白銀の劇場 ― 代償と恩賞
群れの王が断末魔をあげた瞬間、世界が、裂けた。
耳を灼くはずの咆哮は、途中で、ふっと途切れたはずなのに――
視界が、ぐにゃりと歪む。
石畳が沈み、空気そのものが、ひび割れるように軋んだ。
この場のマナが、渦を巻いている。
それは、直感で理解できた。
違和感があった。
まるで、誰かに――
いや、「何か」に、見られているような感覚。
そして――
次に視界へ戻ってきたのは、
ほんの一瞬前まで存在していた、あの戦場だった。
ミリアの光壁が悲鳴を上げ、火花が散る。
ヴァンが吼えて剣を振り抜き、リィナの短剣が閃く。
その最前で、ロイスが灰色の闘気を纏い、群れの王と刃を交えていた。
王は血を滴らせながらも、なお咆哮し、剛腕を振るう。
『――何故だ?
ロイスの、あの一撃は確かに致命傷だった。
なぜ、王とまだ戦っている?』
そして――そこに、シアナの姿はなかった。
ノルドも、レオもいない。
声も気配も、戦場からごっそり抜け落ちている。
その欠落が、喧騒よりも強く胸をざわつかせた。
何かが決定的におかしい。
次の瞬間、景色はノイズのようにざらつき、唐突に断ち切られた。
⸻
黒く濁った森。
木々はねじれ、葉は黒ずみ、風の音すら消えている。 ――魔響区。
世界から響きが絶えた森を、炎が呑み込んでいた。
赤い奔流が幹を裂き、灰が空に舞う。
熱風が頬を焼くのに、耳は奇妙に鈍く、爆ぜる音さえ遠い。
空からは火の雨。
地上にはアルヴェイン本家紋章をつけた兵が整然と並び、無表情に呪文を唱えている。
ためらいなく、森を徹底的に焼き払っていた。
『――なぜ、本家の軍が……?』
問いごと、森はぱたりと掻き消えた。
⸻
再び視界が変わった。
そこもよく知る場所、そして、今も記憶に強く残る光景だった。
ファルナの屋敷。
シアナの部屋。
薄暗い室内に、沈黙だけが満ちていた。
ベッドに横たわる彼女は、まるで眠っているように静かだ。
だが、その胸は二度と上下しない。
母リアナは肩を震わせ、声にならない嗚咽を洩らし、エルミナは冷たい手を握ったまま俯き、オルフェは扉際に立ち尽くし、視線を落とす。
呼び声も、すすり泣きも、すべて吸い込まれるように消えていく。
部屋は完全な沈黙に沈んでいた。
『――そんなはずはない。
僕の記憶とは、いや、僕の生きている今とは違った。
シアナが……死んだ』
喉が詰まり、息ができない。
涙が頬を伝っても、景色は淡々と事実だけを突きつけてきた。
⸻
――視界が滲む。
いや、滲んでいるのは涙だけじゃない。
空間そのものが、ざらざらとノイズを走らせるように揺らいでいた。
光も音も崩れ落ち、闇だけが広がる。
意識が引きずり込まれ、足元の感覚が失われていった。
そして
その闇の奥から、声が響いた。
「――もしも、君が別の道を選んでいたら。
シーズン1。
これにて、上映終了でーす! パチパチ」
乾いた拍手。
軽薄で、やけに甲高い声が、空間に響いた。
気づけば僕は――
前世で訪れた、映画館のような空間に立っていた。
強烈な銀色の照明が、視界のすべてを支配している。
その色は、僕にとって――
レールの色。
メスの色。
そして、
腰に差した短剣の色。
無機質な鉄の色だった。
整然と並ぶ椅子の列。
見上げれば、どこまでも高い天井。
空気は澄みすぎていて、音さえも、滑るように消えていく。
ただ――
スクリーンには、何ひとつ映っていなかった。
そして、その前に。
まるで最初から
そこにいるのが当然だったかのように――
銀色の存在が、立っていた。
その存在は、全身をひらひらとした衣で包んでいた。
それは布のようで、しかし金属のようでもあり、動くたびに光を反射して形を変える。
人の姿に近かった。
だが、性別も年齢も、輪郭さえも、はっきりとは掴めない。
顔のあるはずの場所には――
銀色の“何か”があった。
覆っている、というより、最初から見せるという選択肢が存在しないかのように。
目があるのかどうかも分からない。
それでも、こちらを見ているという感覚だけは、確かにあった。
「――はじめまして、かな?」
その銀色の存在から再びあの声が響いた。
『……なんだコイツは?
