛び込んでこない。
ぎらつく瞳がこちらを伺い、隙を探すように身を低くしている。
まるで、獲物の反応を観察しながら、時を待っているかのようだった。
「おいおい……!」
ヴァンが剣を構え直し、舌打ちした。
「ボスを倒せば逃げてくんじゃなかったのかよ!」
ノルドが短く息を呑み、冷静に返す。
「……奴らには、“仇討ち”の風習があるのかもしれません」
「仇討ちって……不味いぜ」
ヴァンの声に焦りが滲む。
血に濡れたロイスが、群れを見渡しながら吠えた。
「レオ! 責を果たせ! アーシェ様とシアナ様を連れて離脱しろ!
すでに目標は達成している!」
その声は、疲弊の色を隠しながらも鋭く澄んでいた。
命を削ってでも道を拓こうとする、その決意が誰の胸にも突き刺さる。
『なぜだろう。おかしい――怖いはずなのに、胸の奥で何かが高鳴っている。
あの神は言った。僕はこの世界をまだ受け入れられていない、と。
なら――受け入れるとは、こういうことなのか?』
指先がぞくりと熱を帯びた。小さな振動が、骨の先まで伝わってくる。
息を整えようとしても、胸の奥の高揚は消えない。
前世を含めて、この人生で感じたことのない種類の昂ぶりだった。
ほのかな光が、ゆっくりと指先に集まる。丸く、揺れるような小さな火の玉。
信じられない。
だが、確かにそこにある。炎は僕の意志に応え、ふわりと浮かんだ。
すぐに揺らぎ、消える。だが――確かに生まれた。
今まで、一度たりとも形にできなかった。
どれほど願っても、指先からは何も生まれなかった。
けれど今のは――紛れもなく、僕の手から出た火だった。
『いける』
仲間の位置は把握した。被害は出ない。
新手の魔物達は建物の枠でとどまっている。
焼けば一網打尽にできる。
『だが、本当にそんな火力が出せるのか?
いや、出せる』
僕らしくはなかった。
だが、九歳の子供にしか持ち得ない無根拠な確信が胸を満たしていた。
僕は息を吸い込み、声を張り上げる。
「皆さん退避してください。
――新手の魔物は、僕が一掃します!」
シアナが僕を見ていた。その瞳に驚きと戸惑いが揺れる。
脳裏に浮かぶのは、幾度もイメージしてきた姉の白い炎。
耳に焼き付いたあの詠唱をなぞり、建物を包むように炎を拡散するイメージを叩きつける。
詠唱の最後の言葉と同時に、手を振り抜いた。
――瞬間。
赤い炎が爆ぜ、奔流となって広がる。
轟音と共に枠を伝い、建物を覆い尽くしながら、新手の魔物たちを灼き払った。
炎の軌跡は闇を裂く閃光のように走り、視界を紅に染め上げる。
「アーシェ!?」
シアナが息を呑み、信じられないものを見る瞳でこちらを見ていた。
レオもまた目を見開き、ヴァンもノルドも、ただ動きを止めて炎の奔流を凝視している。
誰もが理解していた。
――これは、少年が初めて放った“力”だと。
だが――終わりではなかった。
炎に包まれた建物の中で、なお魔物たちは蠢いていた。
黒い影が炎の裂け目から這い出そうとし、こちらへ牙を剥く。
このままでは、火を抜けて襲いかかってくる。
「――アーシェ様が切り開いた退路だ! 皆、離脱する!
各々の判断で動け! 森の高台で合流だ! ……お二人はレオに任せる!」
血に濡れたロイスの声が、戦場に鋭く響いた。
レオが頷き、剣を構え直す。
その叫びと同時に、ロイスは目の前の魔物を槍で切り伏せ、
さらにもう一体を炎の壁へと叩き込む。
燃え盛る火が唸りを上げ、魔物の咆哮を呑み込んだ。
その隙に、彼は距離を取り後退していく。
「下がれ! 出口だ!」
ヴァンとリィナはミリアを抱え、ノルドと共に奥の出口へ駆け抜ける。
炎と怒号の中で、皆が生き残るために散開し始めていた。
――そして僕は。
自分の手から放たれた炎が建物を焼き尽くす光景を、ただ見つめていた。
呆然と。けれど、不思議と恐怖はなかった。
胸にあるのは、震えでも後悔でもなく、確かな実感だけだった。
ふいにシアナが僕の手を強く掴んだ。
「アーシェ!」
振り向けば、出口へ駆けるレオの背中が見える。
シアナに導かれるように、僕はその後を追い、燃え盛る建物を飛び出した。
背後で炎が爆ぜ、夜空を紅く染め上げる。
◇
燃え盛る祭堂をあとに、
僕たち三人は急ぎ足で村を抜けていった。
「アーシェ……ありがとう。また私を助けてくれて」
隣を走るシアナが、小さく息を切らしながら言う。
その一言が、胸の奥にじんと染み込み、熱を灯した。
「……本当にすごかったですね、アーシェ様」