マナ異常による幻か?
いや、妙にリアルだ』
「さっそくですがぁ! ここからシーズン1のタイトル発表といきまーす! パチパチ!」
また乾いた拍手。
「パート1! タイトルは――『僕が行かなくてもよかった』!
仲間たちが大活躍。君いなくても世界は回るってやつ! 存在意義が揺らぐねぇ!」
『何を言っているんだ?』
「パート2! タイトルは――『森焼かれる、僕が選ばなくて』!
めっちゃ強そうな軍隊がズラーッと並んで、森ごと火の海! ……うん、ぜんっぜんエコじゃないねぇ!」
『さっき見た光景のことを言っているのか?』
「そしてラストォ! パート3! タイトルは――『僕が選ばなくて姉が死んじゃったー!』!
おおっと、これは大号泣必至! 涙なしには見られない!」
『なんなんだこいつは?――ふざけてるいるのか?』
僕は黙って、この得体の知れない存在を睨みつけた。
「いや、ごめんごめん。冗談冗談!
そんな睨まないでよ。
せっかくの出会いなんだから、感謝感謝!」
影は肩をすくめ、軽やかに言葉を重ねる。
「僕はね、あの有名な――白銀のティルザ!
一応、神様さ。知ってるだろ?」
――ティルザ。
『確かに、その名を本で目にした記憶はある。
それは、選択を司る神の名だ。
だが、そんな存在が本当に実在するのか……?』
「話を戻すけど――たしかに僕は神様だよ。
でもね、別に未来が見えたりさ、なんでもわかるってわけじゃないよ。
さっき君に見せたのも、あれは“もしも君が別の選択をしてたら”って可能性。
そんな、大げさなもんじゃないよ。
……まぁ、精度は九九パーセントぐらいかな。
たいしたことないでしょ?」
ティルザは肩をすくめ、軽い調子で言い切る。
その軽さの裏に、逃れられない確信が滲んでいた。
「君ってさぁ、ほんっと根暗だよね。
全然喋らないし。
せっかく有名な神様に会えたんだからさ、何か聞きたいことくらいあるでしょ?
それか、記念写真でも撮るとかさ? どうよ?」
白銀の袖がひらひらと踊る。
だが顔は影に覆われ、表情は一切見えない。
『――写真?
この世界に、そんなものは存在しないはずだ。
何を言っているんだ、コイツは』
僕は試しに口を開いた。
「……写真って、なんですか?」
白銀の影は大げさに声を張り上げた。
「うあーー! やっと口を開いたと思ったら……
かまをかけるつもり? 神様に?
普通、最初に言うのは“はじめまして”とか“自己紹介お願いします”とかだろ?」
袖をひらひらと振りながら、声だけは愉快そうに響く。
顔は影に覆われたまま、やはり見えない。
「まぁ、中身がおっさんだから、そっか……。
君さ、僕のお尻掴んで、あっちからやってきたんだよね?
もう気づいてるでしょ?
自分が“転生者”で、別の世界から来たってこと。
ほら、僕、これまでたくさんヒントもあげたしさ……あっ」
ティルザは唐突に口を閉ざす。
続きを飲み込んだ沈黙が、胸の奥に、ざらりとした違和感を残す。
――転生者。
白銀の存在は、僕以外、誰も知るはずのない事実を、当然のように口にしていた。
ティルザは大げさに咳払いし、幕開けのように両腕を広げる。
「でもさーー残念なお知らせでーーす!
シリーズ2は制作中止! まことに遺憾! パチパチ!」
乾いた拍手が、誰もいない劇場にこだまする。
「だってさぁ、主役である君が、ここらで死んじゃう予定だからね。
あーーあ、続編、楽しみにしてたのになぁ!」
――死ぬ。
その響きが、胸の奥でひどく静かに広がった。
思わず言葉がこぼれる。
「……次に死んだら、どうなるんですか?」
影はぱっと顔を上げ、嬉々として両手を打ち鳴らす。
「おっ! 質問入りましたーー!
それではティルザさん、華麗に回答といきましょう!」
「次に死んじゃうとねぇ……
うーん、うーん、あっ!そうだ!あれあれ!そう!
お星様になっちゃいまーーす!」
『ーーやはりふざけてるだけなのか?』
跳ねる声が闇を弾き、拍手が乾いた笑いのように響いた。
影は舞台を落ち着きなく往復し、腕を組み、顎に手を当てる。
観客のいない席を見渡し――
「んーー……悩むなぁ……」
「でも、やっぱり続き見たいんだよねーー」
「うーん……どうしようかなーー」
わざとらしい間を引き延ばし――唐突に手を打つ。
「あっ!!」
甲高い声が弾けた。
「君、魔法つかえないよね?」
鼓動がひとつ跳ねる。
「ちょっとでもさ、魔法が使えたら、生き残れるかなーー?
もっと面白くなるかなーー?」
白銀の袖がひらりと舞う。
「よし! じゃあ質問。
なんで君、魔法を使えないか、わかる?」
思わず口が動いた。
「……この世界の人間じゃないからですか?」
「ぶーーーーッ!はずれーー」
ティルザは大げさに両手を広げて叫んだ。
「――君ね、信じてないんだよ。
“魔法なんてあるわけない”って、心のどこかで思ってる。
元の世界にはなくて、この世界にだけあるものを――
君は、まだ受け入れきれていない」
「君のリメアには、まだ“魔法”が存在していない」
銀色の神の声が、静かにこの白銀の劇場へと響いた。
胸の奥が、かすかにざわめいた。
『この世界で生きてきた、見たものは感じたことは受け入れてきた。
否定した覚えもない』
けれど――ティルザのその言葉だけが、不思議と心の底に沈み、離れなかった。
けれど――言葉の端が、不思議と無視できずに残った。
「君さーもう九年以上この世界で暮らしてるんでしょ?
それでもまだ信じきれないなんて……相当ひねくれてるよ、君!」
白銀の袖がひらりと舞い、影は楽しげに笑う。
「でもね――僕なら、それを“受け入れられる”ようにしてあげられるよ」
舞台の中央に立ち、誇らしげに声を響かせる。
「今の君を形づくってる“選択”。
そのうちの――ほんのすこーしを僕にくれたらね」
『――選択?』
「……選択を渡すってどういうことですか?」
問い返すと、影はにやにやと声を弾ませた。
「いやいや、そのまんまの意味だよ。
君だって覚えてるでしょ?
勉強するか、テレビ見るか。
パパの言うこと聞くか、兄の言うこと聞くか。
前に出るか、後ろに下がるか。
そういう小さな積み重ねが――今の君を作ったんだ」
胸の奥がざわつく。僕はかすかに首を振る。
「……そんなのは、選択と言わない」
「えぇーー?」
影は大げさに目を見開き、すぐに手を叩いて笑った。
「だから君はダメなんだよ。
決断とか意志とか――そういう“大きなこと”ばっかり意識してさ。
でもね、人を形づくるのは日々のちっちゃな習慣の積み重ねなんだよ!
“お金持ちになる習慣10選”とかよく聞いたでしょ? あれそれ!」
袖をひらひらと振りながらケタケタと笑う。
その軽薄さが、かえって不気味さを際立たせていた。
影はふいに声を弾ませる。
「あっ! もしかしてビビってる?