反対側を並走するレオが続ける。
驚きと、誇らしさを帯びた声音だった。
二人の言葉を受けながら、胸の内に戸惑いを覚える。
けれど、その感情は恐怖でも重圧でもない。
ただ、嬉しさと誇らしさ。
――まるで初めて“少年”として生きているような感覚が、静かに湧き上がっていた。
◇
村を抜ける途中、道の先に二体の魔物が立ち塞がった。
牙を剥き、低い唸りで威嚇してくる。
「下がってください」
レオが一歩前に出て、剣を構えた。
……僕は、思った。
『――もう一度、やれる』
レオの横に出ようとした瞬間、シアナが僕の手を掴もうとした。
だが、僕はその手をかわして前に出る。
「アーシェ様……」
レオの表情がわずかに厳しくなる。
『もう一度できる。さっきの炎を――』
必死にイメージを描こうとした途端、視界がぐらりと揺らぎ、意識が遠のいていった。
「……っ!」膝をつく。
「アーシェ!」
シアナの悲鳴。
レオは即座に剣を振り抜き、迫る魔物を弾き飛ばした。
続けざまにもう一体を切り裂き、シアナが弾かれた魔物を追撃して斬り伏せる。
一瞬の連携で脅威は退けられた――かに見えた。
だが、その刹那。
炎の痕を刻まれたラザドラグが、背後の闇から姿を現した。
焦げた鱗を鳴らしながら、なお、生きている。
祭堂から――
僕らを、追ってきていた。
執念の塊のように、ぎらつく獣の眼が僕を射抜く。
僕の視界はゆっくりと歪み、音が遠ざかっていく。
……意識が沈んでいく。
振り下ろされる爪の動きが、ひどく緩慢に見えた。
鋭い軌跡が空気を裂き、僕の胸元へと迫る。
避けられない――そう理解するよりも早く、ただその刃が近づいてくるのを見ているしかなかった。
「アーシェ!」
シアナの悲鳴が、溶けかけた世界の奥で反響する。
「アーシェ様!」
レオの声が、最後の現実のように届いた。
その声が重なった瞬間、影を裂いてレオが飛び込んできた。
世界が引き延ばされたように、動きが緩慢に映る。
剣が閃き、獣の爪とぶつかり合う。
火花が散り、赤い軌跡が宙を裂いた。
……何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、レオが僕の前に立ち、爪を受け止めたことだけは確かだった。
耳鳴りの中、鮮やかな赤が視界に広がる。
だが、その先の全ては霞がかかっている。
レオの表情が一瞬だけ歪んだ。
それでも彼は振り返らず、僕を背に庇い続けていた。
ラザドラグの影が、再び爪を振り上げる。
その動きがやけに重く、遅く――まるで世界が粘つくように見えた。
次の瞬間。
「退けぇぇッ!」
雷鳴のように轟いた咆哮が、現実を叩き割った。
――ロイスだ。
その声だけが、鮮明に耳を貫いた。
視界の端で、槍が閃いた気配が走る。
魔物の影が、大きく揺らいだ……。
それ以上は霞み、現実も幻も区別がつかない。
赤と黒の渦に飲まれ、世界が遠のいていった。
最後に残ったのは――ロイスの声だけ。
その声を胸に抱いたまま、僕の意識は闇に沈んでいった。
意識が、少しずつ澄んでいく。
視界の端で、ロイスが必死に布を巻きつけているのが見えた。
赤く濡れた地面。滴り落ちる血に染まる包帯。
何を縛っているのか――最初は理解できなかった。
ただ、胸の奥が不気味にざわつき、息が詰まる。
そして、気づいてしまった。
レオの右脚は、もうそこにはなかった。
胸の奥を、冷たい刃が静かに抉る。
『僕が――無謀なことをしたから。
考えなしに飛び出したから。
もし、わきまえてさえいれば。
レオは……』
涙が滲み、視界が揺れる。
それでも、その向こうでレオは――笑っていた。
痛みに歪むはずの顔で、あえて穏やかさをつくり。
まるで「大丈夫だ」と告げるように。
僕を安心させるためだけに、その笑みを浮かべていた。
耳の奥に、あの声が甦る。
「……僕は、この国の外に出てみたい」
「まだ見ぬ世界を歩き、その冒険を記録に残したいんだ」
胸が締めつけられる。
わかってしまったのだ。
僕が……彼の夢を。
彼の選択を――奪ってしまったのだ。
そう気づいた途端、涙はあとからあとから溢れ、傾いた光のなかへ、静かにこぼれ落ちていった。
紅蓮の代償
ときに、選択には代償が伴う。
燃え立つ意思が道を切り拓くとき、
その炎は誰かの未来をも焼き尽くす。
人はただ一つの道しか選べない。
踏み損ねたもう一つの道は――神のみが知る。
出典:『選定の祝福録』外典 第九章「紅蓮の断章」