自分が自分じゃなくなっちゃうんじゃないかって?」
わざとらしく首をかしげ、すぐに大げさに手を振る。
「大丈夫大丈夫。ちょうど良さそうなのを――百か二百くらい?
それだけもらうだけさ。
そうしたら君は――もっと、この世界を受け入れられるようになる。
するとね、あら不思議!
今まで届かなかった力に手が伸びて……魔法が使えるようになっちゃうんだ」
舞台の中央で胸を張り、芝居がかった声を高らかに響かせた。
「君のオペより上手いよ。
なんたって僕は――選択の神だから!」
⸻
ティルザの声は、冗談めいた軽口のままだった。
だが――話があまりに具体的すぎた。
僕は確信した。
コイツは本物だ。
本物の――ティルザ。
だが?
――信じていいのか?
確かに、僕はいま危険な戦場のただ中にいる。
この神が告げたとおり、死がすぐそこまで迫っているのかもしれない。
それでも――考えた。
『この神の言葉を信じ、受け入れるなら、リスクは限りなく低い。
第一に、この存在が本物の神だとすれば、僕と対等であるはずがない。
圧倒的に上位の存在が、わざわざ提案を持ちかける理由など――
反応を試すためか、興味本位の観察か。
いずれにせよ、僕に拒む術はない。
ならば、損得で考えれば答えはひとつ。
リスクはほとんどないように感じる。
メリットは――この世界で生きるための武器が手に入る。
……受け入れるべきだ。
それが、合理的な判断だ』
「……お願いします」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥に冷たい震えが走る。
影は間髪入れず、ぱんっと手を叩き、芝居がかった声を響かせた。
「おっけー! 契約成立! 終わったよ!」
「……え?」
あまりにも軽い調子に、思わず声が漏れる。
「これでさ、魔法使えると思うよ。
でも僕、サービス悪いから――アフターケアはなし ね。
ま、ちょっとは才能はありそうだし、リザードマンくらいなら、なんとかなるんじゃない?
あ、そうだ。おまけもつけといたから……お楽しみ に」
白銀の袖をひらひらと揺らし、飄々と笑う。
「じゃあ、次は――君がもう少し“大人”になったときに、
“シーズン2”の試写会に呼んであげるよー。
それまで無事で、ちゃんと頑張っててねー
――チューズ!」
闇に溶けるようにティルザの姿が消えた。
劇場も拍手も声も――すべて霧散し、静寂だけが残る。
次の瞬間、意識がぐらりと揺れ、視界に現実の色が戻ってきた。
◇
石畳、火花、結界の光。
胸の奥に、名もつけられない感覚が残っていた。
理由はわからない。
けれど――これまで遠く霞んでいたはずの何かが、急に手を伸ばせば届きそうな距離にある。
その錯覚が、微かな熱となって体の内側に滲んでいた。
だが、現実は待ってはくれない。
結界の内側では、すでにマナが荒れ狂っていた。
空気は軋み、光はきしみ、見えない潮流が暴れるように渦を巻く。
そこへ――群れの王の断末魔が、最後の楔のように叩きつけられる。
轟音は消えたはずなのに、残響だけが結界を震わせた。
その咆哮の余韻が、乱れたマナをさらにかき乱していく。
――バリンッ。
甲高い破砕音が夜気を裂く。
結界に走ったひびが光を散らし、一気に砕け散った。
押し寄せるマナの奔流。
極限まで乱れた気配が雪崩れ込み、空気がひっくり返るように震える。
魔物の群れが――結界を破った。
砕け散る音の余韻だけが、闇の底に長く響いていた。
白銀の救済
迷い彷徨う者の前に現れ、進むべき道を照らす存在。
だが、その救済は決して無償ではない。
導きと引き換えに奪われるのは――“選択”。
現在を生きるために、差し出すのは過去。
出典:『選定の祝福録』外典 第七章「白銀の劇場」




